津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■春の熊本では「くまもと 花とみどりの博覧会」

2022-03-17 15:52:35 | 熊本

THE GREEN VISION KUMAMOTO  【くまもと花博】くまもと 花とみどりの博覧会 - 第38回全国都市緑化くまもとフェア

                          公式ガイドブック 

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■熊本都市政策vol.7(熊本市都市政策研究所年報)

2022-03-17 15:35:42 | 熊本

熊本都市政策vol.7(熊本市都市政策研究所年報)

最終更新日:2022年3月14日
都市政策研究所 都市政策研究所TEL:096-328-2784 FAX:096-326-8954 メール
 
年報 熊本都市政策について 

 熊本市都市政策研究所では、調査研究論文をはじめ、情報収集・発信、人材育成に関する年間の活動等について整理した年報「熊本都市政策」を刊行しています。2022年2月に、2019~2020年度の活動報告等をまとめた「熊本都市政策vol.7」を刊行しました。ぜひご覧ください。 

刊行に寄せて・目次

  • PDF 表紙 新しいウィンドウで(PDF:64.5キロバイト)

研究報告

講演記録

令和1-2(2019-2020)年度の研究活動記録

  • PDF 奥付 新しいウィンドウで(PDF:108.3キロバイト)
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■地震のお見舞いを申し上げます。

2022-03-17 07:53:47 | 徒然

             宮城、福島地震のお見舞いを申し上げます。

 3月11日には東日本大地震を想い手を合わせたところでしたが、又の地震の発生に驚かされました。
熊本の地では前震・本震と二度の地震を経験しましたが、再度の地震に備えて下さい。皆様のご安全をお祈り申し上げます。

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■綱利母子の奥州・保呂羽山権現信仰(一)

2022-03-17 06:53:08 | 歴史

 これは全くの私の努力不足なのだが、綱利母子の奥州保呂羽山権現信仰に関する資料を見いだせないでいる。
我が家の二代目太左衛門(又市郎)が貞享元年(1684)九月に遠路奥州まで代参を勤めていた。

「貞享元年子九月十四日奥州岩井郡保呂羽山江御代参被仰付御上下御小袖被為拝領 御附人共ニ上下六人ニ而罷越十月十一日江戸白金御屋敷へ罷帰申候」と先祖附は記している。

 この保呂羽(ほろは)山とは「保呂羽山権現」のことを指しており、保呂羽山山頂に在ったとされる。
現在は存在せず、また地元の記録も決して多くなく、詳細を伺うことはできない。
江戸から仙台まで約350㎞、仙台から保呂羽山迄80㎞ほどある。
こんなに遠い保呂羽山権現をどんな因縁があって綱利と生母・清高院は信仰したのだろうか。
我が家の二代目様は、都合往復840㎞ほどを25日ほどで歩き、代参の御役目を勤めあげた。
今般不思議な御縁で、仙台にお住いのT様から地元の種々の史料をお送りいただいた。
ここには細川綱利とその生母・清高院の深い信仰を表す資料が多くみられたるとともに、我が家の二代目の活動も記述されていた。

     磐井郡保呂村保呂羽山権現由来書上申し候覚
一、保呂羽山開祖相知れ申さず候
一、垂跡(すいじゃく)の事、人皇二十八代安閑天皇の御時、紀伊国金峯山に蔵王権現と出現遊ばされ候。右安閑天皇の御変作の由申し伝え候。
  元慶六年に当山へ御飛来、永治の初め羽州仙北へ御飛行の由、彼の地にも社所御座候。天正十年に再び当山へ御帰りの砌雉に御乗り、中尊は釈迦文仏、
  左右は文殊、普賢に御座候。当別当先祖多宝院拝し奉り候より、御本地釈迦文仏と相知り申し候。

一、御本地釈迦文仏に御座候へ共、蔵王権現と称し奉り、釈迦文殊普賢三体皆金仏に御座候。閻浮壇金に御座候由申し伝え候、尤も霊仏に御座候。
  作者相知申さず候。
一、中興は葛西御一家岩淵近江守殿御知行の節、再興の由山記に相見得申す通りに御座候。
一、御先祖様御参詣遊ばされ候儀御座なく候。
一、御社は御宮造三間四面萱葺に御座候。寛文五年保呂羽村にて杉松下しおかれ、御人足借し下され並びに東山中より奉加を以て、右の通り造立仕り候。
一、棟札紛失仕り候。
一、往古よりの縁起、寛永二年二月自火にて焼失仕り候。然る所貞享二年細川越中守様御代参のため入江又右衛門様と申す衆御下り候節、祖々父多宝院に
  縁起相尋ね候間、焼失仕り候由申し上げ候へば、縁起の様子大体にも覚申し候通り、申し聞くべき由に付、先祖段々の覚書取り合せ申し上げ候処に、
  書立江戸へ御持参成され候。多年多宝院江戸へ罷り登り候処へ、鉄牛和尚山記御仕立成され候由にて、相渡され候。右山記写別紙指し上げ申候。
一、何方よりも御寄進御ざなく候。細川越中守様万治三年より良覚院六供の内膳行院御代参、寛文四年迄五か年罷り下り候。同五年江戸浅草膳慶寺御代参
  のため罷り下られ候。夫より壱か年置きに罷り下られ候。其れ以後は膳慶寺御弟子四五か年これ又壱か年置きに罷り下られ候。貞享元年には右申し上
  候通り、越中守様御代参のためと真藤又市郎殿と申す衆御代参のために罷り下られ候。同弐年入江又右衛門と申す衆御代参の御下り罷り成り候。御自
  筆の心経一巻御諱遊ばされ、ならびに金襴の御戸張献納遊ばされ候。其後は右多宝院祖父宝仙院代迄、毎年正月江戸へ罷り登り、越中守様御屋敷へ罷
  り出で、御祈禱の御守札献上仕り候、貞享元年より越中守様金三拾両、御袋様より金弐拾両宛、毎年御献納遊ばされ候。
               (以下略)

 

 

 

 

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