津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■それぞれの悲喜劇(6・了)-寄之(松井興長養嗣子)

2022-03-27 06:55:03 | 先祖附

 前回書いたように刑部家初代の興孝より、やや早く誕生(元和2年‐1616)している。末子とするのは間違いである。
寄之の生母は真下氏、この人は後に沼田延元に再嫁している。延元は涙を流して断ろうとしているが、忠利が説得した。
「切腹するのなら、自らが介錯する」とまで言い出し、真下氏は延元に再嫁した。
いわゆる「お下げ渡し」というものであり、時代が時代であるとはいえ、あまりいただけないエピソードの極たるものである。
のちに、この延元の子・延之と寄之が思いがけないシーンで活躍し、細川家の危機を乗り越えることに尽力するがのちに述べる。

 寄之の幼名は巖(岩)千代、元和7年(1621)6歳の時松井興長の養嗣子となる。
寛永14年(1637)細川家一門の三渕重政女・古宇と結婚、翌15年(1638)原城総攻撃に参陣する。

寛永18年には兄・忠利が死去、正保2年(1645)には父・三斎が死去した。
そして5年後の慶安3年(1650)には藩主・光尚が死去し細川家の最大の危機を迎えた。

息子の六丸(綱利)が幼少であるため、知行の返上を申し出たからである。家臣団の驚きは一方ならぬものがあった。
そこで若年寄の寄之と沼田勘解由(延之)を急遽江戸へ下し、六丸の遺領相続に尽力した成功に導いた。
養父・興長をして八代城主と定めた亡き光尚の恩に報いる寄之の業績として特筆すべきものである。

寛文元年(1661)年養父・興長は、浪費家であった寄之を戒め、幼い藩主・綱利をよく補佐するように遺言して死去する。家老本職・八代城主に就任する。
そして4年後の寛文6年(1666)正月病にて八代城内にて死去した。50歳。
その生きた時代は、父・興長と重複する部分が多い。

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