津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・芳賀氏

2010-02-12 17:29:55 | 歴史
 ウィキペディアや武家家伝を見ると、芳賀氏の家紋は「左三つ巴」とある。細川家家臣の芳賀氏はと言うと「右三つ巴」である。しかし同族であろうと推測している。
芳賀氏に関しては、初代五右衛門が切支丹教徒であったらしく、「転切支丹」としての資料が残されている。「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」には、「寛永十三年七月十三日 禅宗に罷成り・・」とある。
五右衛門には男女八人の子供があり、その系図は詳細を極めそれぞれ五~六代に渡っている。ときに女子の名前等が記されていて、興味深い。又その嫁ぎ先が記されていて、芳賀氏の親族関係に迫る事ができる。平田氏、佐崎氏、富島氏、津田氏、杉浦氏等である。

二代目・助左衛門は、御使番衆八百石と「真源院様御代御侍名附」や「同・御侍免撫帳」にある。
以降どういうわけか、芳賀氏は二百石の家禄となり明治に至っている。
いずれにしても、このような記録は大変貴重なものである。男子の系統は禅定寺が菩提寺であるようだ。
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すばらしいサイト発見・・感動

2010-02-11 09:36:28 | 歴史
1、細川家の参勤交代の行列に於ける、御先箱・對鑓・長刀・十文字の持鑓を絵図で見たいと思った。
                   ↓
2、山本博文氏の著「参勤交代」に紹介して有る、「万延元庚申年十月韶邦公御入部御行列図画」を
  さがす。
                   ↓
3、「剣神社 参勤交代」でぐぐってみる。
                   ↓
4、「化粧品企画部日誌」というブログを発見。ここからお父上のすごいサイトに導かれる。
     blog.goo.ne.jp/travel_diary/e/63071ce884f1cb504284861c37aa05c7
                   ↓
5、すごいサイトを発見    【古文書で読む参勤交代】
              http://www.ab.auone-net.jp/~xe2918/

             ・人吉藩の参勤交代
               └ 弘化三年の参勤交代道中記
               └ 天保十二年の参勤交代道中記
             ・熊本藩の参勤交代
               └ 寛延二年の参勤交代道中記
               └ 寛延三年の参勤交代道中記
               └ 宝暦九年の参勤交代道中記
               └ 宝暦十年の参勤交代道中記
               └ 天明六年の参勤交代道中記
               └ 天明七年の参勤交代道中記(準備中)
             ・特別企画『大名行列絵図』

     ■参勤交代道中記は原文と共に読下し文が上下に併記してあり、大変読みやすい。
     ■大名行列絵図はまさしく、「万延元庚申年十月韶邦公御入部御行列図画」であり、
       すべての絵図が紹介されていて、居ながらにして拝見でき感動する。

                 ぜひ御覧下さい。
    
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長袴

2010-02-10 09:31:03 | 歴史
 長袴といえば、江戸城中松ノ廊下で刃傷に及んだ浅野内匠頭を思い出す。壱万石以上の大名に許された正装である。内匠頭の思いは未遂に終わったのだが、この足捌きの厄介な長袴のせいかも知れない。

「風説秘記」に次のような一文があった。
          『或云長上下を着てそ短刀を袴の斗に可指也自然変
           ある時長上下者働の邪魔になる故短刀の鞘をつ(津)きて
           を切れハ袴ハはらりと落て働よく又様子も甲斐/\敷可有也』
 ところがこのがよく判らない。「かすり」「かせ」と読むが・・・単なる「紐」の間違いではないかと考えているが、如何? 歩行の厄介な長袴はぬぐのも面倒だから、短刀で袴の紐を切って袴を脱ぎ捨て自由にしようというのだろう。

 壱万石以上の大名の長上下(長袴)について、一般の侍達の話としては必要ないことではないかと思っていたが、実は細川藩に於いても長袴着用の規式があったとおもわれる。
嘉永七年の佐田右平の日記、正月朔日の項に「着座以上長袴太刀持参・・」とある。ただ持参しただけとは考えにくいから、「長袴(着用して)太刀持参・・」と考えてよいのではないか。
資料不足でなんともいえないが、ともあれ風説秘記のこの一文は一般の侍には縁遠い話しではある。
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風説秘話 ・・ 9 (米良左源次)

