明治天皇に仕えた永田永孚の母親は、蟄居させられた津川平左衛門女だとされるが、その永孚の著「還暦之記」には「国老遠坂関内、奉行入江某後素泉ト云ト共ニ三人故アリテ蟄居ヲ命セラル、其事秘シテ漏レスト雖トモ、公ノ郡夷則ヲ寵信シ華奢ノ風ニ移ルヲ極諫セシニ因テナリト云」とある。三人のうちの一人が大目付・津川平左衛門だとする。
以下の三人が享和元年11月、経済政策の失敗(?)を糾弾され免職、閉門・蟄居を仰付けられた。
「熊本藩年表稿」には次の様な記載がある。
享和元年(1801)11月18日、中老兼大奉行・遠坂関内を免職し閉門蟄居せしむ。
中老堀丹右衛勝文を家老に任ず(交代人事)
11月19日、奉行松下久兵衛に大奉行助勤を命ず(交代人事)
11月21日、大目付郡夷則を中老に任ず(交代人事)
11月29日、遠坂関内退役触状
是月、留守居大頭津川平左衛門の職務を免じ閉門させる。(大目付とも)
享和3年(1803)9月14日、奉行入江十郎大夫に蟄居を命ずる
文化13年(1816)11月3日、藩主齊樹帰国し滞在中遠坂列三人へ目見えを許す
文政2年(1818)8月、是月元中老遠坂関内、元大目付津川平左衛門、元奉行入江十郎大夫の罪を許さる。
毎度指摘するのは細川家の手元不如意である。緊縮財政でなんとか難局を乗り越そうとする大奉行・遠坂に関して、の当時の藩主・齊茲が側近郡夷則らの意を受け免職させたというのがこの事件の本質らしい。
齊茲公も重賢公の遺訓を忘れ「華奢ノ風」に走られた。そして、有能の士三人は15年という長きに亘り閉居させられた。
遠坂関内は遠坂家の9代目だが、養子でありその実は熊谷傳之進の弟である。
父とも母とも頼んだ兄傳之進が病に付した時、蟄居の身ゆえに見舞いにも出られず、人を遣わしてそのさまを問ひ憂うのみであったという。そして実兄は死去しているが、葬儀にさえも出ていないのであろう。
世に住める詮(かい)も波間の磯千鳥 鳴音も須磨の關の隔てゝ
「關」とはまさに蟄居の身を嘆いている。
關内殿謹之後 家居也 不梳髪 不剪爪 塵垢盈皮膚 老公一年赴江戸 過關内之門 召之 召出而拝之 亂髪長爪 似佛形 公亦凄然 (田中氏雑録)
この文章からすると、関内は江戸で蟄居したか?
謹みよく閉居して、髪に櫛も通さず、爪も切らず、皮膚も塵垢にまみれていた。齊茲公が参勤の際関内の家の前を通られ召されたので拝すると、乱髪・長爪の佛形の関内の姿に齊茲公は凄然とされた。
公にあり讒言により身を亡ぼすもの、君側の寵臣の不都合なる進言をなすもの、世は様々だが如何にも哀れを誘う話ではある。