左:山本博文著「江戸城の宮廷政治-熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡」
右:稲葉継陽著「細川忠利・ポスト戦国時代の国づくり」
細川忠隆・興秋・忠利の三人はガラシャの子だとされる。
ガラシャは忠隆・興秋の不幸を知る事はなく自ら命を絶った。ガラシャ・忠興・興秋母子三人は細川家の存続の犠牲者だともいえる。
忠利は巡り合わせで忠興の後継者とはなったが、戦国期から平和な時代に移行する時期の優秀な行政長官であったと言える。
その意味では忠利を後継ぎとした忠興の慧眼ともいえる。
忠利の生年は天正14年(1586)10月11日、慶長5年(1600)正月には證人として江戸へ赴いた。
その年7月17日には玉造の屋形にて、母ガラシャが「光」(忠利)に言伝を残してこの世を去った。
忠利は15歳でこの悲しい知らせを下野国小山の忠興の陣中で聞かされたのであろう。
忠利の證人としての江戸滞在は、4年である。その間徳川秀忠・家光の厚遇をえる。慶長9年(1604)には嗣子となり、14年には秀忠の養女・千代姫(実・小笠原秀政女)を室に迎える。
然しながら父・忠興は家督を譲る事はなく、それは忠興が死を意識する病によってもたらされた。元和6年(1620)の暮れの事である。忠利35歳。
幕府要人や縁戚に当たる春日局などとの親密な交流があり、幕府に於いても一目置かれる存在となる。
寛永9年(1632)年肥後の加藤忠廣が改易されると、忠利の肥後移封が決定されたその年の暮れに肥後国に入国した。47歳。
祖父・幽齋、父忠興が築いた確かな地歩はこの忠利の時代に至り、頂点に上り詰めた。
然しながら試練が訪れる。寛永14年(1637)に勃発した天草島原の乱である。総勢28,600余人を率いて参陣、多くの死傷者を出しながらも勝利に導いた。
病を押しての参陣であり、寛永18年(1641)3月17日に死去した。享年56歳。19名の家臣が殉死した。
後継には徳川連枝としての血を引く若く優秀な嫡子光尚があり、藩内の体制も強固なものであり揺るぎないものであった。
忠利の一生は恵まれたものであったといって良い。ただし、ガラシャ・忠隆・興秋等の不幸を乗り越えた結果である。