2010-02-10 07:42:52 | 歴史
一、米良左源次者生質極て勇猛也或時上野の七瀧(ナナタキ)ニ猟人
   猪を追落し中程の瀧坪に打込可取術なくあきれ居たり
   其処に左源次通り合せ我ニ得させハゝ行て取へしと云
   猟人等驚き止めしかと不聞入走に岩角を傳登りしに
   水勢はけしく猪を打めくらす事車のことし左源次
   飛付引上んとせしに其身も共ニ打めぐされ既ニ死ぬへし
   と覚はしかと如何なるとも手ハ放たしと取付居終に
   引上て瀧坪江投落したり 又或時砥用(トモチ)とやらの酒屋ニて
   酒を呑居たるに山伏一人来て左源次を嘲り無礼の言
   なと云たるか御士手相を見て可進とて左源次か手を見

   て其元の御手ニ者剣難筋ありとて嘲笑左源次怒ニ不堪
   拙者も手相を知れり汝か手相見遣候得と云山伏手を
   見遣くれハ汝か手ニこそ剣難の相ありと云山伏嘲渡我
   手ニ豈剣難の相あらんやと云処を是は如何と抜打に
   斬捨たり此山伏烏乱者ニて生前も不知しかハ酒屋の前道
   端に埋メ米良左源次殿御手討之者一人何所之者共不相知
   候間此所ニ埋置者也と札を立置しとそ其後左源次此
   所を通る時者手向の水とて小便を仕懸るとなん

   七滝・御船町  takinoinryoku.com/photo_album/43_kumamoto/43_020.html
   砥用・現美里町  www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/isib_tomc.html
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風説秘話 ・・ 8

2010-02-09 13:54:59 | 歴史
■水道橋喧嘩(寛政元年)の際のことか
一、筑山五次郎先年江戸二て出火之節公義より火消衆御行
   列を切たれハ挙二て散々ニ打擲し馬より取て引落そ此
   事跡ニて公義より御吟味なり評定所ニ被召出御尋あり
   しに五次郎答たるは私事近年■■ニ罷下些手あ
   らく相成申候されは御火消衆此方行列ニ御乗懸被成候
   故是ハ/\と申御袴の裾に少障ると覚へ候得者御
   落馬ニて気の毒の御事ニ御座候と云しかハ彼方より無為
   方済しとぞ
         参考 :五次郎恭之(与右衛門)  御番方・朽木内匠組 高百石之御擬作
                     文化元年頃~   小国久住郡代
                     文化五年頃~   宇土郡郡代
                 名は恭之、所々の郡代を勤め、きわめて厳格の人なり。
                 天保十二年閏正月四日没す。年九十二。


■八代城の火事と木材の調達について
      ママ
一、寛政  年十月二日暁天火ニて八代御城御本丸内并御櫓  
   茂一ケ所焼失是者主水殿居住の所より焼始しに其家士
   松井門左衛門此様子を見て己か家ニ火を懸たり御城焼て
   ハ主水殿身分難立間我家よりの出火ニ取成■切んと覚
   悟せしが天火也と知れたる故其事ニ不及しと也扨御城御普
   請者鎌田左一兵衛ニ被仰付享和元年成就此木材は多く                      スゲ、メマル
   菅目丸の奥山より伐出たる此山ハ九州無双の深山ニて樅栂塩   現・山都町(旧・矢部町、菅、目丸)
   地桂槻の教良木枝を雑へ樹木暗く澗泉飛流し■こと甚
   難し東をと云西を目丸と云山の續は那須五家ニ至る矢
   部の地も凡八九里其中衆嶺に秀るを國見嶽と云絶頂木
   を伐出す然し二里斗の所也樵夫の通ふ岨道もさだかなら

