津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■岡崎鴻吉氏と十代相続寸志50石・岡崎源右衛門

2018-03-11 10:14:17 | 歴史

 「熊本御城下の町人ー古町むかし話」は、著者・岡崎鴻吉が実家に残された種々の文書を、戦火で焼失するのを恐れ書き残したものだとされる。彼が小学生の時分、生徒のほとんどが商家の子弟であったが、その中に一人だけ「金あげ士族」があったと記している。
岡崎の生家は酒屋であったそうだが、「くまもと商家物語」をよむと、岡崎家は毛利元就を祖とする市原家の姻戚らしい。
大四つ角と呼ばれた米屋町一・弐丁目に西市原家、東市原家(岡崎酒店)があり、岡崎鴻吉氏は後者のご出身だろうか。

          

 その著に「仇討實録の創作」という興味深い項が立てられている。
俳人一茶の日記にも登場する事件がある。
     (文化九年)六月九日京都木屋町旅宿にてひこ両(肥後領)米屋町市原屋俊十郎にきず付
     逃去金屋町(紺屋町)嘉平次(嘉次平)人相書出

場所が京都であり、犯行捜索の為に人相書が出されたことが記されている。
この俊十郎は岡崎惣七郎の七男で、何があったのか召し連れた嘉次平に疵を追わされ翌日死去した。嘉次平は逐電した。
17年後俊十郎の遺児安三郎(21歳)は、仇敵嘉次平が甲佐手永の寺に居ることを知り、剣の修業を積んだ建部九郎助の同門の人を助太刀に頼み出かけ、甲佐・正宗寺にいる嘉次平を見つけ出した。そして見事親の仇討ちを果たしている(文政12年1月15日)

この美談は厄介な問題をはらんでいた。この顛末は安三郎伯父・岡崎源右衛門から藩庁に届けられた。しかし嘉次平は公儀のお尋ね者であり、これを無断で殺害に及んだことは、たとえ親の仇討ちとはいえ手続きを必要とするものであった。
藩庁は事後処理に苦悩する。そこで藩庁は「仇討顛末を創作」し、一同この通りに口を揃えさせ公儀に申し立てをせよと通達した。
その通達の文章(文政12年2月18日付)が岡崎家に残されており、ここでは省略するがこの項で紹介されている。
江戸藩邸に送られた書類は3月8日付、江戸詰寺本亀蔵の名を以て幕府へ提出された。4月8日幕府からの「お構いなし」の達しがあり、これが熊本へ到着したのは5月中旬である。その間藩庁による形式的処分「外出差し控え」も、幕府の「押し込め差免」により解除された。

安三郎(改名して平左衛門)は明治中期まで存生し、毎年1月15日には仇討ちに出る朝食したものと同様の食事をとったという。

「細川家家臣略歴」をみると、十代相続寸志(50石)に安三郎伯父・岡崎源右衛門の名前が見える。源右衛門は三代目であり四代迄の名が記されている。
商家の子弟ばかりの同級生のなかの、たった一人の「金あげ士族」なる子は、著者岡崎鴻吉氏ご自身ではなかったのだろうか?。

付足し
「熊本藩町政史料・一」の明和2年3月27日項に「市原屋惣七郎寸志差上、数代別当役相勤家筋旁ニ対シ、別当列ニ被仰付段御達有之候」とある。
又、明和7年5月23日項に「市原屋惣七郎、中古町別当再役被仰付、同役両人之上座ニ被附置旨御達有之候」とある。
又、文政12年7月6日項に「文化九申年九月人相書を以て相達候、肥後国熊本金屋町嘉次郎(ママ)儀、同年六月九日同国熊本米屋町市原屋俊十郎供ニ被雇、京木屋町二条下ル弐丁目ニ罷在候節、同人へ手疵を負せ逃去り、俊十郎ハ、相果候処、当正月十五日肥後国益城郡横辺田村ニおいて忰平左衛門儀、父之敵右嘉次郎を討留候間不及相尋候、其後向々へ可被相触候、以上」とある。



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■寛永より寶暦迄・郡中法令(15)

2018-03-11 08:13:13 | 史料

 三二五 
   覺
一諸御郡村々庄屋共手前ニ有之候諸帳之儀、庄屋役替候節
 ハ右躰帳目録相添、御惣庄屋え差出、御惣庄屋相改、新
 庄屋え引渡申筈之處、間ニは其儀詳ニ無之所も有之由ニ
 候、向後之儀右極之通、庄屋役代り候節は、前々より有
 來候諸帳は勿論、當庄屋代ニ仕立候諸帳、又は後年見合
 ニも可相成書付紙面等も有之候ハヽ、夫共ニ目録ニ相調、
 御惣庄屋え指出、目録ニ引合改有之、御惣庄屋奥書印形
 仕、新庄屋へ引渡、随分入念指置候様可被申付候、若不
 意も有之、右帳面等之内紛失等も有之節ハ、其段早速御
 惣庄屋へ相達候様ニ可被申付置候、且又右諸帳等請取候
 との儀、新庄屋より手形相認、先役え相渡候様ニ是又可
 被申付候事
   寶暦三年十月      郡奉行

