先に「■購入したいけど・・・」を書いたところ史談会の数日前、N君が電話をしてきた。
「その本は何ですか?」と聞く。「隈本古城史」だといったら「持ってますから史談会の日に持ってきます」との事で、昨日の例会の折お借りした。
実は是非読みたいと思っていた阿蘇品保夫氏の論考「隈本古城ー出田・鹿子木・城氏」が、何に掲載されているのかが良くわからずにいたのだが、ようやく第一高校が創立100周年を記念して発行されたこの「隈本古城史」にあることを突き止めたからだ。
蔵書マニアのN君のことだからと蔵書しているのではないかと密かに考えていたのだが、有難いことであった。
次の例会迄借りることにしているから、まだ精読には至っていないのだが、大いなる余沢があった。
今は桜町にある「サクラマチ・クマモト」とお隣の「NTTビル」のあたりはかって熊本県庁舎があった。
旧県庁舎が太平洋戦争で被災し、ここに物資が不足している時代に、木造建築の県庁舎が建てられた。
昭和42年に現在地に新庁舎が建つまで約20年間、床がギスギスと音を立てる「下駄ばき庁舎」の感があった。
実はその庁舎があったあたりで、江戸中期の侍屋敷から石棺墳墓が見つかったという話を聞いて何となく知っていたが、その詳細を知らなかった。
それが、富田紘一先生の論考であり「考古学からみた茶臼山とその周辺」のなかに、「山崎古墳」として取り上げられていることを発見した。
花畑邸のすぐ目の前だから、いわゆる白川の大蛇行のその「こぶの中」である。
この地で作事でもしたのか、地盤面下5尺(1.5m)の所から、先史時代の石棺のふたの部分が姿をあらわし、当時の屋敷の主・高瀬文平は労を惜しまずこれを掘り起こしたという。
高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、御側取次組脇、用人等を勤む。
頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
ふたを取り上げると「いと美はしき朱の土に交わりて見ゆ」とある。たて8尺(2.4m)×横6尺(1.8m)の石棺の中には「仰偃して膝をもたげたる状の白骨あざやかにみえて頸玉にかけたるさまに・・(云々)」とあり、その「頸玉は長さ一寸(3㎝)ばかり、めぐり七分(2.1㎝)計の管玉十顆あり。その色五つは青く五つは黄ばみたり。又勾玉十顆あり。すべて青き色に白きに青を帯びたるも、黄ばみたるもあり。わたり六・七分、いささか大小あり、はじめ見たるとき此管玉と勾玉とを一つおきに緒を貫きて頸にかけたるさまなり。」と記録されている。
これが、木造建築の県庁舎時代の土木部の下あたりだったというから、よくここに通った私としては大いなる驚きである。
周辺にもこのようなお墓が存在していて、破壊されてしまったようだ。富田先生は熊本城城壁への転用は見られないようだと仰っている。
そんな遺物や遺骸の処置はどうなされたのだろうか?
千葉城や古城(第一高校内)には横穴古墳も多くみられる。茶臼山周辺に先史時代の豊かな生活が営まれていたことを考えると、大いに心豊かになる。