津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綱利と柳沢吉保の仲・・?

2010-02-20 08:05:42 | 歴史
      翁草巻77 元寶荘子下 「吉保誇権」

 吉保権に誇て大名旗本の屋敷を無體に所望し、或は繁昌の市店を追退て己が下屋敷とし、
 又賄賂の金銀堆く層■を成せば、用達菱屋庄左衛門より、江府中へ貸付させ、高歩を取り、若
 し返済滞るときは、其町より辨へさせ、其厳なる事公儀御為替銀拝借にも過たり、又萩原近
 江守等と謀つて、あらゆる新法運上課役を以て世を虐し、其公納半を過て、吉保が有とす、斯
 く金銀を聚て銅の筥を製して金千両宛を納め、竊び/\に領國甲府へ差登せて、城内に埋
 て要害金とする吉保が底意の程こそ測られぬ、総じて天下の列侯も吉保へ不諂輩へは、忽
 過分の御手傳御用、或は臨時の課役をかくるに仍り、大に是を迷惑して、さしも功家の歴々、
 各吉保に手を拱て因み寄り、其難を避ん事を欲す、吉保に諂ふ輩大家國主の内にては、藤堂
 和泉守、松平伊豫守豊前 細川越中守等、其餘勝て計りがたし、中にも 細川越中守綱利は、細川
 三齋の曾孫にて、世に知られたる家柄なるに、などやらん諸家に抜んでゝ、柳澤家へ追従諂
 世の人口を不愧、常に夜食を送り、後には御夜食料とて代銀にて遣し、又柳澤武運祈之為と
 て、護持院の月輪院へ大業なる祈祷をあつらへ、様々軽薄を盡さるれば、皆人嘲て夜食越中
 と異名せり因て吉保も細川事を殊に贔屓して、御城北之丸御普請御手傳を表向は越中守
 に願はせて勤之させ、内々金銀の出方は吉保が手法を以て細川方へは掛けざりしとぞ

  綱利は吉保の子を継嗣として養子に迎えようと画策している。これは老中の反対により頓挫した。
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越中褌

2010-02-19 22:04:00 | 歴史
         翁草巻六 當代寄覧抜粋 「越中褌」
細川越中守忠興 後松向庵三齋と號 軍用の利を考て、下帯を割下帯と名付て、中を竪に割て並
べ合せ、前にて結ぶ様に拵らる、是は具足を着たる時、常の下帯は後にて結ぶ故に、不勝手
なり、其利方を以て制せられ、家中不残是を用ふ、然るに後世には左様の譯も知らず、越中褌
とて、簡略の事に成りて卑賤のみ専ら用る事となりぬ

  越中褌の発明者は、細川越中とか松平越中とか諸説あるが、此の記述は細川越中に有利な傍証である。
   ちなみに元寶荘子の成立は綱吉歿後のことだとされるから、松平越前の線はないと言っていいだろう。
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足踏み運動器ステップ

2010-02-19 20:27:02 | 徒然
 先日数センチの段差につまずいてつんのめってしまった。どうやら転倒はまぬがれたが、唖然としてしまった。私は「通販生活」という季刊誌をとっているが、2010年春号のある記事を思い出した。アメリカの運動機器メーカー・ステップ社の「昇降運動器」である。H21×A36×B71センチのポリエチレン製の単なるステップ台だ。取り外し式の踏み台が二段あり高さの調整がきく。
これをただひたすらに上り下りする訳だが、大腿四頭筋・二頭筋、前脛骨筋、腓腹筋を鍛えようというものである。早速注文の手配をしているが、先ずはと思い20センチの段差を作って上り下りを始めた。今日で二日目だが、脛やふくらはぎがパンパンになって痛くてしょうがない。左膝の痛みもあってそうそう沢山は出来ないが、何とか続けられるのではないかとの感触はある。ダイエットにも繋がらないかと思っているがどうだろうか。68爺さまはなにやかや大忙しである。
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旧陪臣代数及原禄根帳目録

2010-02-19 16:40:50 | 徒然
 「旧陪臣代数及原禄根帳目録」の個人情報を、「あいうえお」別で検索できるように作業をして入る。「主家別」は現在UPしているから、このデータを何とかそのまま遣いたいと考えたが、どうも作業効率がよくない。「ままよ」と原稿「譜代家来名附」から、「あ行」の家、「い」行の家をピックアップしながら作業をつづけている。原稿70枚を一枚ずつめくりながら続ける作業は・・疲れる。先日ブログで宣言をしてしまったので、いまさら止める訳にも行かずといったところが、本音である。この名簿の中から、ご先祖様の名前を見つけ「感激しました」というメールを頂戴したりするとこちらまで感激し、一時ストップしていたエンジンを今一度スタートさせて頑張っている。今月一杯で何とか完了させたいと思っているが、やることが多くて・・さてどうなる事やら。
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サイトの行末

