「木下韡村日記」(八)ー3に時習館教授・高本紫溟の歌が記されている。
(弘化二年)十一月廿一日
高本教授、人々学校を嘆せしに
冬枯の野邊を見つつ思ふかや かくても春ハもゆる若草
人々が学校・時習館のことについて嘆いているというのだが、どうやらこれは時習館内に於いて実学連の結成がみられることによるものではないかと推察される。
時習館訓導・中村恕斎の「恕斎日録」11月9日の記録を見ると、「訓導中、実学連の動きについて談合」という頭注の記事には「実学連と唱、坪井・京町諸生党を催、色々御教化之筋ニ障り可申哉之模様ニ付、教授江内意いたし、惣教衆江申出ニ相成可申との談合也、(以下略)」とある。
実学派の家老・米田監物の動きに対して、11月24日に至り訓導中より教授の近藤英助をたのみ、「監物殿存念を伏(ママ)蔵なく被申聞度」申し入れ、近藤はその月の晦日に談合するとしているが、晦日周辺にこれに応じる記事はない。
高本(元)教授のこの歌は、そんな状況を意味深に歌っている。
時習館における米田監物や横井小楠らの実学派勢力の伸長を「冬枯の野邊」として、その状況を憂いながら、「それでもまた若い新しい塾生が勉学に励むことだろう」との期待が見て取れる。
なにげなく記されたような韡村の日記の記述だが、新たな時代の息吹が見て取れる。