津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■殉教者・こさいしょう

2023-11-06 09:12:49 | 人物

 11月2日、熊本県立劇場で、朗読音楽劇「高麗門秘話‐小笠原玄也一家の十五人‐細川藩キリシタン武士の殉教」が催された。
寛永十二年(1635)十二月二十三日、この殉教は家族や召使など15人全てが殺されたが、実は別に二人の人が殉教している。
一人は志賀休也、今一人が小宰相(こさいしょう)と呼ばれる人である。
寛永十一年(1634)、細川家家臣志賀左門(大友一族)の家に志賀休也という筑後の浪人が寄宿していた。この時、春日寺(岫雲院)の書物(仏教徒である証文)を持っていたという。
しかし、小笠原玄也一家(妻は加賀山隼人の娘)と共に禅定院で処刑されたのである。
左門はこの翌年、大友兄弟、右京、権左衛門、休悦らと七月に転宗したと『肥後切支丹史』は記す。
今一人の小宰相についてはつまびらかな史料が見当たらない。その名前からして細川家の奥にでも勤めていたのだろう。
    先日、戸田敏夫著「戦国細川一族‐細川忠興と長岡与五郎興秋」を読んでいると「小さい将」という名前が登場してきて、上記の殉教者「小宰相」と同人物なのではないかと考えたりしたが、肯定する確かな史料がない。
この「小さい将」は忠興の側室であったらしいが、忠利が忠興の継嗣子となった後、兄の細川興秋が父忠興により江戸への證人に指名されたが、これに抵抗した興秋を説得したのがこの人物だとされる。
興秋は落ち着きを取り戻し、松井佐渡・加賀山隼人宛に「天罰起請文前書之事」を認めるとともに、同日この「小さい将」にも「申立てう/\の事」という五項目にわたる「誓文」を書き遺している。
興秋(たゝ以=忠以=ただざね)にとって身近な信頼のおける立場の人であったらしい。母ガラシャの近くにいた人かもしれない。
そして、もし殉教した「小宰相」と同一人物であれば、ガラシャが亡くなった後猛火の吉田屋敷から逃れた人の一人であり、当然切支丹であったのだろうと推測される。

                                       

 

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■史談会を前にして・・お勉強

2023-11-06 07:16:49 | 熊本史談会

             

 11日の熊本史談会11月例会でお話することになって、レジュメを作ったりパワーポイントを編集したりと一週間ばかりを過ごした。
そんな中で、改めて資料を眺めていると、錯誤があったり今迄知らなかった事柄などが顔を出すと、段々不安が募ってくる。
そこで改めていろんな本を読み返している。
藤孝公が生まれた天文3年(1534)から廃藩置県(1871)までの337年間を、1頁12年(左右両面)の年表にして、本を読んでは片っ端からここに記入して、細川年表を造っているが、いろんな事件・事柄などの時代的重なりなどが見えてきて興味深く、ここ数日で随分内容が充実してきたことを感じる。
ぎりぎり金曜日まで勉強三昧となる。
最近81爺様は年相応の劣化がひどく、とても人様の前で話が出来る状態ではなくなってきた。
恥をかかないようにという想いと、最後の御奉公かなとという想いが錯綜している。

コメント (1)
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