2010-02-18 09:47:32 | 徒然
 このサイトを立ち上げて6年半を経過した。毎日ブログを書くのが68爺の日課となっている。お休みをするとご心配のメールなどを頂戴するから、必死である。時折心臓がバタバタすると、いつまで続けられるか不安になることもあるが、まだまだ元気なうちは痴呆予防の為にも頑張ろうと思っている。

 昨日不思議なメールが入った。このサイトを売る気は有りませんかというのである。迂闊ながら私はそのような商売が存在することを知らなかった。手数料10万円頂戴しますとある。アドレスをたどって内容を眺めると、手数料は(売買価格×●%)+10万円というのが本当の所らしい。
 こっちは全くその気はないが相手方は本気らしく、買ってどうするのだろうと首を傾げてしまう。買い手が居るというのだろうか?。ご返事くださいとあるが、ほったらかしにしている。

 ただ、だれか跡を継いでいただける方が居られないかなー、とは思っている。そのときは当然ながら無償譲渡である。ブログが止まっても、皆さんにBBSを充分活用していただけるようにならないかなーと考えている。妙案があればご教示いただきたい。
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柏原(カイバラ)藩と細川家

2010-02-18 09:32:37 | 歴史
 冬季オリンピックで活躍している織田信成君は、織田信長の七男信高の十七代の子孫だそうだが、途中で二男信雄の家系が養子に入っているのだそうだ。
織田信長の直系で一番近いのは、二男織田信雄の二男・高長の流れだといわれる。この高長は細川家とは切っても切れない因縁がある。高長の履歴を見ると信友の名乗りが見えるが、いろんな史料でも次のような詳細はなかなか窺い知れない。それは長岡主膳信友と名乗って細川忠興の下にあって、細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実である。細川家家臣一万二千石藪内匠政一の婿になって長岡姓を名乗っている。綿孝輯録は「慶長十六年・・御家を被立退候」と記している。父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31,000石)。高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休二万石減封されて丹波の柏原に転封される。その孫信旧(ノブヒサ)に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだ。岑姫の兄・細川宗孝が江戸城中で誤って殺された事件では、この織田信旧が事件の処理に奔走したと伝えられる。残念ながら岑姫は24歳の若さで亡くなられている。弘化年間宇土支藩11代立則の弟・泰三郎が柏原藩織田家養子に入った(信敬)。残念ながら19歳の若さで亡くなった。
 じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父津川辰珍(1,250石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。                                          一部再掲

                          宇土細川家11代        12代
                               行芬---+---細川立則
                                    |
                                    +-----泰三郎
                                           ↓
 +--信長---信雄---高長・・・・・・・・・・・・・・・・・・信旧・・・・・・・・・・・・===信敬
 |             ∥              ∥
 |      薮政一---女   細川宣紀--+--岑姫
 |                        |
 |                        +--細川宗孝===重賢
 |
 +--信秀---信包----+---------------信重
               |             ∥---津田十三郎・長相
               |         +---女
               |         |
               | 斯波義銀---+---津川辰珍
               |
               +--信則(柏原藩)
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澤村大學介覺書 -- 2

2010-02-17 07:36:02 | 歴史
一、天正十二年夘月朔日長久而ニ而池田勝入御父子森武蔵殿討死ニ付
   龍泉寺堀尾茂助被仰置候得共無御心元被思召秀吉公龍泉寺
   表江被出御出候之處其段敵方江知申候ニ付前条無御座候刻其夜
   犬山江御馬を被入候残諸大将衆ハ龍泉寺之城ヨリ茂助殿御引取せ
   被成るためニ被残置候何も其夜ハ野陳候成扨三日御退候ニ茂助殿先を
   三齋様被成御退候其崎々之諸大将衆段々ニ御引取候茂助殿備と
   三齋様備とハ間三四間ニ而御座候其上茂助殿備ニ三齋様より人を
   被為附■候自然敵付候者早々程近可申旨被仰付置候就夫茂助
   殿御手前之儀様子能御存候動たる儀無御座候ニ茂助殿事々敷
   手柄之様太閤記二書留申事不審ニ存候事
一、同年五月朔日尾張小牧之御合戦御座候時秀吉公御出馬ニ而小牧
 
