新熊本市史・通史編 第二巻‐中世を読むと、「慶長11年頃から小天守や御花畑館の工事が始まり、三年後(14年)に完成した模様である」とある(p539)
どういう状態で花畑館が完成したのだろうかと妄想している。
14~5年当時は未だ白川の大蛇行は流路の変更には至っていなかったと思われる。
花畑館は大蛇行のこぶの先端部分に、このような形で在ったのだろう。
矢部の愛藤寺城が破却されたのは慶長17年だとされるが、ここにあった大広間が花畑館に移築されたというから、大掛かりな殿舎の建設はある程度進みこれを増築したというのであろうか。
橋はどこにあったのか?舟で渡ったのか?
そういえば、竹之丸から花畑邸に屋根のかかった橋がかけられていたという話を聞いたことがある。
大阪城・極楽橋 竹生島に残る遺構
大阪城の「極楽橋」のようなものであったのかもしれない。しかしこれとて竹之丸が整備され、長塀が整備された後の事だと考えると、清正の時代と云うよりも忠廣の時代かもしれない。
そして、白川の大蛇行と坪井川の完全整備が終了したのは、細川の時代に入っての正保年間(光尚代)だと上記熊本市史には記してある。
私は、熊本城築城時に生じた切土で、一気呵成に旧河道は埋め立てらたと考えていたが、随分長い時間がかかっていたようだ。
ただし、その詳細は知り得ない。熊本城や熊本の町の成り立ちを知るには、まだまだ勉強が必要である。