津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■齊茲の時代

2022-03-05 15:37:48 | 歴史

 齊茲は宝暦9年(1759)宇土藩主・興文の嫡子として宇土で生まれた。13年には立禮と名乗る。
安永元年父・興文の隠居により家督相続、從五位下和泉守と称す。天明7年(1789)本藩・細川治年の請により細川宗家の遺領を相続する(31歳)。文化7年(1810)52歳で隠居す。

 遺領相続をした年、京都では大火が起り洛中を焼き尽くした。そのため、禁裏の造営費用20万両、義祖父・重賢の室の実家久我右大臣家の造営のために4万両を四年賦にて負担せしめた。
文化3年(1806)には、江戸辰口邸が類焼する。その際、敷地手狭に就き東隣の3,500坪を拝領し、神田の拝借地を返上した。

また江戸戸越屋敷と浜町にあった松平周防守屋敷を相対替をする。齊茲はここを隠居屋敷として「浜町様」と称する。

 文化13年(1816-58歳)8月、国許にて湯治することを願い帰国、本山に屋敷を建設す。(のち二の丸に移築)
隠居後3人の女子を為したが夭折している。特に熊本帰国後に生まれた耇姫(文政六年生まれ、同九年十二月死去)については自ら筆を執り愛らしい姿を書き残している。
文政9年(1826-67歳)2月には思いがけなく嫡子・斎樹が疱瘡で死去するという悲劇に見舞われた。齊茲の長男・宇土藩主立之の嫡男・立政(9代宇土藩主)を養嗣子(斎護)として遺領相続せしめた。
その年の9月齊茲は病気に罹かった。その時古町の町人たちがお見舞いを差し上げた記録が岡崎鴻吉著「熊本御城下の町人」に残されている。(p50~)
只品物を差し上げるだけではなく、取次の役人たちへ内分の費用が必要であったことが判る貴重な史料である。
怪しからぬ話はいつもある。
そして快気のあと10月には祝能が催されたりしている。
齊茲は斎樹や耇姫なきあとの悲しみを振り切るように、文政10年(1827-68歳)3月、七年に及ぶ国許住まいから江戸へ再び旅立っていった。
以降「少将様」と呼称せしめた。
齊茲は天保6年(1835)10月、細川家下屋敷・白金邸で77歳で死去した。

 齊茲の時代は、災害の多い時代で士農工商大いなる負担を強いられた時代である。そのため新地築造が盛んに進められ始める時期である。

(快気祝いの祝能については、これも「熊本御城下の町人」に詳細が記されている。後日ご紹介する)

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■山頭火の店「雅楽多」は、旧有吉家屋敷の一部だった。

2022-03-05 07:02:26 | 地図散歩

 白川が大蛇行していた時代には現在の熊本市役所の場所はどうやら流れの中に在ったようだ。
現在熊本市は現在の市役所庁舎の耐震性を理由に建て替えを目論見、市議会などを巻き込み、賛否揺れ動いている。
白川の河道の跡だということになると、あまり良い地盤ではないことは確かなようだ。
藩政時代この場所は御厩があった所で、裏手に出るとお花畑の馬場に繋がっている。
御厩の前の坪井川に架かる橋を「厩橋」と呼んでいる。


 その御厩の裏手には、三卿家老の有吉家の分家の広大な屋敷が広がっていた。
市役所の裏手から下通まで、表は市電の通りから裏手はかっての太陽デパートがあった広大な一角である。

本邸は重臣の屋敷が軒を並べた城内二の丸内の、西大手御門前右手にあった。二の丸の屋敷群が解体された後も有吉邸は残され、明治の一時期熊本県庁となった。
(ちなみに本家は現・国立病院の場所にあった)

「熊本城下町図-安政比」を引っ張り出して眺めてみると、下通筋にはその有吉市左衛門邸の先に宇野貞雄、その先に堀内三瞱、道を挟んでその先には益田弥一右衛門の屋敷が並んでいる。
明治維新後(5年)御厩あとに獄舎が作られた。いろいろ変遷があるが表通りには「研屋」という旅館が出来、有吉家の池や庭つくりなどを利用して「精養軒」という高級料亭が作られた。
いずれも庶民には手の届かない、官民のお大尽の利用する処となり大変賑わったようだ。

                                   

 井上智重氏の著「いつも隣に山頭火」を読むと、「雅楽多の場所は?甲斐青萍の絵図に探す」(p196~199)という項があり、この絵図のなかに山頭火の店「雅楽多」が描かれていることが紹介されている。
同著には大正五年の地図と甲斐青萍・熊本街並画集から該当絵図も紹介されている。
早速とりだして眺めてみると、「熊本明治町並屏風-部分十一・熊本監獄」(p35~36)及び、「昭和町並屏風-手取本町と市役所付近」(p44)で同様の場所が描かれていてその「雅楽多」の場所も良くわかる。
p36に於いては、お客を乗せた人力車が「精養軒」に入っていくのが伺える。「雅楽多」はその入り口の左手の二階屋らしい。

商店街として発展していく下通の一等地ともいえる所に、山頭火は店を構えた。
そして両絵図に共通して精養軒入り口の二軒隣には屋根の上に時計塔みたいなものを乗せているのも伺える。明治期の絵図では「山田時計店」、昭和期の絵図では「マルタ號」とある。
「マルタ號」とは私が若い頃までは営業していたし、良く通った洋品店であった。現在は同地に「マルタ號下通ビル」が存在する。
確か友人のT氏の何代か前は親戚筋だということを聞いていたから、電話をして古い写真でもないかと尋ねてみたが、こちらは叶わなかった。
処が話は思いがけない方向に飛んで、氏は昭和43年ころ、新町の有志が山頭火の映画を作ったことがあったそうで、これに深くかかわっていたらしく、話はそちらに移り、能弁に語る相手の長電話に引きずりこまれてしまった。
「甲斐青萍・熊本街並画集」は持ってないという。大いに推薦したことは勿論である。

 ちなみに井上智重氏は■東京銀座博品館にて上演「きょうも隣に山頭火」の公演準備のために超ご多忙の御様子である。
成功裡に終る事を願っているが、皆様のご来場を乞い願うものである。
お問い合わせ等はお気軽に井上智重氏の方にメールでどうぞ tomo12@alpha.ocn.ne.jp

 

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