津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

コピー製本版の侍帳

2007-06-14 17:05:29 | 徒然
 友人が私の「肥後細川藩侍帳」をコピー(和綴じまでして)製本している。まだ間違いがゾロゾロ出てくる始末で、これは何とかお止めいただきたい処だが、「勝手たい」と言われれば返事のしようが無い。「二三文字ばかり改行されて体裁が悪いから、そうならないように気を付けてタイピングしろ」と小言まで云う。・・・勘弁してよ・・・「PCで見てくれ」というと、面倒くさいという。「利用する側の事をちゃんと考えてやれ」と口うるさい。「そんな積もりでやってる訳じゃないんだ」とちょっとへんぱくしてみた。「毎日/\書き込んでいるから、コピーしてもしょうがないだろう」といったら「又、その内にやり直す」とのたもうた。もう一年程前の話・・・多分そのままだろう(と思う)。最近は、綱利に対する松井興長の諫言の全文を、「早くUPしろ」とうるさい。予定してないんだよー。
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在宅願

2007-06-13 19:32:44 | 歴史
 細川藩には「在宅」という制度がある。家臣には居住地の制限があるが、「財政が苦しい場合に、地方へ行ってそこで一時的に生計を立て直して熊本へ帰る」という仕組みであると、松本寿三郎先生の解説がある(新・熊本の歴史4・さむらいの世界)。細川家の知行取りは約1,000人と言われるが、その1/4程の家臣が地方に在宅したという。新熊本市史には「在宅願頭書」というものが約170余件ほど掲載されており、現在その個々の情報を侍帳に転記している。これは各家の「手元不如意」を明らかにしようというのではなく、年月が確定されていて人々の動向が窺い知れるからである。又地方在宅の人が役をえて熊本へ呼び返される「引出」というものがあることが分かる。つまり役を得た年月が特定できる訳だ。多岐にわたる情報をえて、侍帳が複雑怪奇なものになりつつある。現在六割方完了。
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男の街

2007-06-12 23:09:54 | 徒然
 熊本城の石垣の独特のそりは「武者返し」と呼ばれ、裃姿の武者が端座しているようだと称えられる。虚飾を取り払った無骨とも思える其の姿は、肥後人の心のシンボルである。歌人安永蕗子氏はそんな熊本の街を「男(を)の街」と呼ぶ。そんな熊本もおしゃれに敏感な若者の街として知られるようになった。女性の県知事、若い熊本市長を育て上げたのは、女性の力だろう。築城400年を迎えて熊本の新しい旅立ちが始まる。道州制などがささやかれる昨今、今後の熊本をどうするのか、為政者ならずとも心しなければならない。明治維新によって過去は否定された。果たしてそうだろうか、否、慎ましやかながら豊かな営みもあったはずだ。古い町の路地に入ると、ふとそう思うのである。

     男の街の小路に細き夏衣 津々堂
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Question

2007-06-11 21:57:02 | 歴史
 宇土細川家六代興文(豊前守・中務少輔・月翁)は名君の誉れ高い人である。老中になるのではないかとの噂さえあった。生母は竹間氏津佐子であるが、父親は竹間定右衛門保定といいその叔父は福島正則であるという。興文女が細川宗家治年の正室となり、嫡子立礼はその治年の養子となった(斉茲)。斉茲の嫡子斉樹に継嗣なく弟(宇土八代藩主)立之の嫡男立政を養子とする(斉護)。こうして宗家の血は、宇土細川家の濃い血で継承されてきた。現細川家にも福島氏の血が流れているという事になる。果たして竹間氏とは何者・・・・・
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永蟄居

2007-06-11 13:01:56 | 歴史
 幼い小栗四兄弟が熊本城内の囲い屋敷に入った頃、細川忠利の末子長岡元知(南条元信養子)は、甥に当たる藩主綱利によって永蟄居となり、十一年ほどの月日を過ごしている。過ぎし日いわゆる陽明学徒の追放事件に関し、綱利に対してその罪の軽からんことを諫言して不興をかった。当時の奉行所日帳は「長岡左近(元知)殿儀、今日御前にて病気ニ御成候」とあり、後日の記録には「乱心・・・」とある。家老職を解かれ、知行(5000石)を召し上げられ永蟄居となった。左近29歳、綱利27歳である。この処分が解かれるのは元禄十年だというから、28年のながきにわたった。養父南条元信は、細川忠興の次男興秋の娘婿である。内室は家老米田是長女・吟、嫡子是庸はその米田是長の養子となって家を継いだ。小栗四兄弟が開放されるには、まだ三十年ばかりの月日を要するのである。むなしさばかり残る二つの事件。
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「本との日々」との日々

