津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■伊丹康勝からみ・・・?

2022-03-07 10:09:18 | 人物

 過去に何度も「伊丹氏」に触れてきた。細川藤孝・忠興父子のそれぞれの側室が伊丹氏であることによる。
後に黒田如水の養嗣子となり伊奈木黒田家13,000石を起こした伊丹氏周辺の系図をいろいろ調べて、細川家との関りを調べているがなかなか女系をたどり真実に近づくには無理がある。

 話は少々ずれるが、昨日「与五郎(興秋)宛内記(忠利)書状」をご紹介した中で、文中の人物「伊喜助」について、小川研次氏の論考をご紹介した。伊喜助とは当時の勘定奉行の伊丹康勝と比定された。
私は100%間違いないと思ったのは、忠興-綱利の相互の書状のやり取りや、二人が直接発する書状、また周辺から届く書状などで、この名前を良く散見できるからである。
先の細川藤孝・忠興父子の側室に係わる系図の中で、加藤(伊丹)重徳の父親を伊丹康勝とするものがあって大いに頭を悩ませてきたが、これはどうも怪しく作意が感じられた。重徳は幼い頃に父親を亡くしたらしく系図が存在しないと記載されている。しかしながら伊丹雅勝に結び付けている。これにも大いに矛盾が感じられ、二人の生没年からすると兄弟としか思えない。
雅勝の父親は摂州伊丹城主・大和守雅興(元扶)であり、この辺りは歴史上確かな足跡を見ることが出来て居り、いわゆる「大物(だいぶつ)崩れ」と称する細川家の対立と滅亡に係わっている。

その雅興ー雅勝の系統に忠興・忠利時代に親しい交流があった播磨守康勝(喜助)が存在している。
ウイキペディアによると、康勝は雅勝の三男であるとされる。
藤孝・忠興とその側室伊丹氏の接点は案外この康勝ではないのかと考え出した。
少々無理押しのところがあるが、あり得ぬ事ではない。面白くなってきた。

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■隠居する人拒む人

2022-03-07 06:28:27 | 徒然

 先に取り上げた細川齊茲は、もとはと言えば宇土支藩の藩主であった。本藩の9代当主・治年の死去に伴いその跡を襲封した。
宇土支藩は嫡男・立之がわずか三歳で相続が承認されている。
治年室は齊茲の実姉である。治年には男子があったが幼少であったため、ワンポイントリリーフの感がある。
齊茲自身治年の後継と目された治年二男・應五郎の成人までと公式発言をしている。しかしながらこの男子がなくなったため、本家相続後に生まれた齊樹を嫡子として届け出た。
その齊樹が23歳で一橋大納言治齊(徳川將軍家斉の実父)女紀姫を室に迎えるにあたり、齊茲は家督を譲り隠居した。44歳であった。

 隠居を拒んだのは綱利である。二人の男子を成人に至らぬ時期に亡くした。
懇意であった柳沢吉保の三男を養子に迎えようと画策しているがこれは幕府の受け入れる所とならずとん挫した。
そこで弟・利重(新田藩初代藩主)の二男・利武を養子とする。宣紀である。
しかし5年ほどに渡り隠居の気配がなく、藩内では「押込め」の気配があったと「鸚鵡籠中記」は記録している。
綱利の寵臣とも言われた家老・木村豊持が綱利の居間の御次間に三日間寝ずに詰めて隠居するよう諫言をしたと伝えられる。
正徳二年七月70歳で隠居、三万石の隠居料であったというが細川家の財政悪化を産んだともいわれる綱利の浪費ぶりだが、二年後の正徳四年に死去した。

余計事:
綱利夫人は讃岐の松平頼重・水戸の水戸光圀兄弟の実妹である。綱利との間に五人の女子をなした。
側室に二男四女を為したが、これはすべて正室死去後のことである。綱利の姿勢がみてとれる。

宜紀はなんと宗家の養嗣子となる前に4人、養子となってから2人、養父隠居後15人の子女をこしらえた。
これはもう「癖」と言わざるを得ない。正室がいないというのもうなずける。
諸藩とも財政悪化の原因の一つとして子女の結婚費用があったとされるが、8人が夭折しているとはいえ、まさしくそのことが言える宜紀である。
江戸城内で命を落とした宗孝には、名君と言われた重賢の二人の男子は父親の「女癖」の悪さを反面教師にしてか、宗孝は側室以外に側室は見受けられず、重賢には3人の側室に二男一女をもうけたのみである。  

 

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