未明、ドスンという音が身近で響き飛び起きた。
地震でもないし照明をつけると、資料の山が自然崩壊していた。
クリヤファイルとか、ビニールの袋に入れたものなどを積み上げていたのが原因である。
ついこの間整理しましたと書いたような気がするが、又この有様である。
最近あちこちから、いろいろ資料が送られてきて、読んでは積み上げ/\したからである。また整理に無駄な時間を必要とする。
整理も大変なのだが、お礼の電話や手紙やメールなどに割く時間も馬鹿にならない。
そしてボケ爺さんは時折返事をお出しすることを忘れてしまうからこれが厄介である。
問い合わせのメールが入ったり、郵便局に駆け込んだり、合間を縫って散歩もしなければならない。
爺様は結港多忙である。時々悪友がいろいろ言ってくるから、このように多忙である事をブログで知らしめておくことも必要である。
資料の山崩れは未だそのまま・・・今日は未だ散歩にはでていないが、ゴミ捨てはやらされて外へ出た。
片付けは昼食後にした散歩から帰ってからの事にしよう。随分春めいてきた様に思うが、今日は風が冷たい。
数年前にお亡くなりになった河尻の生き字引・西輝喜先生には、高祖父・上田久兵衛を主人公にした「柳絮の舞」という小説がある。
昭和60年熊本県民文芸賞作品集で散文一席の栄誉を得られた作品である。
「柳絮」とは「 柳の花が咲いた後、白い綿毛のある種子が散るさま。」を意味するそうだが「降る雪」の形容にも用いられるという。
しかしこの小説を読むと、少々趣が異なるように思われる。花街の話が色を添えている。
明治10年、薩摩軍が新政府に対して「尋ねたき儀あり」として、徒党を為して進軍して河尻に近づくと、河尻の町民の代表が前の川尻奉行であった久兵衛の城山半田の居宅を訪ねてきて、河尻の町が戦塵の町にならないようにと出座を懇願した。
久兵衛はこれを受諾し、西郷軍に対して町の安寧をねがい種々の規制を受け入れさせるなどの努力を為した。
結果として河尻の町は救われたが、久兵衛はいわれのない罪を以て斬首された。
さて小説の方だが、西先生の卓越した発想と軽快な筆致で見事な作品となっているが、久兵衛に遊郭の芸岐を絡ませ、その恋慕の風情を織り込んで、この小説に彩色を施している様に思える。
実はご厚誼をいただいているブログ「徒然なか話」の中に、鈴木喬先生の「熊本の花街」が3回に亘り紹介されていた。
これを拝読すると、宝暦の改革の時代に川尻に於いても公娼が許可されていたらしい。
河尻の町は港町である。ある意味での必要悪であったかもしれないが、しばらくして取り消された。
私がこの小説の事を鈴木喬先生にお話をしたら当然御存知であったが、「こういうシーンはあり得ましたでしょうか」とお尋ねしたら、「辞世の句でも判る様に、久兵衛さんは奥方一途の人だったと思います」とおっしゃった。
久兵衛は死を前にして「秋風ノタヨリニキケバ古サトノ萩カ花妻今サカリナリ」という妻を想う句を残した。
鈴木先生は「あれは、西さんのおおいなるサービス精神でしょう」と仰っしゃってにっこりされたことを懐かしく思う。
ただし、当時遊郭が存在していたかどうかは確認しなかった。
西先生にもこの小説についてお尋ねしたいこともあったが、その願いは永遠に閉ざされたことを残念に思う。
無田川にそった柳堀の遊郭から芸岐の歌う声がきこえる。
供をしていた男が「とりわけ小夜浦のいます玉屋が一番のようです」
「長崎生まれの年増ですが・・・・・・あの声です」
花の川尻、お蔵の前から眺むれば
おやぽんぽこにゃ
下は加勢川、外城町
少し下ればおや御船手、渡船
おおさぽんぽこ、ぽんぽこにゃ