   す最嶮敷山なれハ橇を作て運出す其仕懸山の片岸高く
   従■し岩角の少のかゝりに柱を立横木を結渡し根を大木の
   本ニ結付る櫓普請の時の道懸の如し其上ニ八寸角の材木を
   並へ如頓桟を作る事一里斗の間也其上を車ニ材木を積て
   押行車を使フ者一人油をさす者一人くさびを■ル者一人
   也勿論の木の上二て押損すれハ忽ち数十丈の谷底ニ     (ふぞろいの意)の間違いか  
   落誠ニ命を的ニする業なり故是を修羅出しと云と
   矢部の人語れり夫より緑川を下す也

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
管理人注:昭和53年大坂藤井寺市の仲津媛陵古墳の陪塚の周濠から、一木のY字型の修羅が発見さ
       れた。長さ8.8メートルという巨大なもので、ほぼ完全な形であった。
       巨石や大木の運搬に遣われたものと推測されるが、「命を的にする業なり、故修羅出しという
       という話も共感できる。


  
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風説秘話 ・・ 7

2010-02-09 08:10:14 | 歴史
一、薮市太郎町を通時夏の事ニて水を打たるか袴ニかゝりたる
   を少も不知躰ニて見向もせず行通られしとそ又何比の

   事ニや或時侍米屋町を通りしに内より唾を吐懸たり侍押
   拭て見向もせす行しに其家より一人出て暫く御侍可被下
   と云何事かと問ハ只今あの者ケ様/\の御無礼申上候勿
   論御通り被成事を少も不奉存候手之儀ニ御座候間何卒御免
   可被下と云侍夫ハ此方ニてハ定て人違なるべしと云中に■頭
   様来り左様被仰下候而者弥以奉恐入候と頻ニ断て不止免
   や角の中往来の人も立留り何事なるやと大勢集り
   見るゆえ侍云たる者再應申通此方ニ者決てかゝらねと
   も汝等左様ニ申なれハ仮令懸らすとも何分差置かたし
   弥以吐懸しに相違なきなと云しか者何も大ニ警く躰
   なりしに壱人■早き者て返答したる者左様被仰聞

   候へ者定て懸り不申ニて有御座たると奉存候唾吐し節御
   通被成候間何れも是ハと仰天仕候処より折節風立者仕
   旁懸り申候と見損し申候此段真平御免可被下と云し
   かと侍然らハ弥其通間違なきやと問詰て行過たると也
   又昔是も名は不聞候侍夜中町を通りしに内より唾を吐
   懸しを直ニ打捨たり此由相達シ事済たり其後
   君御尋有たるは何某は此間手討せし節挑灯を燃
   たりやと 上意也其節ハ挑灯燃居不申由申上し
   かハ不覚悟也とて御咎被 仰付たり
一、或云鎌田何某町を通る時二階より唾を吐たりしに
   少も不知躰二て行を彼者跡より来り御待可被下と云尚

   不知ふりに行しかと引止め頻二断る故不便の事なりと
   て抜打二打捨たると也
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祓川

2010-02-08 09:32:58 | 徒然
 かって住まいしていた本妙寺下の花園地区には、細く蛇行する川筋が残っていた。これがかっての井芹川であったらしい。「祓川」とよばれ、段山(ダニヤマ)から妙解寺(細川家菩提寺)前に蛇行しながら流れていた。現在は全く流路を変えている。本妙寺の西側の島崎地区には高禄の家臣の野屋敷があったらしいが、古地図を見るとこの「祓川」に沿うような形で道がある。本妙寺の参詣もこの道が使われていたのであろう。この川筋の道には杉の木が植えられていたらしく、杉塘(スギドモ)という地名が残っている。妙解寺に近い所、我が家の菩提寺でもある禅定寺の裏側には「鐘ケ淵」という深さが三間ともいう大きな淵があって、水路をつかっての物流の集積地であったのだそうだ。これも昭和28年の大水害の泥捨て場になり、現在では小さな流れが名残を留めている。
新幹線のコンクリート橋脚が目の前に迫り、妙解寺をはじめ連なるお寺に眠られる方々も、ゆっくりとはいかぬご時世となった。過日友人のお宅を訪ねた折、久しぶりに川筋に車を進めたら、もう菜の花が咲き始めていた。私の大好物のセリを摘んだ場所でもある。