   為押ニ重堀付城三ヶ所被仰付日根野備中守殿・同弥次右衛門殿・加藤
   遠江殿・神子田半右衛門殿・木村常陸殿・長谷川藤五郎殿被召置候得共
   餘り出張候とて楽田迄御引取被成候所を小牧ヨリ御付候而此方芝手
   之内まで参候を才八討留申候処に引續同内大原文蔵と申者赤
   母衣ニ黒吹貫二ツ出シ掛来ル武者振ニ目かけ才八脇ニ米田助右衛門
   内山本又三と申者居候ニ付其首取候へと申捨刀を抜文蔵と打合
   候得共文蔵ハ鑓ニ而打拂後備ニ退却彼芝手之間ニ若黨両人
   参馬ニ乗引立退申ニ付■ハ不續無是非打捨申候山本又三ハ其間ニ
   大概首ヲ捕秀吉公より御感状ニ熨斗付之刀致拝領候其夜
   才八所江礼ニ参候此時才八差物ハ朱之日笠ニ三尺程之白キ絹に
   天道と書付有之指物を指申候西川与助平ニ鑓二而せり合其者
   を討捕高名仕ル名馬不知秀吉公ヨリ御感状ニ熨斗付之刀脇差
   被為ハ遺領候其外手ニ合申候者ニ者玄蕃殿内下部与助・松井佐渡内
   ■部与市・有吉四郎右衛門内大石清蔵殿以上六人ニ而御座候長久手ニ而
   池田勝入御父子森武蔵殿依討死秀吉公御負ニ武者色悪
   敷成申候後小牧於二重城三齋様為御先手合戦仕返シ首とも
   捕申ニ付秀吉公も御競被成惣軍も勇旗色直り申候慶安元迄
   六十年三齋様廿ニ歳才八廿五歳なり
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已矣哉

2010-02-16 14:01:30 | 歴史
細川藩主宗孝公大難の事件についてである。 
延享四年八月十五日宗孝の供揃いが龍口邸を発したのは、五時(8時)であったことが「生田又助覚書」の書き出しに書かれている。事件の発生の知らせが小姓頭・生田又助らが控える「御側御次下乗」にもたらされたのは五時半(9時)だが、詳細ははっきりしないままである。城門は全て閉じられた。御玄関前で各藩の士が騒ぎごった返す中、御目付中山五郎右衛門が「細川越中守殿之御家来」と呼ばわり、途端に又助は走り出し途中帯刀を注意されこれを投げ出して城中に走り込んでいる。「隠見細倉記」が記す宗孝の疵の詳細は、死が避けられない状態である事を物語っている。城中で処置がなされ六人の奥医師が付き添った。宗孝は定め通り平川門から下城、即死の状態であったと思われるが、又助はお側にあってずっと声を掛けながら龍口邸へ足を急がせた。大手門からの下城であればそう遠くない距離であるが、平川門からは相当之距離がある。「やんぬるかな」供の方々の思いは如何ばかりであったろうかと、無念さが窺われる。家中の憤りも頂点に達したものと思われるが、宗孝の妹婿、柏原藩主織田信舊などが駆けつけ事後処理に奔走したとされる。
細川家の跡式については、生田又助が老中に確約の墨書を貰っている。
 宗孝は16日午前に死去(実際は即死状態)、17日熊本へ早打ちがたち、早飛脚も差し立て、26日には情報がもたらされた。即目付生駒某が出立、9月14日に江戸に着いた。
跡式は8月20日、弟主馬(重賢)が無事に継いだ。
8月23日、板倉修理切腹。同27日葬送。未亡人となった静證院に対し重賢は終生孝養をつくしたとされる。
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細川家家臣・生田氏

2010-02-16 11:19:21 | 歴史
 細川宗孝が江戸城中で、寄合衆板倉修理に人違いで刃傷に及ばれ不慮の死を遂げたが、事件を聞きつけ城内に走りこんだのが生田又助である。若干十八歳で小姓頭を務め、当日の登城の責を勤めた。其の事件の顛末は「生田又助覚書」により詳細である。事件後熊本に帰った又助は、一番に藤崎宮に参詣「君の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」と、「神義絶」を申し入れている。硬骨の士である。
  1              2              3              4              5
 又助======又助======又助======又助======又助(御暇断絶)
           坂崎清左衛門三男    小坂半之允三男    上月十郎太夫二男    貴田角右衛門二男

