津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家と加賀前田家

2023-11-12 07:37:07 | 史料

                             
 昨日の史談会で2時間ばかりお話をしたが、前段であまりにも時間を摂りすぎて、レジュメの後半部分に触れず終いになってしまい、出席者の皆様に深くお詫びをするという体たらくになってしまった。

その中で細川家と前田家の縁戚関係に触れ、嫡男・忠隆がその故を以て廃嫡されるという結果になったことを縷々ご説明した。
一週間ほど前、ここにご紹介する石川郷土史学会々誌に「芳春院江戸證人一件」という記事がある事を見出し、注文していたが、昨日の朝お話のために我が家を出る時ポストに投函されていて、そのまま会場に持ち込み、内容を確認した。

徳川家康暗殺未遂事件で疑われた細川・前田両家が、和睦の条件として出された江戸證人については、巷間云われるように、前田家が細川家より早いという説は、前田家側の史料により否定されていることを確認し、滑り込みセーフのご報告をした次第である。
細川家は細川忠興三男光千代(忠利)が慶長五年の正月25日江戸入りしているが、前田家の利家夫人・芳春院は3月3日の前田-徳川の和解後、6月6日に江戸入りしたことが、この会誌に紹介されている。
上杉征伐から関ケ原の戦いが始まり、ガラシャが死に、細川幽齋は田邊城で15,000の敵に囲まれ、松井・有吉は豊後の石垣原で大友勢と闘うという大変難儀な一年であった慶長5年という年であった。
そんな困難を乗り越えて細川家はその年の暮れ、雪深い山陰路から拝領した豊前399,000石の領地へと入る事になる。
嫡男・忠隆と室・前田千世姫の離婚は、真実の処何時だったのかは、この資料を見ても確かなことは判らない。
但し、忠隆の姫の生母を前田千世姫とするご子孫内膳家のご主張は、現実的ではないことが伺える。

コメント
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