     祓川の名残の土手や芹なずな        ひょいと口を突いた傑作(・・?・・)である。
  
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風説秘話 ・・ 6 (酔躰の無礼)

2010-02-08 08:11:43 | 歴史
一、寛政十二年八月十四日尾藤彦太郎 士席浪人 馬上ニ而斬堀を通り
   ■前之事なりしに帯刀之者さゝら杖を持て傍え来ル折節薄
   暗く面躰不分明知人なるやと思中彼者彦太郎が袴の
   裾ニ唾を吐懸たり彦太郎怒て馬より飛下りしか彼者迯
   出すニ付彦太郎追懸しかと馬の口を引て進故遥迯延
   たりし故馬ニ打乗諸鐙ニて追詰しに彼者立帰轡の

   ミづゝきを取て私何を慮外致候哉と云彦太郎馬より下り只今
   の慮外忘れたるかと云しかハ彼者直ニ持たる杖ニて打懸ル
   を腰ニ指たるじつていニて請留私儀物長岡左馬助家来
   ニて御座候間左馬助屋敷江御出可被下と云様子殊之外酔
   躰と見へしかハ直ニ左馬助殿屋敷江連行馬を引し故門番
   を以取次江申入しかハ取次之者出たるに彦太郎段々之子細
   を申彼者酔躰と見受候間明日御取●可申とて慮外
   者江向ひ只今の事定て御覚可有と云に成程覚居候と
   云間又取次に向ひ御聞あらる通に候先今晩者御頭申候と
   云て帰りしに長岡殿より使者を以彼者慮外之儀絶言語
   不届千万の者ニ付是畢竟酔躰より致候事に候間何卒

   差免可被呉候勿論彼者ハ家格之通可申付候とて折入て断
   ニ付其侭ニ済したると也 或云唾を仕懸らるゝを知てハ
   何分其侭二ハ差置難し最初馬をも捨て追詰打果す
   へ■也況(イワンヤ)杖ニて打懸りしとやケ様の節取●せすとも其
   侭打捨へき也手延二して■二て取●すれハ向の主人よりハ
   家来を憐心より容易ニ者不渡事必定也酔躰ニもせよ
   ケ様の無禮を受て断れハ迚可差置理なし是非不斬
   ニ者不済也然共最初唾を吐懸し時等こそ大躰目立ぬ事
   ならハ不知分ニて置事もあらんや
  
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細川家家臣・興(沖)津氏

2010-02-07 13:18:36 | 歴史
 「風説秘話」で、沖津九郎兵衛のことを書いた。関連して沖(興)津家について書いて置きたい。
沖津家の初代は弥五右衛門・景一で、九郎兵衛はその嫡男で二代目である。嶋原一揆に於いて陣没した。跡継ぎがなく弟・弥五右衛門が三代目と成ったとされる。三代目・弥五右衛門は忠興に殉死し、綿考輯録などでは過大と思えるほどの頁を費やして、その行為を誉めそやしている。森鴎外はこのことを「興津弥五右衛門の遺言」に書いた。
            www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45209_30640.html
 鴎外は九郎兵衛のこの事件については知らなかったのではないか、まったく触れられていない。弥五右衛門の殉死は、主命で長崎に出かけた折「名香木」の購入にあたり、意見を異にする僚友・横田清兵衛を殺してまでこれを求め、忠興の意をもって命ながらえた事による。兄弟共に人を殺めた事になる。

 九郎兵衛、弥五右衛門の弟・作太夫(三代)の名前もいろいろな文書に登場するが、こちらも後に絶家している。

 初代弥五右衛門の継室の連れ子忠太(四男)は、後寺本氏を名乗り別家を起こした。

 森鴎外の著作は、弥五右衛門が末弟又次郎(六男)宅にて、嫡子に宛てて書かれた形を取り構成されている。
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風説秘話 ・・ 5 (沖津九郎兵衛 vs 米田家)

2010-02-07 11:58:55 | 歴史
一、忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差たる
   か法花(華)坂ニ而小便を志たるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を

   蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
   沖津抜打ニ二ツに斬殺たり夫より今のの後四角迄来       榭 = 時習館の東・西榭のことか?
   りしに早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて大勢
   門前ニ集り既二可押懸躰なれ者沖津引返シて大頭志水
   伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
   殿より討手を被向様子ニ見へ候故差図を受可申ため参
   上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
   を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
   砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
   沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
   物申候沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々

   御渡可被成と云しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
   候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
   申候と云れしかとも監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
   云募しか者伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
   受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
   致覚悟と云れしか者監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
   抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と■く猶豫し
   たる中使を馳て主人の方得云遣ハせしかハ監物殿怒られ
   自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
   尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ監物者家来の
   敵ニ討手を向候由尤左も可有事也然るに若伯耆様討れ

   候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
   上意也沼田殿■なから御請申上退出し斯成行てハ以の
   外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ監
   物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
   共を被引取たるとなり


  大変失礼だが、この事件は大変面白い。法華坂は大手門に至る登城口である。そこで立小便をしていたというのだから、その行為も如何かと思う。結果として 「沖津氏と大頭・志水氏」 vs 「家老・米田家」 という構図と成ってくる。このことを耳にした忠利の処置は、沼田氏を通して忠利の考えがもらされる事を前提にしているのだろう。大事に至らずに先ずは良かったが、米田家家臣は殺され損となり、いささか解せぬ話しでは有る。
「細川家家臣・沖(興)津氏」を次回ご紹介する。
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風説秘話 ・・ 4 (蓑田左五右衛門兄弟の事-2)

2010-02-07 08:29:27 | 歴史
一、或云蓑田手討の節岩間か柏原家来を帯刀にて渡せしを
   世上の評判ニ御侍ニ慮外せし者を帯刀にて渡す然しし
   からさる由なりと能々思ふに我一大事之時命にもかはる
   家来なれ者主従之間者勿論至而親しかるへき事也理を
   乱せハ太(ママ)切の御侍に慮外せし者故上ニ對しても無刀二て
   渡すへけれと情を以て云ヘハ我命ニも替る■徒を一旦
   御侍ニ慮外せし罪は重けれとも刀迄取上ケ人ニ渡て刺せる
   事ハ如何ニも思はれし監物殿の志水殿江討手を向られし
   も一旦我家来を憐む情より出たり岩間か取計も此儀
   を不持と然し不可言と云候又云蓑田手討之節乙次等も當

   人なれハ先初鑓を突度もの也左五右衛門先の鑓を突ても
   乙次に慮外せしという趣忘如何乙次者先を突せて危により
   て左五左衛門助太刀せしと云と宜しからん
一、蓑田手討の後勝木瀬助か兄弟敵討にて可被様風説あり
   依之左五右衛門より頭方迄右之通の風説も御座候若敵討様に
   参候ハゝ弓鉄砲を以仕留可申候此段御届仕候由申候処此儀者
   頭より被差留由也又此風説ニ付蓑田宅江親類朋友毎夜
   来て自然之時可加勢と用心せしと也是ハ弥■々事然ハ不
   知とも餘り覚悟通たる事也若大勢様ニて来らハ時ニ當て
   弓鉄砲ニて防事も有へし兼而届置者餘りの事也又親類
   様毎夜来るも親切こかしの方ならんか若敵討ニ来たるを

   聞付ハ勿論馳来り可相救兼て斯用心強きと之向の聞耳も却
   て手弱様ニあらんと也
一、同年八月蓑田兄弟江被仰私之趣

                   蓑田乙次
    乙次儀當二月於途中柏原新左衛門家来勝木瀬助と
    申者より手込ニ逢申候ニ付難差通追手打果候段其分之
    儀勿論ニ候処兼々血気ニまかせ人を相悔作法不宣儀間ニ
    有之候段相聞へ(己ニ十・畢)竟右躰之處より此節も手込に逢
    候儀も有之候段致出来候時と相聞不埒之至ニ被
    思召上候依之往々不■召仕旨被仰出之

