津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■拓本紀行・熊本の文学碑

2023-11-23 18:22:11 | 書籍・読書

                  

 図書館に出かけた折、目に飛び込んできたこの本を借りてきた。
熊本日日新聞社が平成20年に発行したものだが、今まで全く気付かなかった。
678頁に及ぶこの本は、編著者の尚絅大学文学部教授の能 陽石(本名・彰)教授が、奥様の協力を得て県下の538基の拓本を5年がかりで採られ、各人の歌や俳句また文学碑などの拓本・原文・状況写真や人物紹介などと至れり尽くせりで紹介されている。
能先生はこの本の出版を待たずにお亡くなりになっているが、心残りでおありだったろう。
一頁ずつページをめくりながら、大変な作業であったろうとただただ関心するのみである。
「あそこにこんな句碑がたっているのか」と、無知を恥じ入るのみである。
図書館の帰り道、江津湖の遊歩道から少し入ったところにある中村汀女の句碑「とどまれば あたりにふゆる蜻蛉かな」を、自転車を止めて眺めていたらまさしく蜻蛉が数匹舞っていた。
帰って確認するとp91にこの句が紹介してあり、その他数点の句碑が紹介されていた。
今度出かけた際に確認してみようと、いくつかの句碑の所在地をメモしたところである。

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■藤村紫郎と黒瀬一郎助

2023-11-23 07:43:52 | 人物

 先に禅定寺を訪れた際、藤村紫朗男爵や剣客雲林林(うじい)弥四郎のお墓が無くなっているのに気付いた。
禅定寺寺内には都市計画道路が走っていたが、いわゆる「歴史墓」が多く存在するため、歴史遺産保存を目的とし熊本県に計画の一部変更を訴え続けた結果、平成24年蒲島知事の大英断により、一部変更が認められメディアは「勝利の寺」と報じた。
その工事が現在行われており完成もまじかと思われるが、計画道路に上記二件のお墓がかかり姿を消している。
お墓は取り壊されたが、それぞれお骨上げをして別の場所に移されたという。

 私は建築設計を生業にしてきたから、この藤村紫朗という人物については「藤村式建築」という疑洋風建築を山梨県内に100件以上ともいわれる建物を建築した人物として認識していた。
幼いころから禅定寺の「藤村男爵の墓」と承知していたこのお墓が、「土木県令藤村紫朗」のお墓と知ったのは後年のことである。
そしてその実兄・黒瀬一郎助こそが、江戸留守居役吉田吉之助や横井小楠らが勤王党の暴漢におそわれ、吉田を殺害した人物だと知り、かたき討ちされ、その首級が「藤村男爵の墓」の隣に埋葬されていたことを知った。
いわゆる横井小楠の「士道忘却事件」の巻き添えである。

 熊本大地震で禅定寺寺内の歴史墓は甚大な被害を受け、倒壊したままの状態のものが数多くある。
ご子孫や関係者が判らないものが多くあり、これらの復旧は長い時間を要するものと思われる。


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