2007-06-10 13:14:40 | 書籍・読書
 高田宏氏の「本との日々」を読んでいる。1978年「言葉の海へ」で大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を併せて受賞された。1990年には「木にあう」で読売文学賞を受賞された。二つの本ともすぐに購入し今も我が本棚にある。「本との日々」のあとがきに氏は、「このさきそう多くは読めない。その事が実感される年齢になった。読みたい本だけを読む。読みだして相性がよくなかったら途中で止める。そういうわがままな読書になってきた」と書いておられる。まったく同感である。最近私は、新刊本よりは昔の著作に興味がある。さてどのような本を読もうかと思った時に、この本に出会った。百数十冊を取り上げておられるが、波長が合うとでも言うのだろうか、日々「お説ごもっとも」と思いながら熟読している。歴史探求もさることながら、欠落する脳細胞に新に情報を送り込もうという算段である。
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続・肥後藩士小栗氏

2007-06-10 12:05:54 | 歴史
 詳細な日にちははっきりしないが、幼い兄弟四人は乳母三人と共に、松平出羽守に預けられた。細川家にお預けが決まるのは延宝九年七月四日である。早速出羽守屋敷に出かけて受け取ると芝御屋敷に召置き、六日には江戸を発っている。上月八左衛門、堀内太左衛門、寺尾孫四郎、土山七郎兵衛、塩山牛右衛門、余田半助、三浦■五兵衛、釘本藤内、筑紫弥左衛門、北村与三郎及び本道御医師交野与元、外科御医師続■■、歩之御使番宇野左助という人たちが随伴した。その他歩之御小姓二十人、海陸賄方役人二人、御大工棟梁一人、足軽七十人、小頭一人とある。
 大阪に七月二十五日着、二十八日には船にて出発、六十丁立一艘、四十六丁立一艘、九端帆五艘、八端帆四艘、十丁立一艘、五丁立一艘、合計十三艘の船団は八月八日鶴崎に着いている。津田与左衛門、有吉清助、益田弥一右衛門、田邊十郎兵衛、矢野市兵衛、乃美傳左衛門、田中源大夫、岡田源左衛門、和気小左衛門、都築甚左衛門、津田半十郎ほか歩之御小姓十五人、足軽七十人、御馬医一人、御中間十八人、御かし馬七匹が替わって熊本を目指した。八月十二日熊本に到着している。幼い子供達の一月以上の旅は、大変であったろうことは容易に想像できる。そして40年にも及ぶ囲屋敷での生活が始まるのである。
子供らには何の罪も無いのに・・・
    「小栗氏御預人一巻」より

 尚、同文書の書き出し「松本越後守様之御家来小栗太作弟小栗兵庫・・・」とあるのは、松平越後守であり、小栗美作弟である。写本の際の誤記であろう。
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肥後藩士小栗氏

2007-06-09 13:42:17 | 歴史
 肥後藩士小栗氏の祖・小栗兵庫は、越後騒動の一方の主謀家老小栗美作(藩主光長室の妹婿)の弟で、事件に連座して流罪となった。兵庫には七人の男子があったが、下の四人が細川家にお預けとなる。岡之助・八歳、八之助・六歳、六十郎・四歳、小三郎・二歳である。三人の乳母がついている。城内の囲い屋に入れられここで四十年を過ごすことになるが、八之助は元禄七年十九歳で疱瘡により死去、小三郎も正徳三年労症(ママ)により三十四歳で亡くなっている。享保五年幕府より「御預人御免」の沙汰があり、岡之助・六十郎の二人は四十年振りに「囲い屋」を出ている。その後二人はそれぞれ五十人扶持を与えられて細川藩士となるのである。父兵庫は配流先で死亡、松平陸奥守に預けられた兄三人のうち二人は死亡残された一人が同じ日に同様の沙汰が下されている。