                   蓑田左五右衛門
    左五右衛門弟乙次儀當二月於途中柏原新右衛門家来
    勝木瀬助と申者より手込ニ逢難差通相果候段者其分
    之儀勿論ニ候処兼々人を相悔作法不宜儀間ニ有之段
    (己ニ十・畢)竟兼々教育不宜処より右躰之儀も致出来且追而    
    於門内瀬助を打果候節も一躰仰山なる様子之儀ニ相聞候
    不嗜之事ニ被思召候上依之左五右衛門儀逼塞被
    仰付旨御仰出候之

   同日岩間恰八ツ後於御奉行所蓑田左五右衛門儀柏原新
   左衛門家来を打果候節之始末不取計之由ニ而御役被差除たり
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本日はこれまで・・・・

2010-02-06 23:52:27 | 徒然
    古文書に もてあそばれて 夜寒かな   津々
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風説秘話 ・・ 3 (蓑田左五右衛門兄弟の事-1)

2010-02-06 15:14:48 | 歴史
  
一、寛政十二年二月九日蓑田左五右衛門弟同乙次十六七ニて未た
   前髪有か宮内を通たる跡より慮外者と云て髻を取たり乙次
   振返処を手を捕て動さす見れハ二十六七斗の大男なり
   何者なるかと云ヘハ柏原新左衛門家来と答ふ乙次弥猛に
   思へとも幼年故不注以兎角せし中散々ニ投付たり乙次
   伏なから刀を抜かんとせしを見て迯出しぬ乙次追懸柏原方江
   付込右之者御渡可被有と云へとも未歸と云間先私宅へ歸り

   左五右衛門ニ此由云しか者左五右衛門大ニ怒り兄弟行向ひ可被成御
   渡と云しに柏原家来出て當時新左衛門ハ江戸留守ニ候故
   留守支配岩間恰江可被仰と云兄弟直ニ岩間方江行しに
   折節他出せしとの事故向方江仕懸可懸御目と云し候者
   取次ニ而追付帰り候上可懸御目との事也左五右衛門兄弟ハ
   帰りて待居に一時斗して漸く帰て糸川何某を頼て申けるハ
   先刻之儀柏原家来慮外ニ者候得共乙次殿事追々養子
   ニ茂可被参御身分故表立てハ御為ニも宣しかる間敷内分
   ニ而御済宣敷御座候半と也左五左衛門云此通ニ而差置候而
   士の一分不相立程の恥辱を受候所届申候を向後の為にも
   成間敷内済ニ致せとの事等と難心得候此儀ニ付乙次事

   終身浪人仕候共不苦候間早ニ御渡可被下候且又御取次ニて
   者如何なれ者得貴面申度と云たれハ自分宅ニ而懸御目て
   者事立たるまじ糸川宅ニて可得御意て對面し其節
   も同分の取計有度との事なれと左五右衛門不承知故然ら
   者柏原下着迄御待可被下夫迄ハ拙者慥ニ願置と云左候ハゝ
   其中ハ慥御願申候若自給彼者出奔様致ハゝ御自分様
   を相手ニ可致候左様御心得可被成とて帰りぬ扨一両日過て委
   く聞ハ慮外者至而忽ニてある由左五右衛門又申たる然し長ニ
   御預申事ニ付如何躰ニ而被召置候哉見申置度と云しか者俄
   ニ拮様打し躰ニて見せたり右様の事ニ而何分無覚束今度
   ハ是非共所里(処理?)致たれハ恰も無為方後刻御渡可申迚瀬択ニ
 
   入て柏原家来慮外者ニ手錠打大小指せ連来るり手手錠を取
   て御渡可申上哉と云故取て可被渡と云しかハ慥ニ御渡申候迚
   手錠を取て連来りし者ハ退出ぬ此方より慥ニ受取候と
   云より早く慮外者刀を抜て勝木瀬助こなたニ登と云て
   懸るを左五左衛門鑓を以て耳の根を突く突れなから刀を
   振廻すを強く押しかは倒れしを乙次胯の邊ニ切付留を
   刺たる此時蓑田宅に者親類組合明友寄集て若迯出す
   事もやと助方取固めたると也死骸ハ帯刀の者の事故
   七嶋筵をかぶせ置見分済て蓑田方より嶋崎邊へ葬
   ける或云我家来侍江慮外したらハ一旦折入て断夫ニて
   も向の人承引せすハ自身手討にして首を向江贈るへし

