津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■後日談

2022-03-20 14:02:11 | 書籍・読書

  先に「■購入したいけど・・・」を書いたところ史談会の数日前、N君が電話をしてきた。
「その本は何ですか?」と聞く。「隈本古城史」だといったら「持ってますから史談会の日に持ってきます」との事で、昨日の例会の折お借りした。

                                                                     

 実は是非読みたいと思っていた阿蘇品保夫氏の論考「隈本古城ー出田・鹿子木・城氏」が、何に掲載されているのかが良くわからずにいたのだが、ようやく第一高校が創立100周年を記念して発行されたこの「隈本古城史」にあることを突き止めたからだ。
蔵書マニアのN君のことだからと蔵書しているのではないかと密かに考えていたのだが、有難いことであった。
次の例会迄借りることにしているから、まだ精読には至っていないのだが、大いなる余沢があった。

 今は桜町にある「サクラマチ・クマモト」とお隣の「NTTビル」のあたりはかって熊本県庁舎があった。
旧県庁舎が太平洋戦争で被災し、ここに物資が不足している時代に、木造建築の県庁舎が建てられた。
昭和42年に現在地に新庁舎が建つまで約20年間、床がギスギスと音を立てる「下駄ばき庁舎」の感があった。
実はその庁舎があったあたりで、江戸中期の侍屋敷から石棺墳墓が見つかったという話を聞いて何となく知っていたが、その詳細を知らなかった。
それが、富田紘一先生の論考であり「考古学からみた茶臼山とその周辺」のなかに、「山崎古墳」として取り上げられていることを発見した。

 花畑邸のすぐ目の前だから、いわゆる白川の大蛇行のその「こぶの中」である。
この地で作事でもしたのか、地盤面下5尺(1.5m)の所から、先史時代の石棺のふたの部分が姿をあらわし、当時の屋敷の主・高瀬文平は労を惜しまずこれを掘り起こしたという。
 高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、御側取次組脇、用人等を勤む。
      頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
ふたを取り上げると「いと美はしき朱の土に交わりて見ゆ」とある。たて8尺(2.4m)×横6尺(1.8m)の石棺の中には「仰偃して膝をもたげたる状の白骨あざやかにみえて頸玉にかけたるさまに・・(云々)」とあり、その「頸玉は長さ一寸(3㎝)ばかり、めぐり七分(2.1㎝)計の管玉十顆あり。その色五つは青く五つは黄ばみたり。又勾玉十顆あり。すべて青き色に白きに青を帯びたるも、黄ばみたるもあり。わたり六・七分、いささか大小あり、はじめ見たるとき此管玉と勾玉とを一つおきに緒を貫きて頸にかけたるさまなり。」と記録されている。
これが、木造建築の県庁舎時代の土木部の下あたりだったというから、よくここに通った私としては大いなる驚きである。
周辺にもこのようなお墓が存在していて、破壊されてしまったようだ。富田先生は熊本城城壁への転用は見られないようだと仰っている。
そんな遺物や遺骸の処置はどうなされたのだろうか?

千葉城や古城(第一高校内)には横穴古墳も多くみられる。茶臼山周辺に先史時代の豊かな生活が営まれていたことを考えると、大いに心豊かになる。

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■講演浴

2022-03-20 10:13:14 | 熊本史談会

               

 図書館浴という言葉は当然造語だが、これは出久根達郎氏の言葉である。
この場合の「浴」は「浸る」の意からきているのだろうが、まるでお風呂に入るが如く気持ちよく図書館の雰囲気に浸るということであろう。
そういう意味では、熊本史談会の例会や、種々の講演会などに出席した折にはは、そんな雰囲気に浸っている。
講演の内容そのものや、講師のお人柄や話しぶり、また質疑応答などを聞いていると、それぞれに楽しい。
3月の例会は、正会員よりも一般の入場者の方が多くて準備したレジュメが無くなりそうな状況にあったと聞く。
私が史談会をお預かりしていた8年間は苦痛の連続であったが、いま運営からはなれてみると、まさしく「講演浴」を楽しむという心境である。
これならまだまだ皆勤できると思っている。かってNHKの看板アナ鈴木健二氏が名物番組「クイズゼミナール」の冒頭、「知るは楽しみなりと申しますが・・」と仰っているが、まさにその通りで、大いに知ってこれをメイドの土産にしようと思う今日この頃である。

 昨日は堤勝彦先生のー新資料で「菊池氏初代則隆の出自」を探るーという、少々私にとっては高尚で難しいお話であったが、多くの皆さんが熱心に耳を傾けて居られる熱意に引き込まれた感がある。
菊池氏については「土豪説」と「藤原氏後胤説」が両立していたが、今般の堤先生の古文書解析から、いわば合体説とでもいうべき御説の解説であった。歴史研究の有りようなどを思い知るお話であった。感謝。

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