(大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)
此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上
為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
猶五助可申候 恐々謹言
越
(慶長五年)十一月廿八日 忠(花押)
内記殿
御返報
新旧歴の違いはあれど423年前の今日、忠興が豊前国(一部豊後領)を拝領し、その旨を證人として江戸にいる内記(忠利)に伝える書状である。
来春は(豊前)へ呼上ると言っているが、この望みは暫くかなわなかった。
文書の文頭には「此文肥前殿御母儀へ可被届候」とあるが、肥前殿御母儀とは加賀の前田利長の母・芳春院(まつ)のことである。
芳春院は忠興の嫡男・忠隆にとっては義母(室千世姫の生母)に当たり、共に江戸證人の身(この年の6月江戸に入った)であり、加賀藩の記録によると城内の證人屋敷に留め置かれたとされるから、内記も同様の待遇であったのだろう。
親しい交流もあったのだろうか。
忠興が忠隆に対して勘当を言い渡すのがいつであったのか、詳しい日取りが判らないが、この書状からするとまだその時期には至っていないように思える。
発せられたのは伏見あたりだろうか。この後細川家一統は希望に燃えて山陰路を進み豊前入りすることになる。
西暦換算すると2月1日だというから深い雪であったと伝えられる。