少々馴染みがないというと、関係者にはお叱りを受けそうだが、細川家には宇土支藩とは別に、新田藩がある。
茂木藩も存在するがこれは、忠興の弟・興元自身が立藩したものだから支藩ではないと私は理解している。
さてこの新田藩、定府であったが幕末になると帰国が命ぜられ、玉名の高瀬に陣屋を築いたことから高瀬藩とも呼ぶ。
初代は、綱利の弟・利重が初代である。父は光尚、生母は綱利同様清高院である。
兄弟仲が良かったのであろう、綱利は利重に35,000石を内分し、江戸定詰となった。参勤交代がないから内証は結構であったろう。
内分したのが寛文6年(1666)の7月、帰国したのが慶応4年4月(陣屋完成7月29日)だから、ほぼ202年の江戸暮しであった。
これが家族ともども初めてのお国入りだから、3月4日江戸発、4月23日高瀬着の長道中は不安と疲れで大変な事であったろうと、想像に難くない。
7月末になると陣屋が着工されるが未完のまま、その年の内には新田藩は廃藩となり、家臣は本藩に帰属した。
細川新田藩の江戸藩邸は鉄砲洲にあった。佃島・石川島が目の前である。下屋敷は吾妻橋際に在った。こちらは現在のアサヒビール本社、あの金色に輝く不思議なオブジェを屋上に戴くあの建物がある場所である。
藩士には本国は肥後だという認識は希薄であったように思うが、どうだったのだろうか。
言葉も江戸言葉であったろうし、肥後入り後の一変した生活も大変であったろう。
しかし、藩主利永は明治3年9月になると東京居住を命ぜられる。その後の藩士の動向は判らないが、大方は東京へ向かったのではなかろうか。
高瀬藩につながる二家のご子孫と御縁があり、資料を差し上げたことがある。
高瀬藩の陣屋及び家臣団の住まいは、現在の玉名町小学校とその周辺である。