今日は禅定寺をお尋ねした。和尚様には長時間お付き合いをいただき、熊本大地震後の歴史墓の現状などをつぶさに拝見、ご説明などを賜った。
加藤家・細川家時代を通じての著名な方々のお墓が数多くある。又無縁墓も数多くあり、整理に明け暮れて居られる。
高祖父・上田久兵衛のお墓も倒れたまま、私も関係者ではあるがお墓の監理は直系のご親族が居られるから、ただ手を合わせてお詣りをした。
顕彰碑も倒れたままである。
並河志摩守の大きなお墓も倒れたまま、ただご子孫の米村家のお墓が目の前にあったが、これが新しく場所を変って新しくなったため、重機での作業が容易になるとお慶びであった。
貴重な歴史墓の存在は、計画道路の変更というあまり聞きなれない行政措置により、その変更案により新町から直進する形でまさに工事中である。
藤村男爵家その他のお墓はその道路工事にかかり、立派なお墓が姿を消した。
またご住職が槙島昭光(云庵)のご子孫という事で系図を拝見できた。その女系のつながりも知ることが出来、有難い時間を過ごした。
例えばウイキペディアの前田利家室「芳春院」の項を見ると、「江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制が確立するが、芳春院はその第一号となる。」とある。
私がこだわっているのは、「芳春院はその第一号」とする文言である。これは明らかな間違いであることを指摘しておきたい。
先に取り寄せた石川郷土史会発行の「石川郷土史学会々史-第54号」にある記事、「芳春院江戸證人一件」にある通り、それは慶長5年6月の事であり、細川光千代(忠利)の正月25日が第一号である事は明らかである。
芳春院は細川忠興の嫡男・忠隆室千世姫の生母である。二人は父忠興によって離縁させられるが、これは細川家と前田家が婚姻関係にある事が災いした。
両家の婚姻関係に徳川家が水を差した。それ以前、徳川家康暗殺未遂事件が明るみになり、浅野長政・土方雄久・大野治長らが罪を得て流罪となった。前田家も一等の疑いをもたれ、その和解に至ったのが慶長5年の3月である。1月には細川光千代が細川家の人質として江戸に下った。上記論考の記述を借りれば、江戸城内の人質屋敷に留め置かれたのであろう。(当時前田・細川共に江戸藩邸はない)
ガラシャ夫人が生害し、千世姫が姉・豪姫の屋敷へ逃れた事に対し、忠興は大いに怒り離婚を言い渡したが、忠隆はこれに従わず前田家を頼っている。
前田・徳川の間、また細川も謀叛を疑われ漸く和議に至り光千代を江戸へ下している中に於いての忠隆の行動は、前田にしろ細川にしろ迷惑なものであった。
私が、この論考をわざわざ手に入れて確認したかったのは、千世姫がいつ加賀に帰ったかという一点につきる。
これは細川忠隆の子孫である内膳家が主張されている、忠隆の三人の姫の生母が千世姫だとすることへの違和感から発している。
上記論考によると、千世姫は忠隆と離婚後加賀へ帰国し、慶長10年に加賀八家の一、村井長次に嫁いでいる。
内膳家の長女の生年が慶長5年であり、千世姫の御子である可能性は合い得ない妥当事を指摘して置きたい。
この論考により、私の二つの疑問が解決した。