 各代夫々名家から養子が入っている。家禄560石余の勲功の家も五代又助の代、御暇にて断絶した。

昨日ご紹介した「伊達家の秘話」でも「細川家の救済」という項が有るようだが、夫人が共に徳川宗直公女(同母姉妹)の関係にある伊達宗村公が、「細川公は未だご存命である。早く屋敷に帰りお手当てを」と細川家家臣に指示をされたという。又妹婿にある織田信舊公(柏原藩主)が事後処理に奔走している。又助は事件のさなかにあっても、細川家跡式について大老堀田越前守に掛け合い「御墨付」を給わったという。若干18歳、緒方氏記録は「誠に又助の働古の社稷臣とも申べき」と記す。天明四年十月二十二日没、七十五歳、禅定寺に葬。

 参考      
            伊達宗村
                ∥
           +----●
           |
   徳川宗直---+
           |
           +---友姫(静證院)
                ∥
   細川宣紀---+---宗孝===重賢
           |           ↑
           +---重賢・・・・・・・・・
           |
           +---姫
                ∥ カイバラ
            織田信舊(柏原藩主)
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伊達家の秘話

2010-02-15 10:50:59 | 書籍・読書

伊達家の秘話

発行:PHP研究所
著者:伊達 泰宗、白石 宗靖
価格: ¥ 1,575円(税込)


「若様のお勉強」と称して、子供の頃、ご先祖様の話を伊達家に仕えた重臣の子孫から聞いていた仙台伊達家十八代当主と、伊達家重臣白石実綱の子孫による身内ならではの視点で綴ったエピソード。仙台藩祖伊達政宗公の誕生から現代に至るまでの、伊達家に伝わる逸話を中心に、貴重な写真や図などもまじえて紹介している。

政宗公と片倉小十郎の絆
母・保春院、政宗公毒殺未遂事件の真相
政宗公にもう一人弟がいた!?
鍋姫輿入れ長持事件
綱村公、赤穂浪士に粥をふるまう
政宗公の遺骨から見えるもの
浅野家、伊達家398年ぶりの和解……
政宗公の果てしなき夢とは? 伊達者の心得とは? 近世を生き抜いた伊達な殿様たちの生活ぶりや危機管理能力は? 家臣にとっての戊辰戦争とは?
伊達家の女性たち思いなど、歴史の教科書からは窺い知れない人間の喜怒哀楽が垣間見えてくる。
巻末には伊達家歴代の墓所やゆかりの地めぐりに役立つ情報も収録。

【内容】(「BOOK」データベースより)
母・保春院、政宗公毒殺未遂事件の真相、政宗公、もう一人の弟の謎、鍋姫輿入れ長持事件、
宗村公の細川家救済

仙台伊達家十八代当主と伊達家重臣白石実綱の子孫が、それぞれの視点で綴るエピソード。

 細川宗孝は、江戸城中で旗本寄合・板倉勝該乱心により誤って刃傷に及ばれ落命するが、伊達藩主宗村公の的確な処理により藩邸まで無事身柄を運び出している。ともに大広間詰の大名であるが、夫人が共に紀伊大納言宗直女(同腹)で相壻という関係にもあった。
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澤村大學介覺書 -- 1

2010-02-15 09:31:17 | 歴史
     信長様秀吉様家康様御代々三齋公
     御軍忠之儀澤村大学書附上ケ謄写

 三齋様被為骨折候所并御歳以下之覚
一、信長公御代ニ幽齋様三齋様御軍功之様子大形信長記二御座候
   信長記之抜出を仕指上申候間是ニ書付不申候事付タリ
   信長公御他界ハ天正十年六月二日慶安元年まで六十七年也

 秀吉公御代ニ被為御骨折候所之事
一、天正十年九月上旬丹後之屋形一色依叛逆三齋様一色を被成
   御振舞於其座御手討ニ被成候供之者数十人働申候中ニ長牧
   忠左衛門と申者三齋様御小姓梶平七を剪殺シ退申し候所を沢村
   才八助合忠左衛門を討留申候三齋様御歳二十歳才八廿三歳此
   時才八御家ニ罷出三十日ニ而御座候

一、夫ヨリ一色之居城弓之木を家老鳥井と申者持■出申候を三齋様
   被成御攻候時見方ニ手負死人数多出来申候得共才八大手之門
   口ニ着場所を不退鉄炮を以敵之矢挟間却而■■■■候而より
   手負も無御座候左候而扱ニ成落城仕候事