 なぜ四十年もの長い時間を要したのか、これは「越後騒動」の事件解決が将軍綱吉直々のものであったからだろうと推測される。細川家に於いても「預り人」であるからそれなりの待遇をせねば成らず、付き添ってきた乳母三人のほかに、下女四人を雇い、御預人付六人、同御目付四人、同御医師三人、その他上番十六人、賄方四人、料理番二人、荒仕子六人、下番人二十三人、門番二人、小使二人などを付けている。物々しさが窺がわれる。
一方越後松平家は津山に転封、御三家に次ぐ家格にて存続する事になる。
尚、小栗兵庫については「大日本人名辞典」に紹介されているというが、これを所蔵している図書館が熊本には無い。福岡あたりを調べねば成るまい。
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八代関係資料

2007-06-08 13:07:46 | 歴史
 細川忠興は愛息立允(立孝)をして、八代藩の立藩を考えていたようだが、当の立孝が亡くなり企ても水泡に帰した。忠興の死後八代と忠興に仕えた家臣などに些かの混乱が見られる。侍帳などを見ても離国と思われる数の多さに驚かされる。それらの経緯が「丹羽亀之允言上之覚」と名付けられた文書に詳しい。今ひとつ未見の資料に「松江城秘録」というものが存在している。光尚や家老達との間に取り交わされた書簡集らしい。宇土藩立藩にも関わる資料らしく興味が尽きない。
 
 今ひとつ時代は下る(文化十四年から文政三年まで)が「八代御城附疑惑一件」という八代松井家家臣と、八代御城附衆(本藩派遣)との確執の詳細が知れる書簡集がある。長きにわたる争いにも本藩は成す術も無くうやむやになったとされている。果たしてどのような事であったのか、必読すべき資料である。

 松井家やその家臣団、そして八代を知る上でも早速資料を手元に置き、読んでみたい衝動に駆られている。
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鷺絵源三郎久重覚書

2007-06-07 20:32:07 | 歴史
 茶道に就いての研究は専ら三千家が主流で、このような資料は茶道研究家の研究資料には成らないのだろうか。「寛永年間三齋公の懇命を被り、公の御茶湯の事を逐一見聞筆記したもの」と「肥後文献解題」は紹介している。私は上妻文庫の写本を拝見したが、これはもう素晴らしいものである。茶道具の絵や茶室の見取り図などもあり、二百十五ヶ条にわたるものである。コピーをするのには少々骨が折れそうなので、未だ手元に置く事は叶わないが、そろそろ頑張ってみようかと思っている。(1時間ほどコピー機を占領しなければならないだろう)何方か研究に頑張っていただける方は居ないかしらん・・・
いつも他力本願な私
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福地平左衛門というひと

2007-06-07 09:18:39 | 歴史
 肥後細川藩二代藩主光尚は31歳の若さで亡くなっている。「二人の子どもは未だ幼いので肥後国はお返しする」と、将軍家光の名代・酒井讃岐守に遺言らしき事を言って逝った。さて支藩宇土細川家に福地平左衛門なる人があった。中津においては忠興の近くにあった(500石)。光尚の死後、嫡子六丸(綱利)に40万石、宇土支藩の行孝(丹後守)に14万石と肥後分割封知の風聞がささやかれた。そんな風聞に接して、福地平左衛門は急遽江戸へ下り、藩主行孝にそのことの非を進言したという。そのことに立腹した行孝に手討ちにあったと伝えられている。結果として光尚の遺領は、若干七歳の六丸に相続されたが、平左衛門お手討ちのことは、秘中の秘のとされた。当時行孝は十四歳であり、そのこと如何とも思われるが、平左衛門が慶安三年死亡している事は事実である。行孝は平左衛門の亡霊に悩まされ、宇土支藩江戸屋敷には霊社が創建されたという。時代が下って宇土細川家六代目の興文(月翁)は、家老芦田・柴崎の夫々の子供に、福地の名にちなんだ福永・地本というニ家をおこさせたという。闇の中にあるこの事件は、後の大奉行堀平太左衛門が書き残した、僅かの文書のみによって知ることができる。平左衛門の死も又風聞の中に掻き消されている。
         参考文書:福知(ママ)一件・・堀平太左衛門勝名
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禅定寺のこと

