津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■隠居趣味の歴史

2023-11-08 20:53:39 | 徒然

 以前もふれたがブラタモリ「北九州編」で、いみじくもタモリ氏が「黒田と細川は仲が悪いからね~」と発言していたが、福岡県人はこの事をどうとらえているのだろうか。
元来秋の収穫は次年の生活の糧であるから、移封され慶長五年の年末に入国する細川の為に置いていくのが筋であることは間違いない。豊前国唐津城主12万石だった黒田はそれをかすめ取って行った。
その量が11万石にもなるというのだから、知行の4割近いもので気の短い忠興(399千石)が沸騰したのは当然だろう。
処がこの事は、黒田家史料には登場しないという。黒田家が面目の為に意図的に記録から除外したのだろうと某教授は仰っているが、科学的実証が伴わないとすれば、歴史学上はこの話は本当かという話なるのだろうか。
あら方事実であろうという推測の元に、別の史料を掘り起こして実証していくのだから、これは探し回ってもなかなか見つかるまいと思われ、ある時ひょっこりどこからか資料が顔を出すのかもしれない。
「地域史研究の場合、日本歴史の展開の中に位置づけられたその主体性を怠れば、それはお国自慢の隠居趣味」とは、森田誠一先生がその著「歴史滴録」で語られる処である。
森田先生(タモリ氏ではない)が仰せの如く、津々堂のやっていることはまさしく隠居趣味だと自認はしている。

タモリ氏にも「黒田と細川は仲が悪かったと伝えられるからね~」と訂正をお願いしなければならない。
それでも歴史は面白い。私は稗史が大好きである。



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■立冬

2023-11-08 11:03:50 | 徒然

 今日は立冬、星野麥丘人という私と同年代の俳人の句に「立冬のクロワッサンとゆでたまご」というお洒落な句があるが、立冬の朝のほのぼのとした風景が見て取れる。
糖尿病の私としてはさしずめ「立冬や野菜サラダとヨーグルト」といったところである。朝食前には血圧その他の測定を怠らずにやる。

             立冬や  脈もつねなる拍動す  津々
 
 一昨日までは夏日が六日間続き、新記録になったようだが、紅葉がまだ本格的ではない。

立冬と言ってもピンと来ないのは、温かさのせいもあるが何時もと様子が変わらぬ変らぬ朝ぼらけだ。
今のMに引っ越してきてから、私は毎日東の空が白むころには起き出しているが、「毎日初日の出」を拝んでいる。
刻一刻と移り行く朝の景色は、まさに一期一会のたたずまいを見せてくれて、元気をもらう。
日の出の時間が随分遅くなり、その位置も随分南へ動き、季節の移ろいをこんなことでも感じている。

             立冬や 昨日に変わらぬ朝ぼらけ  津々

             

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■根拠が知りたい、「興秋出奔=飯岡父子誅伐=米田是季出奔」事件

2023-11-08 06:08:37 | 歴史

 慶長9年忠興の生死に関わるような大病を受けて、徳川家の干渉もあって忠利が継嗣子と確定すると、奇跡的に本復した忠興は、二男・興秋を江戸へ証人として送る事を決意、付け家老とも言われる長岡(飯河)肥後に出発を渋る興秋の説得を依頼する。
なかなか翻意しない興秋を説得したのは、忠興の側室であろうと思われる「小さい将」である。
小さい将は誓文の案文までも呈したらしく、興秋はこれを受けて江戸へ下る事を決意している。
そして、翌10年に至り長岡肥後らと共に豊前を出発した興秋は、京都入りすると建仁寺十如院で突然剃髪する。肥後らの知らぬ間のことであった。
肥後らは帰国して復命するも、謹慎を申し付けられた。この事は使者を以て幕府に届け出られたが、その使者が帰国すると、飯岡父子の誅伐事件が起こった。
面目をつぶされた徳川幕府の指示であったろうことが伺える。

この事件はまだ後を引いている。飯岡肥後の奥方は、三年以上夫婦仲が悪く疎遠であったが肥後の最期に当たっては肥後の元に戻り共に死した。
この奥方は長岡監物(米田是季)の妹だが、この事件が原因と思われ監物は豊前を出奔している。

 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉教授は、この一連の「興秋出奔=飯岡父子誅伐=米田是季出奔」事件を御家騒動ととらえ、忠興が「興秋勢力を強行的に排除する措置をとることで、回避されたのだった。」(稲葉継陽著ー細川忠利・ポスト戦国世代の国づくり・p27)と解説されている。

つまり、長岡監物の出奔に関して何らかの圧力があったという事だろうか。
歴史学は科学だといわれる。根拠あってのご発言だと思うからその根拠を知りたいものだと切望する。
米田監物は出奔から15年後、家督相続した忠利が直後に帰国を促した。そしてしばらく後家老の第二席に就任することになる。

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