以前にも書いたが、我が家が豊前に召し出された切っ掛けは、三斎公が数度、先祖が住む下松(市)に船を留められた際、御食事や御宿の接待をしたことによる。
その際御供をしていたのが、「槙島云庵(昭光)」であり、今一人の御供清田石見の周旋により召し出された。
さきに禅定寺をお尋ねした時そんなお話をした処、和尚様から家系図をお見せいただいた。
今の和尚様の姓は「最勝林(さいしょうりん)」であるが、ご先祖様は「槙島氏」である。清和天皇まで遡る系図であった。
「槙島昭光」の項を読んでいたら、室・上野清信■と記されている。■が妹か女か確認が定かではない?
この清信の女が足利義昭の室であり、妹が昭光の室である。その娘が清信の継嗣・秀政の室となって居り、槙島家と上野家のつながりは深い。
処がやっかいなことに、この将軍義昭の寵臣・上野大和守秀政はまさに細川家にとっては喧嘩仇ともいうべき間柄である。
ウイキペディアが記すところを引用すると、「義昭と信長が対立を深め、幕命によって形成された信長包囲網が信長の手によって崩されると、幕府に迫る織田軍を前に清信は義昭の面前で徹底抗戦を訴え、降伏を唱える細川藤孝と口論に及んだという。ただし、この時の口論を含めて義昭時代に活躍していたのは後継者とされる上野秀政で、秀政が幕臣内の反信長勢力の中心(以下略)」とある。
昭光による周旋だと考えられるが、細川家にこの子孫が召抱えられた。
忠興は「上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰」「郡主馬名字をあたへ郡勘右衛門と名乗候なり 」という記録がのこる。
三淵家に連なる郡家とは別流である。
足利義昭
‖
+---上野清信---+--●
| | 堀孫四郎
+------● +==大和守秀政
‖ ‖-----------郡勘右衛門門・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・郡(勘右衛門)家
槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)--- ●