文政二年正月、隠居した浜町様(齊茲)は、病気を理由に「御国許御湯治」のため御暇を幕府に申し出た。
これを「御中国」というが在府期間途中に国に帰る事をさす。
いつも思うが、病気であればじっとしておられるのが良いと思うが、これはどうやら方便のようで幕府も承知してのことであろうと思われる。
これが都合七年に及び、かわいい耇姫までなされたというのだから、なにをか況やである。
そんな浜町様が病を得られた。文政九年の半ばのようだが病気はさしたることもなく、快気に至った。
そこで快気をお祝いする「御祝能」が十月二日に催された。大町人たちにも「拝見」が仰せ付けられた。
お花畑で催される「御能」についても、お花畑への出入りについては誠に細やかな決まりごとがある。
そしてこれが終わると麻上下を着して小姓頭に「御礼」を申し上げなければならない。
扨当日は「七ッ(4時)時分より罷出で夜七ッ半(17時)に罷帰」る一日がかりの大行事であった。
記録によると朝4時でも遅く、「八ッ半(3時)ころから行かねば座席が亡くなる恐れがある」旨の注意が前もってあったらしい。
そしてお料理がでる。
御菓子 へぎ(片木)に饅頭二つ、羊羹二つ、口無し蒸米□角二つ、なら漬一、万引一
御飯 生酢 汁砂ゴ(いさごー蒲鉾をサイノメに切ったもの、豆腐、菜等の汁)平、鯛、長菜
御土産 御酒頂戴
これがどれだけの人数が出席したのか判らないが、準備が大変だったろうと思うのである。
というのは、時代は変わるが私の先祖は二度ほど、お花畑でお能の際の「お料理方の差配役」を仰せ付けられている。
この年の暮れには養嗣子齊護が来年早々初入部することが発表され、罪人の赦などが発表された。
そんな中12月23日、最愛の耇姫が身罷った。浜町様68歳すべての子に先立たれた。
翌年の正月は例年の謡初めや左義長などは日延べとなった。そして、七年余の熊本在国をへて3月江戸へ向かわれた。
浜町の御屋敷に入られたと思われるが、「浜町様」の呼称は「少将様」と変更されることになった。
以降帰国されることなく天保6年10月23日白金邸で亡くなった。77年の生涯であった。