一、天正十一年閏正月下旬勢洲亀山之城秀吉公被成御攻候時何も御手先
   之衆三丸迄攻入候得共即事ニ落不申候三齋公先立手を捽キカ候此時も
   荒木下兵衛・石寺五郎右衛門ハ鉄炮に中り討死仕候然所ニ惣人数御引
   取せ比成候ニ付才八も引取申候慶安元年迄六十六年三齋様廿一歳
   才八廿四歳

一、同國嶺之城責同時ニ而御座候事

一、同年四月柳瀬合戦之時三齋様も早ク柳瀬江被成御着候所ニ三齋様者
   丹後より船ニ而越前江被成御渡海一揆等御静被成候様二と秀吉公被
   仰付柳瀬より敦賀表江御發足被成候ニ付御逢不被成候事

一、佐々陸奥守殿越中之内外山を為居城秀吉公謀叛之時御馬を
   江向候三齋様其時分丹後ニ被成御座候ニツキ玄蕃殿松井佐渡有吉
   四郎右衛門船手之大将ニ被仰付加賀之内●之脇と申所ニ着旨仕居
   申内ニ三齋様ハ御手廻斗ニ而米田助右衛門を被召連秀吉公御供ニ而
   ●之脇江被成御座候ニ付舟手之右両人ハ又船ニ手越中江廻り在々
   所々放火仕手痛ク攻首を数多討捕申候才八儀も陸地を御供仕
   参候諸大名衆ハ皆陸地を御押候得共陸地ニ者切(サノ)ミ働も無御座候
   三齋様ハ船手之右三人(カセキ)申ニ付秀吉公三齋様江被仰候ハ今度
   其方忠節初諸手ニ勝ル無比類手柄別而御感ニ思召候由被成御意候
   秀吉公ハ越中之内こふく山と申所ニ御陳を被為居扱(ヒキ)ニ被成候而
   陸奥守御侘言申外山を降参申こふく山迄御礼ニ被罷出候得共
   御挨拶三齋様蒲生飛騨守殿御両人として御取成御相伴ニ而
   色々御難談共御座候而秀吉公被仰候ハ寒候間是を着可被仕
   由ニ而陸奥守殿江唐織之御羽織を被遣候

   
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三回忌

2010-02-14 15:08:57 | 徒然
 我が家の愛犬・ごえもんが死んで十七日で丸二年になる。お笑いになるかもしれないが、その遺骨がまだ我が家にある。離れ難いというのではない。ご先祖様が眠る墓地に埋葬する訳にも行かず、どうしたものかと思案しながら年を重ね、三回忌を迎えることになった訳だ。昨年末長男がささやかな家を建てた。その敷地の隅に前にお住まいだった方が植えておられた、大きな萩の一株が残っていた。敷地を見たとき密かにここだと思った。そして長男に頼み込んでOKを取り付けた。少し暖かくなってから、その萩の根本に埋葬しようと思っている。
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潜渓先生書簡

2010-02-13 14:17:11 | 歴史
 潜渓先生書簡とは、(草野)潜渓先生が書き残した文書といった意味であろうか。
ここに書かれているのは、「久武兄弟御長柄之者討果候事」と題されて、宮村典太が収集した膨大な記録
の一点として「吹奇与勢」に納められている。内容は「風説秘説」と同様無礼討ちの記事である。

         明和三年七月十日之夜五ツ時分、坪井報恩寺観音参群
         集之中ニ、竹部出屋敷居住する久武武助嫡子権之助十五
         才、次男金吾十三才なるか参利子に、御長柄之者銀拵之
         脇差さしたる若者、観音堂之せく中ニ而、権之助ニ除
         ヨト云しを、権之助慮外ものト云けれハ、右之もの権之助を
         押付るを金吾か後江より若ものをさしけれハ、若者はつ
         と云て手を放ス處を権之助抜打ニ眉間を切、地蔵堂
         之前ニ倒れるをとゝめさしたり、久武も兼而貧窮故、子
         供之衣類もいやしく見へける故、若者あなとりたると聞
         ゆる由、然れは花好(華美?)をこのむハ驕りなれ共、士は士之
         相應之衣類もあるへき事也、服ハ身の章といへること能々
         心得へし、及不及由礼ならねハならぬる也、することを得
         すしてするも悪し、することを得てせさるも悪事なり
         人多く集る處二ハ同道なしニ不可往と云事、退は老人之翁也
         森崎小左衛門咄二、始権之助刀を抜処を若者柄を取たる故、不
         得止脇差を抜シテ又手ヲトメタルトキ、左之手にて脇差ニ而
         切付けれハ権之助がエリ二喰付ハナサス処を弟刀二て首をサシテハナス
         時二権之助起挙り切たるよし
        同に居る
         上田宇助組、久武兵助父子三人宇助宅ニ而頃日之儀始末宜敷
         段、御家老中より称美、兵助兼而家訓よろしく被存候由、申渡

