過去に何度も「伊丹氏」に触れてきた。細川藤孝・忠興父子のそれぞれの側室が伊丹氏であることによる。
後に黒田如水の養嗣子となり伊奈木黒田家13,000石を起こした伊丹氏周辺の系図をいろいろ調べて、細川家との関りを調べているがなかなか女系をたどり真実に近づくには無理がある。
話は少々ずれるが、昨日「与五郎(興秋)宛内記(忠利)書状」をご紹介した中で、文中の人物「伊喜助」について、小川研次氏の論考をご紹介した。伊喜助とは当時の勘定奉行の伊丹康勝と比定された。
私は100%間違いないと思ったのは、忠興-綱利の相互の書状のやり取りや、二人が直接発する書状、また周辺から届く書状などで、この名前を良く散見できるからである。
先の細川藤孝・忠興父子の側室に係わる系図の中で、加藤(伊丹)重徳の父親を伊丹康勝とするものがあって大いに頭を悩ませてきたが、これはどうも怪しく作意が感じられた。重徳は幼い頃に父親を亡くしたらしく系図が存在しないと記載されている。しかしながら伊丹雅勝に結び付けている。これにも大いに矛盾が感じられ、二人の生没年からすると兄弟としか思えない。
雅勝の父親は摂州伊丹城主・大和守雅興(元扶)であり、この辺りは歴史上確かな足跡を見ることが出来て居り、いわゆる「大物(だいぶつ)崩れ」と称する細川家の対立と滅亡に係わっている。
その雅興ー雅勝の系統に忠興・忠利時代に親しい交流があった播磨守康勝(喜助)が存在している。
ウイキペディアによると、康勝は雅勝の三男であるとされる。
藤孝・忠興とその側室伊丹氏の接点は案外この康勝ではないのかと考え出した。
少々無理押しのところがあるが、あり得ぬ事ではない。面白くなってきた。