お昼から散歩に出て4㌔ちょっとを歩きました。
私は当然眼鏡をしてマスクを着けて外出しますが、歩いている時は感じませんでしたが、帰ってきてから猛烈な目のかゆみが出て、目薬を差したくらいでは何の足しにもなりません。
先にも書きましたが、眼窩の水気がなくなったのかと思うくらい、眼球の後ろっ側がかゆいという感覚です。
お陰様でクシャミや、さらさら鼻水たらたら現象はないのですが、これも時間の問題でしょうか。
本当にこの時期いやですね~。皆様もご用心の程を・・・
肥後細川家の祖・藤孝(幽齋)には10人の子女(五男五女)がある。
忠興、 興元、 伊也、 幸隆、 加賀、 千、 栗、 孝之、 蓮丸、 仁伊
家記ではすべて室・麝香の子だと記されているが、栗は養女で細川輝経女らしい。
細川護貞さまがその御著に「一人だけ養女」と記されていたし、三淵家記には上記の如く記されている。
こうしてみると、藤孝は聖人君子のような人に思われるが、後に日出藩主・木下延俊に嫁いだ加賀は幽齋の側室の子であることを見出した。
細川家記では加賀についてはその生年が不詳だと記されている。おかしいとずっと思っていたが、10年ほど前偶然「伊丹家」関係系図を入手した折に、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛(如水・孝高)を救出した加藤又左衛門女である事が判明した。
加藤氏は伊丹氏であるが、その接点を探しているがこれがとんと判らない。
木下延俊の慶長十八年の記録「慶長十八年日次記」をよむと、加賀は慶長9年に亡くなっているが、二男三女の内、嫡男は7歳で早世、二男は14歳で死去した。長女・於岩は京都、次女於豊は国元日出、三女於栗は江戸に置かれたらしい。
この日次記に長女の於岩が慶長6年当時12歳であったというヒントがある。そうすると生まれは天正18年くらいか?
上に二人の男子があるから、結婚は14・5年くらいであろう。そうすると生まれは天正の初めかそれよりも前になる。
直ぐ上の兄幸隆が元亀二年(1571)の生まれであることから、この後か三年・四年?
藤孝は將軍義輝に従い流浪の後、信長につき青龍寺に戻った時期である。加賀の生誕地は青龍寺であることは間違いなさそうである。
こんなくだらない謎解きを楽しんでいる。
「商品詳細」によると、「藤孝公御具足 他 2冊」とあり、「侯爵細川家用箋 江戸後期写9丁 24.9×17cm 仮綴、少虫食い」とあります。藤孝公ほか、忠興公・忠利公御具足もあるようです。
私には初見の内容です。