「平成肥後国誌」の編者・高田Drのすごさに遭遇した。
先に「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」をご紹介し、この資料を残した沢田延音についても■沢田延音という人物等でふれたが、なかなか人物像が詳らかにできないできた。
今日日、その「平成肥後国誌」で色々調べ物をする中、西阿弥陀寺町の西流寺清泰山の項を読み進めているうちに、沢田延音の書き込みが目に飛び込んできた。
「清正公史・肥後相撲司家・西南の役など郷土史研究家の竹輪屋出身の沢田延音が居た。」とある。
このお寺がある場所は、「明治八年まで五福小学校の前身西阿学校があった処である。」とあり、このあたりに沢田延音の実家である竹輪屋さんがあったのだろうか?。
いやはやお詳しい。さすが師匠恐れ入りまして御座います。感謝申し上げます。
訪ねてみたいと思う二つの場所がある。一つは京都の建仁寺・正伝永源院、いま一つは大分の安心院の竜王城と妙庵寺である。
細川家の古い資料に「永源師壇紀年録」というものがあるが、永源院に由来するものである。正伝と永源院は別のお寺であったが、現在は合併されて正伝永源院という。
細川頼有以来のご縁で細川家の墓地と、織田有楽斎の墓地が存在し、かっては有楽斎の茶室「如庵」が存在したが、犬山城の東にある有楽苑に移築されており、ここには写しの茶室が建てられている。
現在では細川護熙さまの襖絵「知音」と、「聴雪」がみられる。
人様のサイト: 正伝永源院 織田・細川家の菩提寺
安心院町の竜王城と妙庵寺は、細川幽齋の三男・幸隆の居城と廟所である。
細川家記は妙庵寺を「中津」としているが、明らかな間違いである。
竜王城は中世の山城の風格があり、破城前の城は見事なものではなかったかと思うのである。
別府から宇佐へ向かう中間くらいの位置だから、いけないこともないが、車の免許がないことにはどうにもならない。
人様のサイト:大分> 豊前 龍王城(宇佐市安心院町)
細川一族の中では認知度があまりないように思われる幸隆は、能や謡の世界では一目置かれる人物であり、かって能楽宝生流の機関雑誌「宝生」(昭和48年7月~)に三回にわたり掲載された、中村格氏の論考「妙庵細川幸隆について」で詳しく報告されている。
511 | 妙庵細川幸隆について(その一)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00050, 宝生, 22-7, , 1973, 中世文学, 能 |
512 | 妙庵細川幸隆について(その二)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00050, 宝生, 22-8, , 1973, 中世文学, 能 |
561 | 妙菴細川幸隆について(その三)―安土・桃山期の能伝承者―, , 中村格, ホ00005, 宝生, 23-2, , 1974, 中世文学, 能 |
田辺城籠城に於いての活躍や、10,000石を領して竜王城を預かっているが、武人というより、父・幽齋の文人の血を多く継承しているように感じられる。
娘「兼」があり、筑紫左近重門に嫁ぎ延宝3年に熊本で69歳で死去しているが、父・幸隆と並ぶように妙庵寺に埋葬されたと伝わる。遺言であったのだろうか。兼の娘・吉は志水新之丞に嫁ぎ幸隆の家系は女系の故をもって途絶えた。