津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ブラタモリ満喫

2023-11-11 20:46:21 | 花押

 今週の「ブラタモリ」は「鯖街道」が取り上げられていた。
カックンと曲がった鯖街道(若狭街道)は、断層がもたらしたものと解説されていたが、二つの断層が同時に動いて形成されたとは予想打につかなかった。
今日は史談会で2時間ばかりお話をしたが、「熊川城主としての沼田氏」を御紹介することを忘れていたが誠に残念だった。
細川藤孝の実父といわれる足利義晴とその子・義輝についても、散々触れた処であったが、まさか朽木の里に逃れ邸宅があったという事は、私も知らなくて大いに勉強になった。
朽木氏の29代目のご当主が登場されていたが、細川家にも分流の朽木家(三淵家流)もあり、興味深く拝見した。
        

ここにある様に「京は遠ても十八里(72㌔)」といわれる鯖街道を歩き通して(?)の紹介は、タモリ氏にとっても楽しい一日になったようだ。
私もおいしい鯖寿司が食べたい・・・


来週は「目白」だそうだ。多分旧細川家関係の肥後細川公園や永青文庫、和敬塾や胸突き坂、神田川筋などが紹介されることを期待している。
今私は、久しぶりに生まれ故郷に旅行をする一週間前というような感覚の中にいる。

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■明治維新期まで続いた松井家への豊臣家・徳川家の知行

2023-11-11 06:10:22 | 歴史

 文禄の役で細川忠興について従軍した細川家の重鎮・松井康之は、嫡男の興之が手傷を負い重体となると、急遽帰国させたが治療の甲斐もなく名護屋で死去(文禄2年8月15日)した。
秀吉は、康之の帰国後、朝鮮での働きや嫡男の死去を慰労し、石見12万石を与えると表明した。
しかし康之は、あくまで自らは細川家の家臣であるとしてこれを辞退しているが、いつの頃か詳細は知り得ない。
一方、康之の母(荒川治部大輔澄宣の女)に対して茶湯料として与えられていた八瀬村の領地に加えて、新たに神童子村の160石余を加え、計173石余が康之に与えられた。12万石の話とこの知行とは、どちらが先であったろうか。

     一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子      (現在の京都府木津川市山城町神童子
     一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村      (現在の京都府京都市左京区八瀬
            合百七拾三石弐斗九升
          右令扶助之訖、可全領地候也
            文禄二年十一月十一日  (秀吉)御朱印
               松井佐渡守(康之)とのへ

 この措置は、秀吉が亡くなり徳川の天下になってからも引き継がれた。(若干内容は異なるが・・)
康之の後は次男の興長が相続したが、興長は細川家の筆頭家老・八代城主そしてこの知行による徳川家直参という身分となった。
将軍家の代替わりがあると江戸へ参勤した。

細川忠興は、秀次謀叛事件に娘婿・前野が連座して切腹させられると同時に、秀次から黄金100枚を拝領したことをとがめられ、切腹の措置を危うく逃れるが、その返却を求められ康之をして秀吉への弁明に勤める一方、家康へ100枚の融通を申し入れ何とか事なきに至ったが、康之の働きは顕著である。
家康の代になると、前田利長以下の家康暗殺の企てが露見したが、当事者が処分される中、忠興は大阪屋敷の砦化の普請や両国に於ける備蓄が疑われた。徳川家重臣からは攻撃の為の出兵を示唆されたが、家康に対し康之が弁明に奔走し、幽齋・忠興・弟興元ならびに康之が誓紙を入れて詫びることで決着した。

 いずれも、康之が身を削っての働きで、細川家入国後康之が病の床に就くと、忠興は沢山の見舞いの書簡を送り平癒することを祈り続けた。まさに細川家の為に身を捧げた一生であった。

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