「熊本御城下の町人ー古町むかし話」は、著者・岡崎鴻吉が実家に残された種々の文書を、戦火で焼失するのを恐れ書き残したものだとされる。彼が小学生の時分、生徒のほとんどが商家の子弟であったが、その中に一人だけ「金あげ士族」があったと記している。
岡崎の生家は酒屋であったそうだが、「くまもと商家物語」をよむと、岡崎家は毛利元就を祖とする市原家の姻戚らしい。
大四つ角と呼ばれた米屋町一・弐丁目に西市原家、東市原家(岡崎酒店)があり、岡崎鴻吉氏は後者のご出身だろうか。
その著に「仇討實録の創作」という興味深い項が立てられている。
俳人一茶の日記にも登場する事件がある。
(文化九年)六月九日京都木屋町旅宿にてひこ両(肥後領)米屋町市原屋俊十郎にきず付
逃去金屋町(紺屋町)嘉平次(嘉次平)人相書出
場所が京都であり、犯行捜索の為に人相書が出されたことが記されている。
この俊十郎は岡崎惣七郎の七男で、何があったのか召し連れた嘉次平に疵を追わされ翌日死去した。嘉次平は逐電した。
17年後俊十郎の遺児安三郎(21歳)は、仇敵嘉次平が甲佐手永の寺に居ることを知り、剣の修業を積んだ建部九郎助の同門の人を助太刀に頼み出かけ、甲佐・正宗寺にいる嘉次平を見つけ出した。そして見事親の仇討ちを果たしている(文政12年1月15日)
この美談は厄介な問題をはらんでいた。この顛末は安三郎伯父・岡崎源右衛門から藩庁に届けられた。しかし嘉次平は公儀のお尋ね者であり、これを無断で殺害に及んだことは、たとえ親の仇討ちとはいえ手続きを必要とするものであった。
藩庁は事後処理に苦悩する。そこで藩庁は「仇討顛末を創作」し、一同この通りに口を揃えさせ公儀に申し立てをせよと通達した。
その通達の文章(文政12年2月18日付)が岡崎家に残されており、ここでは省略するがこの項で紹介されている。
江戸藩邸に送られた書類は3月8日付、江戸詰寺本亀蔵の名を以て幕府へ提出された。4月8日幕府からの「お構いなし」の達しがあり、これが熊本へ到着したのは5月中旬である。その間藩庁による形式的処分「外出差し控え」も、幕府の「押し込め差免」により解除された。
安三郎(改名して平左衛門)は明治中期まで存生し、毎年1月15日には仇討ちに出る朝食したものと同様の食事をとったという。
「細川家家臣略歴」をみると、十代相続寸志(50石)に安三郎伯父・岡崎源右衛門の名前が見える。源右衛門は三代目であり四代迄の名が記されている。
商家の子弟ばかりの同級生のなかの、たった一人の「金あげ士族」なる子は、著者岡崎鴻吉氏ご自身ではなかったのだろうか?。
付足し
「熊本藩町政史料・一」の明和2年3月27日項に「市原屋惣七郎寸志差上、数代別当役相勤家筋旁ニ対シ、別当列ニ被仰付段御達有之候」とある。
又、明和7年5月23日項に「市原屋惣七郎、中古町別当再役被仰付、同役両人之上座ニ被附置旨御達有之候」とある。
又、文政12年7月6日項に「文化九申年九月人相書を以て相達候、肥後国熊本金屋町嘉次郎(ママ)儀、同年六月九日同国熊本米屋町市原屋俊十郎供ニ被雇、京木屋町二条下ル弐丁目ニ罷在候節、同人へ手疵を負せ逃去り、俊十郎ハ、相果候処、当正月十五日肥後国益城郡横辺田村ニおいて忰平左衛門儀、父之敵右嘉次郎を討留候間不及相尋候、其後向々へ可被相触候、以上」とある。