 三二六
一河尻津方御役人、馬瀬・高良・御領・松橋え被指出、出
 入之荷物改、運上銀極方等被仰付候二付て、御沙汰紙面
 差越候條、夫々無相違様相心得可被申候
一村々問屋、津横目共えは不直之取計不仕候様との儀、各
 手前より相改、稠敷被申付候
一津方會所取建候積出之儀は、宇土・下益城小頭共立會積
 立候様可被申談候、尤御沙汰之通津方承合可被申候
一下益城申談候儀、高良・馬瀬共ニ同前之事ニ候、左様被
 相心得、両郡得斗可被申談候
一津方御役人宿之儀、會所出来迄今迄之通ニて可有之候、
 仕夫ハ渡申ニ不及との御沙汰ニて候條、夫銀ハ入申間敷
 候、然共油代等ハ宿より出候哉、其外ニも宿より出方仕
 候儀有之候ハヽ、何々入用一日ニ何分宛と申儀書出せ可
 被申候
一此間數十日之入用分、幾日より幾日迄との儀有筋明白ニ
 書出せ可被申候
一津方會所令出来、御役人移込候迄は、少も入目なしと申
 事も有之間敷候間、一向移込候上ニて都て一同ニ書出せ
 候ても可然候
一委細御沙汰之通、得度被相考、無相違様心得可被申候
一下益城御郡奉行衆へも、委細申談置候、以上
   寶暦三年十一月晦日       武藤助左衛門

 三二七
   覺
一諸御郡海邊・川筋塘御普請之儀、只今迄所附塘奉行被仰
 付置候處、此度塘奉行被差止、各御請込候て御惣庄屋共
 ニ受持日仰付候間、左様御心得可有其沙汰候、尤御惣庄
 屋迄ニて手足不申所柄は、一領一疋・地侍之内より一両        一領一疋・地侍を御家人と称し定義する一文 
 人宛助役被仰付、右御家人共えは當時迄塘奉行受取來夫        惣庄屋の許一両人が助役を勤め、勤料を被渡下
 給銀直、為勤料被渡下ニて可有之候間、此段も可有御沙
 汰候
 右之通御請込日仰付候上ハ、御普請方始末之儀、随分御
 勘辨候て宜有御取計候、右御家人塘之内より助役御申付
 候所々之儀は、仁柄各御吟味候て夫々御沙汰候て、追て
 名付此方え可有御達候事
   以上
   寶暦四年戌閏二月

 三二九
   覺
 町在之者通用之舛、先年極印打置候様令沙汰候處、間ニ
 はゆるかせ之所も有之様子ニ候、以来彌以堅可被相心得
 候、若紛敷舛を致通用候ハヽ、町在共ニ其所之役人共・
 五人組共越度可被仰付候間、常々相互ニ吟味可仕事
   以上
   寶暦四年五月

 三三〇
   覺
一享保十七年在中拝借之種子籾之儀は、永代利米上納可仕
 證文ニて拝借被仰付置候事候得共、此節右元米御捨被下
 候間、當年分利米より相納ニ不及候、尤去年迄之利米之
 内不納仕居候分ハ、相納候様ニ被仰付候事
  但、當年之利分之内、若此節迄少々相納候所も有之候
  ハヽ、其分ハ御年貢米ニ立用可被仰付候間、御蔵方小
  切手受取替可被申候、御蔵/\えも及其沙汰候事
   寶暦四年戌十月廿四日       堀平太左衛門 
 

 三三三
一酒造米之儀、諸國共元禄十五年之石數、寒造之儀定數三
 分一ニ限、此外新酒一切か令禁止旨、正徳五未十月相觸
 候、其後酒造米之儀相觸候儀無之候ニ付、今以右之定數
 ニ相極め事ニ候、以来は諸國共元禄十丑年之定數迄は新
 酒・寒造等勝手次第たるへし、但休酒屋之分も是又酒造
 り申分ハ、其所々奉行所、且御料(領カ)は御代官、私領ハ地
 頭え相居、以来は酒造候儀勝手次第たるへく候、但酒造
 米高、其國々員數不相知分ハ御勘定所か承合事
   寶暦四年戌十一月

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