津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■それぞれの悲喜劇(5)-興孝(刑部家初代)

2022-03-25 08:25:49 | 歴史

 今回は誕生順ではなく、前回の宇土支藩の租・立孝と生母(清田氏幾知)が同じということで興孝を取り上げる。
兄・立孝は父・忠興から溺愛されたが、弟・興孝は疎んじられた。興孝の悲劇は長い江戸證人の生活がもたらしたのであったのかもしれない。
豊前生まれだが、元和5年(1619)わずか3歳にて父・忠興の為に證人として江戸へ送られた。
兄忠利も江戸證人を務めたが、これは将軍家の好遇を得て父三斎の継嗣とせられた。
一方興孝の江戸生活は長期に及び、望んだ天草島原の乱に於ける初陣も認められず鬱憤をため込んでいく。
どうやらこの辺りで三斎との関係が悪くなったと思われる。それを伺わせる忠利の書状がある。

■寛永15年12月5日光利(光尚)江之御書之内
 同名刑部事身上成不申候、迷惑仕付而金子かされ候由、我等分別に相不申候、子之事ニて候へは三齋様御こらし候ハんと思召、迷惑仕様ニ被仰付候ニ、肥後取持候事、却而刑部為如何と存よし、其上其方より銀なと参候由、八代へ聞候ハヽ、弥跡を御詰候事可有之候、又御失念ニ而候事も為には落ちにて候ヘハ、明く父子ものにて無之候に着き、弥刑部為如何と有ん入候落ちにて候ヘハ、明く父子ものにて無之候に着き、弥刑部為如何と有ん入候

■寛永16年正月6日光利君江被仰進候御書(抜粋)  (正月四日忠利は八代に三齋を見舞っている)
 同名刑部事中を御たかい候而御誓文にて御直り候ましきとの儀ニ付而、左候へハ人しちニ進上被成候、刑部三齋様と中たかいニ落付候へハ、 公儀へ人しちニ上ケ被置候而も役ニ不立儀ニ候間、立允を替りニ江戸へ可被召連と御老中へ御談合候へハ、尤との被仰様ニ候(以下略)

■寛永16年9月2日光利(光尚)君御自筆之御口上書之控
  八月卅日ニ酒讃岐殿へ私参申候、口上之覚
 立允事越中弟ニ而御座候へども、越中肥後へ罷下候刻、又越中江戸へ罷越候刻計ニ八代より参候まで、ふだんハ八代ニ計居申候故、立允心をも越中ハ不存候故、兄弟之儀ニ御座候得共、大国をも拝領仕、立允かくごをもミとヾけ不申候而、むさと知行なと遣ハけニ而も無御座候、然共為能力三万石遣置申候事

 扶持をまったく与えられず、光利(光尚)に借金の申し入れをした刑部の経済状況や、三齋との修復不可能な仲違い状況、そして立允が刑部に替わり証人として江戸へ下されるであろう前段の話として、大変興味深い。
「仲違い状態の人間を(江戸に)人質として置くのは公儀に対して役に立たない」という認識が大変面白い。 

 帰国を許され寛永17年(1640)正月4日帰国の途に就いた。
実に21年に及ぶ證人生活であった。途中発病し伏見で滞留、小康を得るもなぜか室津で剃髪、3月21日に熊本に着いた。
興孝と三斎の仲違いは避けがたい現実のものとなった。
興孝は安國寺に入る。その後療養のためとして隈府(菊池市)の茶屋に移った。3年間の在郷を許され11,500石を拝領。
翌18年には忠利が死去。正保2年12月に父・三斎が死去すると、翌3年9月には光尚により25,000石が給され城内・古京町に転居する。
寛文4年閏5月隠居(隠居料1,000石)して立白と称するが、その前年の7月生母・幾知が熊本で死去している。穏やかな母子の交流があったものと思われる。
そして延宝7年12月死去、63歳。泰勝寺塔頭・慈眼庵の墓地に眠っているが、生母・幾知のお墓もここに存在する。

 三斎の晩年八代在住の折、一度だけ相まみえたと言われている。(現況詳細を知り得ない)
 

コメント
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