津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■地理院地図で遊ぶ

2022-03-26 13:46:48 | 徒然

 最近、国土地理院のサイトを大いに活用させていただいている。
例えば先日書いた、薬師坂・槙島坂など同サイトの「断面」を活用すると次のように現況が出てくる。(もっとも槙島坂は現在は存在しないが・・)
     

 かっての藤崎宮(藤崎台球場)側からみた、左が新町、右が段山町の砂薬師坂に至るダラダラ坂の上り口のあたりである。(X・Y比1:1)
縦方向の数字は標高で記されている。大体熊本城周辺は11mくらいで、此の断面でもそれが判る。
この巾約200mくらいの奥に、左・片山邸、西・島邸があった。島邸は以前槙島氏の屋敷でもあったから、右の急阪を槙島坂と呼ぶ。
段山の高まりが14~5mであり、井芹川方向に段丘で下がっていたと思われる。
今では段山は完全になくなり、新町方面からこの断面の中央部あたりに至る隧道が、路面電車の上を島崎方面へ抜けていることになる。

           

 こちらは縦方向と水平方向は1:5で記している。
左側の11m部分が路面電車が走る部分、標高24m部分が薬師坂頂上部、34m程の高まりが藤崎台球場、その右手が護国神社、V字になった切通が美術館裏から新町へ下る坂、40m程の高まりが美術館、その右に二の丸広場が広がる。
これらの史料は、数百年前のこの一帯の有りようを想像するのに誠に有効である。

 最近色々あって忙しいが、等高線を見ながら縄文海進などを調べてみるのも面白いだろうと思っている。
以前ご紹介した「熊本平野に於ける貝塚分布」では、標高5mラインの内側に貝塚が分布しているとある。
これをみると随分標高差に違いがある様に思えるからだ・・・

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■西南戦争水攻め作戦

2022-03-26 08:20:23 | 熊本

      
                                  紫色が水没地域。熊本城右下の舌状部分は追い回し田畑、
                                  かっての白川の大蛇行の痕跡である。 

 ちょうど今の時期、明治十年熊本はまさに戦時であった。
薩軍が熊本城攻撃を決断し熊本城下に入ったのは、2月21日未明である。
午前6時過ぎ薩軍の進軍を確認した官軍は、下馬橋の砲台から砲撃を始めここに西南の役の火ぶたが開かれた。
激戦を究めた段山に於ける攻防戦もこの時期に開始された。官軍の与倉中佐が戦死したのはまさにこの場所である。
3月に入って一月が経過しても薩軍の攻撃を持ちこたえて、官軍は籠城戦で対抗し膠着状態になる。
一方戦域が広がり、死傷者も増えるに及んで攻城兵員の援助を受けなければならない戦況となった。
戦況を打開すべく、3月25日薩軍は水攻めに打って出る。熊本城を孤立させ官軍城兵を足止めさせようという作戦である。
細工町5丁目裏に築堤がはじまり、月末には高さ5.5mに達した。そして水位は徐々に上がり熊本城北側の井芹川水系では、水位が2mほど上り「西北湖となる」とある。
坪井川上流部の低地寺原周辺でも出水したことが記録されている。
このように広範な地域が、このように早く湖になるとは想像できない。
記録写真では段山周辺が湖に飛び出した半島のようなありさまで写されている。

今日は全国的に大雨の情報が出ている。熊本はまだ大雨の気配はないが、そろそろ雨域に入りそうな気配である。
100㎜を越える雨が降った地域もあるようで、災害の恐れも出ている。地震災害の地などに、何事もないことを祈るばかりである。

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