加賀前田家に関することで、私の認識不足とまた新しい発見があった。
細川忠利の江戸證人としての江戸在住は慶長5年の正月25日だとされる。一方加賀前田家に於いても、利家室まつが江戸證人となったが、私は慶長4年の事と承知していたが、これが間違っていた。
慶長4年閏3月3日、前田利家が亡くなった後、9月に至ると「家康暗殺計画」「首謀者は前田利家」という報告が家康のもとにもたらされた。
利長は領国経営の為に帰国しており当地にはいない。居城伏見城から大坂城に入った家康はその危機を回避したが、この計画に関わったとされる「浅野長政、土方雄久、大野治長」は流罪に処せられた。
そして、加賀征伐が企てられるが、利長は弁明にこれ勤め11月に入ると、横山長知を江戸に遣わしてさらに家康に弁明に勤めた。その結果慶長5年和睦に至り、前田利常(利長嫡男)に珠姫との婚約が成立、徳川家との関係悪化を案じた利家室の「まつ」(芳春院)が自ら江戸證人になるとして当時住まいしていた伏見を5月下旬に立ち、6月6日に江戸に入ったという。
何故細川家はそれを遡る事5ヶ月、早々に忠利を江戸に送ったのだろうか。
『看羊録』という姜
(カン・ハン、日本読みはきょうこう)という人物が書いた著があるが、ここには「秀頼を奉じる利長は、家康に劣らぬ勢威があった。利長は諸大名とともに、『家康を殺して、その土地を分けよう』と謀り、血盟した。この謀略を佐和山城の石田三成が知り、家康に書状で伝えた」としてその諸大名を「上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣、宇喜田秀家、加藤清正、細川忠興」と記している。
姜
は、豊臣秀吉の第2次朝鮮出兵で捕虜となり、日本で3年間幽閉された人物で、日本の国情を本国に手紙で送ったのだが、それが『看羊録』なのだが、当時これが知られることは無かったろうが、当時の状況を知る上では興味深い。
母・芳春院の江戸證人としての江戸下向に対しては、加賀家中では反対が多かったらしいが、芳春院の決意は「いはんや君(秀頼か)の御ため、世のため、又は子を思ふ心の闇には、何をか思ひきわめて侍らんとて、やすやすと思ひたちぬ」との強い決意による行動である。
さて、細川家に於ける忠興の想いは如何であったろうかと想像するのである。