私がブログを書き始めた頃「忠利の生母は小侍従」と書いたことがある。
こんなことは綿考輯録には絶対書いてはないから、どこかの本で読んだことを書いたのだろう。
出処は戸田敏夫氏著の「戦国細川一族・細川忠興と長岡与五郎興秋」だろうと思われる。
先述の如く現在この本を精読しているが、p226に以下の如く、間違いなく書かれている。
系譜には、忠利の母について、光秀の娘または秀林院、と書かれた忠隆、興秋と同じとある。つまりガラシャが母だったとあるが、
実は忠興の側に仕えた小侍従という女性と、忠興の間に生まれたのが忠利であったようだ。小侍従は、公卿清原頼賢の娘で、その容
貌はガラシャに似ていた。一説には、清原の養女とも、ガラシャの妹ともいわれる。おそらくガラシャと小侍従は、お互いの容貌、
姿の類似から、姉妹のように、気心の合ったふたりではなかったか。二人が手紙のやりとりを随分行っているのを見ても想像がつく。
だが忠興は、小侍従が忠利を生んだあとは、すぐ小侍従を家臣の松本因幡と妻わせた。因幡は元の姓を平田といい、知行百石。
京の者で、宮津時代から細川家に仕え、田辺籠城などを経て丹後以来の働きが認められ、豊前へ入国ののち三千五百石に加増された。
戸田氏は自信満々の躰で書かれているが、出典を書いていただいているとよかったのだが、上記の如くブログで書いて、お叱りをいただいたことを思いだした。
「~だともいわれる」という表現があるがこうしておくべきだったと思うが、この言い回しのありようは誠に便利である。
この本の最期には「略歴/細川家と周辺のひとびと」という、個々人の略歴が紹介されているが、こちらにはしっかりと忠利の生母は「忠興の三男、生母は光秀の女」とあり、御愛嬌である。
■ 松本助左衛門 【丹後以来】 (南東37-19)
1、平田因幡 【田辺城籠城】 妻・忠興公室(ガラシャ)御付「小侍従」
生国佐々木の氏族也、佐々木家没落ニ付、離国後、京都に居申候、兼々忠興君御懇意て、
是非丹後へ罷越候様、米田宗賢を以被仰下其子彦三と共に、宮津江罷越、数日被留置、御
懇意相重り、百石の御擬作被下、其上御前様江被召仕候、小侍従と申女房あしく不被成訳
にて候を、因幡妻ニ被下候、取持候様にと宗賢妻ニ被仰付、嫁娶仕、何となく御奉公申上
候 (中略)今度宮津にても働き、直ニ駈来、篭城仕(田辺城)父子共ニ北海手の持口の
内、宮津衆各と有内成へし御利運に成、三斎様関原より御のほりのせつ、父子途中まて罷
出候へは、籠城の次第被聞召上、御感之旨被仰出、夫より福智山江御供仕、働申候、豊前
に被召連、丹後已来之忠義御感有之、因幡へ御知行三百五十石被下、平田を松本と被成下
候而、御櫓一ヶ所御預被成候 (綿考輯録・巻五)
小侍従 明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方伏見御
城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ御立退被成候、然
共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐私儀常に奉似御面候体候由承
候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よ
く御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申
候而も後家へ御合力米被下候 (綿考輯録・巻九)