ウィキペディアや武家家伝を見ると、芳賀氏の家紋は「左三つ巴」とある。細川家家臣の芳賀氏はと言うと「右三つ巴」である。しかし同族であろうと推測している。
芳賀氏に関しては、初代五右衛門が切支丹教徒であったらしく、「転切支丹」としての資料が残されている。「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」には、「寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り・・」とある。
五右衛門には男女八人の子供があり、その系図は詳細を極めそれぞれ五~六代に渡っている。ときに女子の名前等が記されていて、興味深い。又その嫁ぎ先が記されていて、芳賀氏の親族関係に迫る事ができる。平田氏、佐崎氏、富島氏、津田氏、杉浦氏等である。
二代目・助左衛門は、御使番衆八百石と「真源院様御代御侍名附」や「同・御侍免撫帳」にある。
以降どういうわけか、芳賀氏は二百石の家禄となり明治に至っている。
いずれにしても、このような記録は大変貴重なものである。男子の系統は禅定寺が菩提寺であるようだ。
芳賀氏に関しては、初代五右衛門が切支丹教徒であったらしく、「転切支丹」としての資料が残されている。「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」には、「寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り・・」とある。
五右衛門には男女八人の子供があり、その系図は詳細を極めそれぞれ五~六代に渡っている。ときに女子の名前等が記されていて、興味深い。又その嫁ぎ先が記されていて、芳賀氏の親族関係に迫る事ができる。平田氏、佐崎氏、富島氏、津田氏、杉浦氏等である。
二代目・助左衛門は、御使番衆八百石と「真源院様御代御侍名附」や「同・御侍免撫帳」にある。
以降どういうわけか、芳賀氏は二百石の家禄となり明治に至っている。
いずれにしても、このような記録は大変貴重なものである。男子の系統は禅定寺が菩提寺であるようだ。