   と也又古老云ケ様の時は假令無刀二而渡たりとも鑓に
   て突ニ不如若懐釼様にて手早き業せんも難計取詮受取
   てハ我もの故武士の器ニてさへ殺たらハ越度ハ有間敷也昔中村
   何某町人やらを鑓ニ而突殺せしを時の人侍ニ不似合仕方と
   評判頻なりしに其時の御家老佐渡殿御花畑江大勢出
   仕揃候中村を呼立其方此手討之事能仕方也乍去拙
   者様ハ猶仕方あり弓二て射殺さハ猶慥也と高聲
   ニ云れし故中村ハ面目を施し評儀も宜敷成たりとかや
   又云弓ニて鑓太刀と仕合事未練に然す鑓なら者穂先
   の挙へ當ル時分太刀ならハ切先のあたるあたらじに放せバ
   中らぬ事はなき也斯近ニと引付て仕たらハ何と未練の事
   有へしと云へり  

  
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暇人の仕事・・?

2010-02-06 08:24:32 | 徒然
 「御大工棟梁善蔵聞覺控」という資料がある。残念ながら原本の所在が確認されておらず、写し書きを見ることしか出来ない。そのことでその内容を否定する学者が居られて、なんとも歯がゆい思いがする。全文をご紹介しようと頑張っているが、まだ先のことになりそうだ。この史料の特徴は、ほとんど仮名書きの口語文である。いわゆる「熊本弁」が随所に登場してくるのだが、時折関西の言葉(大坂弁?)ではないかと思える言葉が出てくる。善蔵なる人は元々は大坂の人であり、清正が連れてきたのではないかと考えたりしている。

 私は侍帳をそれぞれの主家に興味を持って調べてきた。一方「熊本弁」の成り立ちにも興味が有るのだが、「他力本願的」私のスタンスからすると、こういう研究をされている方が居られないようで大変残念に思う。最近細川家家臣の出身地をノートに書き出し始めた。約2000家を調べ上げるとどうなるのかと興味津々なのだが、これには県立図書館所蔵の膨大な「先祖附」を全て読まなければ成らない。何年かかるか、こんなことは馬鹿な暇人しかやらないだろうが・・やってみますか?  
(悪友の「お前は馬鹿だねー」という声が聞えそうだ) 
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赤っ恥の記

2010-02-05 18:57:03 | 徒然
 昨日書いた「どうしても判らないこと」に、貴重なご指摘のメールを頂戴した。「史談会」の仲間F氏からのものであった。私が「七傳筵」とした「傳」は「嶋」であり、「七嶋筵」(シットウムシロ)だとのご指摘である。どっと冷や汗をかいてしまった。それというのもその行の下に、遺骸を「嶋崎邊へ葬ける」とある。その嶋崎の「嶋」と同様のくずし字である。何故気がつかなかったのだろうと、顔が赤くなるおもいでメールを読んだ。昨日のブログをコッソリ消去という訳にはいかない。「赤っ恥の記」を書きますと、メールのご返事をした。

 さて「七嶋筵」でぐぐってみたら、細川藩に関する資料がどっと出てきた。
あゝ知らなかった・・・・・・・・・・・・・・・

 不届きを働いた者を成敗したが、「帯刀の者の事故七嶋筵をかぶせ」たというのは、特別な筵を使っての死者に対するそれなりの配慮であろう。

 それにしても、「七傳者死」なる難しいものを見つけ出したのが拙かった。(言い訳だ~~)
今一つ、我が家の四代目さんの「病気ニ而寸七枚仕候事」とある一行は、熊本では高名な方の読みくだしであり、私とても確認できる文字である。これはどうなる・・・。

 「赤っ恥の記」を記しお詫び申上げる。
コメント (2)
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