2007-06-06 23:14:06 | 徒然
 九州新幹線の工事に関係して、熊本駅周辺の道路の付け替えが始まる。熊本の古刹禅定寺も墓域を削られて道路が走る事になった。此処には歴史墓とよばれるお墓が沢山ある。我が家も曽祖父夫婦ほか二三基の墓があるが、これは曽祖父の岳父「上田久兵衛」のお墓が此処にあるからだろう。上田のお墓はすっかり道に取られる。当然墓域の中で引越しが行われるわけだが、歴史墓なども整然とお並びいただく事になるらしい。古いお墓というものは、墓域を歩き回って思いもかけずに先人の眠っておられるところを見つけるところがなんともいいのだが、歴史墓も時代の波に翻弄されていらっしゃる。
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今晩の読書

2007-06-05 23:44:57 | 書籍・読書
 本棚をごそごそやっていたら、山本博文氏の「学校では習わない江戸時代」という文庫本(新潮文庫)が出てきた。ぱらぱら眺めるが読んだ記憶がない。どうも買ってそのまま本棚に放り込んだらしい。多分今年の三月か、四月かそんな所だろう。山本氏の事だから細川の話も出てくることだろうし、さて今から一時間ばかり読書と参りますか・・・。
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「ガラシャにつづく人々」

2007-06-04 20:27:02 | 書籍・読書
 列福の「小笠原玄也」について、新しい情報がないかぐぐっていたら、かって直木賞候補になった「ガラシャにつづく人々」という作品があることを知った。作者は若城希伊子という方だが、恥ずかしながら存じ上げない。
 「(直木賞)候補作家の群像」という非常に面白いサイトがある。AWARD決定の過程が窺がえて興味深い。第79回(昭和53年上半期)の直木賞だが、77,78回は受賞者がいない。そしてこの回は色川武大、津本陽の二人が受賞、候補者には泡坂妻夫・深田祐介・小檜山博・谷恒夫・小林信彦そして若城希伊子の名前があった。後には受賞される方々数名の名前が見える。

 「ガラシャにつづく人々」は
    第一章 天からのまなざし-細川ガラシャ-
    第二章 大和ごころ   -細川幽齋-
    第三章 小侍従いずこ  -清原マリア-
    第四章 黒い渦     -細川興元・興秋-
    第五章 もみじ散る   -小笠原玄也-
    第六章 炎       -細川忠興-
    第七章 心の殿堂    -高山右近-   とある。

 どうやら熊本県立図書館にも所蔵されているようだから、さっそく読んでみようと思う。若城氏は「源氏物語」の研究者らしい。どういう切り口の作品なのか、大変興味をそそられる。
 ・・・・しまった、明日は図書館は定休日だったよ・・・・
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小笠原玄也、福者に列す

2007-06-03 15:45:47 | 歴史
 6月1日、ローマ法王は江戸初期の殉教者187人を列福したと新聞は報じている。地元紙は細川藩士小笠原玄也の一族15名を含め、27人の熊本県関係者が福者に列されたとしている。詳細はカトリック中央協議会のサイト「ペトロ岐部と187殉教者の列福、正式に決定」に詳しい。
http://www.cbcj.catholic.jo/jpn/feature/kibe_187/decretum.htm

 江戸初期の熊本における吉利支丹弾圧の歴史は、悲惨を極めている。熊本の吉利支丹に関わる研究は、上妻博之先生のご努力に関わるものが大である。小笠原玄也についても「加賀山隼人佐と小笠原玄也」に詳しい。小笠原玄也については我がサイトの侍帳の中に僅かなスペースながらご紹介した。
 小笠原玄也は小笠原少齋(迦羅奢夫人生涯の際介錯、殉死)の三男である。妻みやの父加賀山隼人佐(家老7000石)も敬虔なる吉利支丹で、忠興の再三の棄教の勧めを断って誅伐されている。寛永十二年十一月四日、玄也夫婦と子供九人、下女四人の計十五人がこれも棄教の勧めを断り斬首された。熊本市西部、花岡山の中腹に「加賀山隼人正興息息女(玄也妻みや)の墓」がある。悲惨な最期を思うとき、360余年の刻をへて福者に列せられたというニュースは、少なからずホッとさせるものがある。

 ちなみに上妻博之先生は加賀山家の血が流れているらしい。其の事が「吉利支丹研究」
に情熱を注がれた事に繋がっているという。

 追記 6/4 カトリック中央協議会サイトのアドレスが間違っていました。
    ぴえーる様有難うございました。訂正させていただきました。
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