津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文政九年祝能と浜町様の晩年

2022-03-11 15:11:24 | 歴史

 文政二年正月、隠居した浜町様(齊茲)は、病気を理由に「御国許御湯治」のため御暇を幕府に申し出た。
これを「御中国」というが在府期間途中に国に帰る事をさす。
いつも思うが、病気であればじっとしておられるのが良いと思うが、これはどうやら方便のようで幕府も承知してのことであろうと思われる。
これが都合七年に及び、かわいい耇姫までなされたというのだから、なにをか況やである。

そんな浜町様が病を得られた。文政九年の半ばのようだが病気はさしたることもなく、快気に至った。
そこで快気をお祝いする「御祝能」が十月二日に催された。大町人たちにも「拝見」が仰せ付けられた。
お花畑で催される「御能」についても、お花畑への出入りについては誠に細やかな決まりごとがある。
そしてこれが終わると麻上下を着して小姓頭に「御礼」を申し上げなければならない。

扨当日は「七ッ(4時)時分より罷出で夜七ッ半(17時)に罷帰」る一日がかりの大行事であった。
記録によると朝4時でも遅く、「八ッ半(3時)ころから行かねば座席が亡くなる恐れがある」旨の注意が前もってあったらしい。
そしてお料理がでる。
    御菓子 へぎ(片木)に饅頭二つ、羊羹二つ、口無し蒸米□角二つ、なら漬一、万引一
    御飯 生酢 汁砂ゴ(いさごー蒲鉾をサイノメに切ったもの、豆腐、菜等の汁)平、鯛、長菜
      御土産 御酒頂戴

これがどれだけの人数が出席したのか判らないが、準備が大変だったろうと思うのである。
というのは、時代は変わるが私の先祖は二度ほど、お花畑でお能の際の「お料理方の差配役」を仰せ付けられている。

この年の暮れには養嗣子齊護が来年早々初入部することが発表され、罪人の赦などが発表された。
そんな中12月23日、最愛の耇姫が身罷った。浜町様68歳すべての子に先立たれた。
翌年の正月は例年の謡初めや左義長などは日延べとなった。そして、七年余の熊本在国をへて3月江戸へ向かわれた。
浜町の御屋敷に入られたと思われるが、「浜町様」の呼称は「少将様」と変更されることになった。
以降帰国されることなく天保6年10月23日白金邸で亡くなった。77年の生涯であった。

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■335年前の真実

2022-03-11 06:57:41 | 先祖附

 「細川興秋の真実」の著者高田重孝様からメールを頂戴した。
世の中にはこんな偶然が起り得るかと思うようなご連絡であった。
それは仙台市にお住いの同書をお読みになった女性からのお問い合わせの文章である。
貞享二年(1685)細川家の関係者が出羽保呂羽山権現に代参のものが遣わされたという記事があるとのご照会らしい。
高田氏に細川家に係わる著書が多いことに依ってのことであろう。そこで当方に内容が転送されてきた。


1. 岩手県一関市「藤沢町史」に掲載されている保呂羽山権現社の縁起に、伝説ではないかという「保呂羽神社ニ関スル記
    録」に「此山ノ来由ハ日本書紀ニ出テタリ。」という文から始まるのですが、少々長いので途中省略いたしますが、女
    人の詣でを禁じており、清浄無垢の地であるという文が記された後に続けて「且ツ肥州ノ太守、細川某ノ公霊夢ニヨリ
    当山ニ祈請アリ、年々家資ヲ送り種々ノ宝賽ヲ捧グ、速ニ心望ミ弁ノ擁護ヲ蒙リ、今ニ其ノ奉納ノ品々存セリ」後省
    略。という記述があります。
2. 宝物として記載されているもの(細川家と関わりがありそうなもの)

                一.御茶椀 徳川家ご家紋付、口径三寸七分  
                一.心経 一個 肥後侍従源朝臣綱利侯御真蹟

                       貞享二年細川越中守、同家老入江又右衛門殿御代様ニ差遣サレ献納セラル 
                一.御茶椀 二個 細川家御家紋付、口径三寸九分
                一.供物台 一個  円形、腰高台黒地漆塗、 桐・金紋付
                一.太刀 一振  正宗作
                一.御戸帳 三帳 赤地金襴、各幅三尺・縦五尺

       細川綱利侯御母堂ヨリ献納    
                一.鐘 一ツ 三尺五寸、横二尺
       細川越中守様御登山ニ付、金子御下渡シ下サレ、当村釜ケ林ト申処ニテ鋳ル

説明によりますと、細川家のご母堂からの献納品は、万治三年から正徳四年まで代参を遣わしていた。
保呂羽山がキリシタンと関係があるかどうかは不明と記されています。この社は現存しておりません。


 このことに我が家の二代目が関わっていた。関わっていたというより、代参の当本人であった。
我が家の先祖附には次のように記されている。 

一、貞享元年子九月十四日奥州岩井郡保呂羽山江御代参被仰付 御上下御小袖被為拝領 御附人共ニ上下六人ニ而罷越
  十月十一日江戸白金御屋敷へ罷帰申候

まさしく上記記述の事であり、このような偶然があるものだと、只々驚いている。
上記記述の内、「貞享二年細川越中守、同家老入江又右衛門殿御代様ニ差遣サレ献納セラル」の入江又右衛門は家老ではない。
元禄五年頃の御侍帳には「藤兵衛(父)嫡子弐百石外ニ高百石之役料被下候」との記録が残る。
一行の頭であったろうと思われる。我が家の二代目様は150石、副使でも勤めたのだろうか。

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