槙嶋昭光
一先祖真木嶋信濃主輝元儀本名一色二而
御座候 光源院義輝公江被召仕城州宇治
真木嶋之城主二而罷在候
一高祖父槙嶋孫六儀後二玄蕃頭昭光与申候
右信濃守嫡子二而義輝公御側被召仕罷在候
其節忠節之儀有之為御褒美寝乱髪与
申御太刀被為拝領候 至後年玄蕃頭聟
志摩方江遣之候 右玄蕃頭儀義輝公御生害
以後者義昭公江被召仕昭之字并桐之御紋
被下之執権職相勤三好御退治之上信長公江
為上使罷越候處従信長公来太郎国行之
御刀御馬被下之候 右国行之刀于今所持
仕居申候 義昭公真木嶋御落城之節茂
玄蕃頭為城主罷在候 真木嶋落城以■
義昭公御供仕中国江罷下始終御奉公仕
届申候 秀吉公御代義昭公中国路ゟ御帰洛之節
玄蕃頭儀御供仕罷登候処従秀吉公玄蕃頭江者
各別為御合力現米貮千石被為拝領候 其以後
義昭公ゟ依御願右之御合力米御知行直被下
地方二而被為拝領之其節ゟ秀吉公江被召仕
御奏者役被仰付秀頼公御代迄相勤申候 右
玄蕃頭儀嫡子無御座候付一色民部大輔三男与
養子仕真木嶋勝太後二監物与申候 秀頼公
御側被召仕大坂御陳之節者父子之備各別
被仰付相勤申候 大坂落城以後玄蕃頭儀
御勘気有之候付
三斎様并加藤左馬之助殿御両所様二而御断被仰上
被成御赦免候 左候而玄蕃頭儀剃髪仕名与云庵与
改右御両所様ゟ御合力米拝領京都東福寺
寺中正覚院江罷出候 其以後左馬之助殿正覚院江
御出被成御国江可被召寄旨被仰聞候得共御断
申上罷越不申候 然處
三斎様正覚院被遊 御入豊前江可被
召寄之旨被達 上聞候真罷下可申旨
御直二被仰付候付罷下候処知行千石無役
被下置候 右真木嶋監物儀者大坂落城以後
妙解院様御肝煎与以藤堂和泉守様江被
召出候 其節
妙解院様和泉守様ゟ被進候御自筆之
御状于今所持仕居申候 云庵儀義昭公江
被召仕候時分従
幽齋様御懇思召被下訳御座候二付
三斎様御懇二而右之通御座候由承傳候 云庵
儀者
三斎様 妙解院様御代段々結構被仰付
御両所様ゟ被為頂戴候御自筆之御書等今
所持仕居申候
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藤堂高虎家臣 【槇島監物】
(真木嶋勝太、監物)。元、豊臣秀頼臣。一色民部大夫昭重の三男で真木嶋(槇島)玄蕃頭昭光入道云庵の養子。真木嶋氏は
清和源氏桃井流、本姓は一色。養父の昭光は足利義輝に仕え、その生害後は義昭に仕えた。天正元年七月の義昭挙兵の際は
真木嶋城主。義昭の降伏、追放に伴い中国にも随行。その後、義昭は豊臣秀吉より赦免され帰京。昭光も従って京都に戻り、
後、秀吉に仕えて二千石を給され奏者番を勤める。秀吉死後は秀頼に仕えて大坂両陣には速水甲斐守の麾下に属すという。
大坂落城後脱出し細川忠興、加藤嘉明らの嘆願により赦免された。監物は元和五年、細川忠利の肝煎により召し抱えられ
八百石を給される。