 久武兵助の家祖は、長曽我部元親の家老職を勤めた久武蔵之助親直である。
     土佐・長曽我部家若年寄・二千石 兄・久武親信の死後長曽我部家老職を継ぐ。
     長曽我部元親の弟吉良親貞の子・吉良親実らと元親継嗣等をめぐり対立、これら
     を切腹させた。長曽我部滅亡後加藤清正に千石にて随身。加藤家改易の後牢人。
 初代千助が原城にて武功被賞 新知三百石(綿考輯録・巻五十)にて召出された。

 服装云々の話は合点が行かぬ。        
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御駕籠者(陸尺)

2010-02-13 10:15:30 | 歴史
 陸尺(六尺)とは、輿(こし)や駕籠(かご)を担ぐ人足のことをいう。いわゆる駕籠舁(かごかき)のことで、大名家に於いては御駕籠者といわれる。先にご紹介したサイト「古文書で読む参勤交代」にある「大名行列絵図」 http://www.ab.auone-net.jp/~xe2918/ezu/ を見ると、藩主の駕籠は前後六人の陸尺によって担がれている。しかしよく見ると交代要員が残り18人ぐるりと駕籠の後からついてきている。次から次に四交代で担いだということであろうか。陸尺(六尺)とは、力者が転じたものというが、身長が六尺とかいうことも関係しているのではないか。ちなみに「陸」とは建築用語にもあり、「ろく」とよませて水平である事を意味する。

 井上ひさしの著書に、「おれたちの大砲」という面白い小説が有る。
将軍様の尿筒役に草履持、髪結に駕籠の者、馬の爪髪役という、下役の若者五人が徒党を組み、公方様の危機を救うべく大計画をひっさげて、横浜から京都、江戸へと進んでいく・・という話だが、ここに登場する茂松という駕籠の者の話が可笑しい。(他の四人も同様だが・・)
家は代々、西丸駕籠之者(45人)の頭に次ぐ家格で、五十俵五人扶持である。ところが今は町の駕籠かきふぜいに落ちぶれて、先の五人組に入り込んだ。落ちぶれの原因は彼の身長の寸たらずである。家は相撲取りあがりの妹婿が継いだ。

 細川家の御駕籠者とて同様のことであったろう。六尺の大男を24人集めようとは大変な事である。代々の家柄ではなく、選抜されて御駕籠者に採用されたのではなかろうか?
熊本市の中心部の駕籠町通りは、藩政時代御駕籠者が住まい(30数軒?)した所である。今では六尺の大男に代わり、若者たちが闊歩するアパレルや飲食店などが建ち並ぶ町である。
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五・七・五 句宴四十年

2010-02-12 18:46:53 | 書籍・読書

五・七・五―句宴四十年

東京やなぎ句会/編
岩波書店
価格:2,100円(税込み)

     【本の内容】
       俳句のこころは戯れにあり。マジメに俳句と戯れる、宴の如き句会への招待。

     【目次】
       第1章 俳句の愉しみ(東京やなぎ句会四十年の愉しみ(入船亭扇橋)
            東京やなぎ句会をひと言でいうと(永六輔)
            四十年前に(大西信行) ほか)
       第2章 自選三十句(入船亭扇橋(光石)
            永六輔(六丁目)
            大西信行(獏十) ほか)
       第3章 逝きし句友に寄せて(友を偲ぶ(入船亭扇橋)
            忘れられない友の想い出(永六輔)
            神吉さん三田さん江國さん、そして永井さん(大西信行) ほか)
       第4章 四十周年記念句会
       第5章 東京やなぎ句会四十年の歩み-一九六九~二〇〇九

 最近、俳句+エッセイ本にはまっている。東京やなぎ句会の本は「友あり駄句あり三十年」を
 持っているが、何度読んでも楽しくて、思わず笑いがこみ上げてくる。句集といえばそれこそ俳
 句が並んでいるばかりで、なんとも取っ付きにくいがエッセイ付だと楽しいばかりである。


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