先の史談会での話のとっかかりで、50年ほど前のある会合で細川護貞様が仰った「細川家は北朝です」というお話を申し上げた。
30歳前後の事だが、護貞さまが「自分の師」と仰っしゃる狩野直喜(君山)が、私の祖母の叔父にあたる事から、あわよくばそのことを申し上げてご挨拶しようと思ったが・・・叶わなかった。
「細川家は北朝です」ということは、その出自が足利家であるから当たり前のことだが、その当時は歴史にはとんと疎く、そんなことさえも知らなかった。
長ずるに及んで、護貞さまのその時のお言葉の真意は何であったろうかと考えるようになったが、お亡くなりになった今、知る由もがなである。
熊本細川家初代の藤孝公は足利将軍・義晴の庶子だとされる。生母智慶院(清原宜賢女)が藤孝を身ごもったまま細川(三渕)晴員にお下げ渡しになった。
それゆえに、義弟にもなる将軍義輝亡き後、義昭を一条院から救出し、長い流浪の末織田信長をたより義昭の将軍復帰を実現させた。
その後、義昭から離反して信長に着いたが、終生義昭に心を注いでいる。まさに藤孝は足利の人である。
50年も前の話で、前後の話は全く覚えておらず、護貞さまのお言葉はそのようなことを仰りたかったのではなかろうかと推察している。
皇室の正統を云々する「正閏論」は、明治天皇の「南朝正統」のお言葉を以て決着した。
北朝の天皇(現天皇もそうだが)は、足利により並擁立された「閏」という訳である。
その足利の末裔であるという意味合いも多少ながら嗅ぎ取っているのだが、1966年ご次男近衛忠輝さまが、三笠宮甯子さまをお迎えになり、皇室とのつながりも生まれた直後でもあったから、そんなお気持ちもお有りではないかと推察している。
所詮は、「津々堂の戯言」ではある。
今年の2月初め■城下町図掲載のリクエストを書いた。
現在当ブログでご紹介している「熊本城下町図(安政比)」以外の絵図に掲載されている肥後藩士宅のリストの作成についてのリクエストであった。
9ヶ月を経過したが遅々として進まない。
少々考えすぎて「細川藩家臣略歴(川口恭子氏編)」に連動させようと思ったのがいけなかった。
つまり、諸家の場所の掲載がある頁を「肥後細川藩侍帳(津々堂版)」に記載したいとの思いがあってのことだが、これをやり始めると、まさにその侍帳を作る時と同じような作業が必要になる。
爺様はすっかり音を上げてしまった。約束は約束だ、辞めるわけにはいかない。
さあどうしようと思ったら、手が止り半年ほどが過ぎてしまった。・・・・・・・・まずい、大いにまずい・・・・・・・・・
平成28年11月熊本史談会例会で「熊本城下を古地図で散歩する」として、資料として配布したのがこの写真だが、このブログ内で「我が家検索リスト」でご紹介したように、掲載ページごとにしたら「簡単じゃん・・」と、少々手抜きすることにした。
約束したことは何とか完了させなければならないが、私には年齢というどうしようもないハードルがあるから、これを越すには手抜きも仕方あるまいと思い付いたら気が軽くなった。
その内に1頁毎、リストをこのブログに掲載しようと思っている。
まだ太陽は上がらないが今朝は誠に爽やかな気分である。