細川内膳家に於かれては、忠隆公の三人の姫の生母は正室であった前田利家の女・千世姫であろうとされている。
忠隆公は父・忠興によって離婚を言い渡されたが、これに復せず廃嫡されたが、暫くの間同居していたのだろうと推測されている。
長女の徳姫(西園寺左大臣實晴簾中)の生年は、永源師壇紀年録に記録があるが慶長十年生まれだとある。(p123)
前田家の記録によると、慶長五年六月、利家の正室・芳春院(まつ)は、家康に対する謀反の疑いで前田家が危機に瀕し、自ら江戸へ證人となり下った。
気に成る事は娘「千世姫」のことであり、千世が前田家に帰り村井長次に嫁いだが、その長次に対し「お千世に会いたい、お父上(前田八家・村井又兵衛)とともに、お千世を江戸へ下してほしい」と懇願している。
又兵衛は芳春院のために江戸と加賀を往復しているが、この事が実現したかどうかは前田家の記録でも判らないらしい。
判っているのは、慶長十年より前の話だという事がわかる。それはこの又兵衛が慶長十年に江戸で死去していることである。
そしてその時期、母・芳春院をあんじながら、千世は加賀で村井長次と共に暮らしていたのである。
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