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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御の字

2010-04-24 09:57:35 | 徒然
『芸術新潮』のメールマガジンが送られてきた。その中に興味ある◆小特集◆があった。

     http://www.shinchosha.co.jp/geishin/201005/mini_f.html
          股間若衆
          日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究
                    【文】木下直之

 アドレスから内容を見てみると、【曖昧模っ糊り】と駄洒落を飛ばしての一文がある。
これは兎も角本を買わねば論評のしようがないが、大変興味深い。

「木下様んて何者?」とおもってぐぐって見た。
     http://www.l.u-tokyo.ac.jp/CR/staff/kinoshita.html

 いや~視点がなかなかユニークで面白そう。


 最近世の中でいやに思えるのは奇妙な丁寧語である。「御」をつけりゃ~いいってもんじゃーなかろう、と68爺は頭にきているのである。近世に於ても「御」の字は氾濫していた。対象になるもの全てが、「お上」のものであるという考えなのだろう。

 木下先生の紹介の文中に次のようにある。
なぜ、われわれは城に「お」を付けてしまうのか。これだって、大切な研究テーマになりうる。明治半ばになって、旧幕府関係者にその制度や役職の実態を聞き取りした『旧事諮問録』(岩波文庫)に、こんな興味深い話がある。外国奉行のほか、御小姓や御側御用取次などを務めた経験を有する竹本要斎が、質問をさえぎり、「御の字が付かぬと情合が移らぬ」から昔の言葉遣いで答えさせてほしいと断っている。竹本の生きた世界が、まさしく「お城」だった。
日本社会はそれからすっかり様変わりしたはずなのに、「お城」はなお存在を続けている。


「御の字」とは遊郭から派生した言葉らしいが、その意からすると最近の不可思議な丁寧語の冠の「お」は、まさに的外れである。『「御」の字を付けて呼ぶべきほどのもの』かどうか・・

 木下先生の著書を購入すべく朝からごそごそしている。『旧事諮問録』(岩波文庫)も御同様である。
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今日の熊本日日新聞

2010-04-23 21:01:01 | 新聞
■ 【歿後400年「武将・幽齋と信長」細川家古文書】の連載が始まった。

   熊本大学・永青文庫センターの史料が、いろいろ紹介されるらしい。
   どのような新たな情報が提供されるのか、わくわくしている。(金曜日連載)


■ 【新生面】に小説「のぼうの城」が引き合いに出されている。
   
   よくよく読むと主人公成田長親を、鳩山総理と比べようという魂胆らしい。
   「首相の将器は今一つわからない」としているが、いささか強引な比べようではある。
   勝負はすでについているのではないか・・どうみても長親には叶わないと私は見ている。
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 3

2010-04-23 11:01:55 | 細川家譜

【再春館の設立】
六年丙子郭外角井ト云所二醫學寮ヲ建テ再春館ト名ツク 此寮明和八年郭内ニ移ス 村井見朴・岩本原理ト云ヘル両人ヲ師員トシ普ク醫學ヲ誘掖ス又醫業吟味ノ職ヲ設ケ領内ノ醫員ヲシテ年々正月ニ至リ前年療スル所ノ重病奇疾ハ其醫案ヲ呈シ尋常ノ疾病は唯其人數ヲ報セシム 是ヲ以テ學業治療大ニ進ム又竹部ト云所二薬園ヲ置キ繁滋園ト名ツケテ種々ノ薬種ヲ植へ物産ヲ知ルニ便ナラシム
【奉行所機能の確立】
五月先是此國ノ家老昔ヨリ月番ヲ定メテ其月番ニ當ル者ハ己カ家ニテ其月ノ国務ヲ沙汰シヌ 國君在藩ノ時ハ毎日屋方ニ出仕スレ共在府ノ時ハ藩士ノ賞罰モ家々ニ呼出シテ申渡ス習ヒナリ 然ルニ奉行所トテ場内ニ時務ヲ裁判スルノ所アリ是月ヨリ日々此所二出席シテ政ヲ聴カシム 於是従来ノ月番ヲ廃シ其日々々ノ執事ヲ用番ト穪シテ在國在府ヲ問ハス士以上之褒賞は屋方ニテ申渡シ貶■ハ奉行所ニテ申渡ス 如斯ニシテ政務モ愈無滞事體モ始テ所ヲ得タリ 月番ニテ政務ヲ沙汰セシ時ハ其家臣共藩士ノ進退モ我手ニ握リタル風情にて財ヲモ貪ル弊害アリケルカ此改正後ハ頓ニ其風止ミタレ共下部ニ至テハ間々心得違ノ者モアリケル故寶暦九年市在何方ニテモ権門ノ家来共主人ノ権勢ヲ假リ萬一法外ノ事モアラハ帯刀ノ者タリ共用捨ナク押置キ其主人々々へ告ケ知ラスへキ旨國中へ布告ス
【座班を改む-寶暦ノ改革】
是年家中ノ座班ヲ改ム 先是家老備備ナト役席ノ外葉大抵四等トス 番頭物頭馬廻徒士ナリ 爰ニ至リテ番頭席ニ上中下ヲ置キ物頭ハ卒五十人ノ頭ヨリ十人マテノ頭ニ分チ馬廻ハ采地アル者ト中小姓ト云者ノ別アリ 是其略ニシテ徒士モ亦等級アリ夫レ職役座班相當ハ常ノ事ナリ 或ハ座班高フシテ職役卑キ者アリ或ハ役重フシ而座班軽キ者アリ其職役に穪フ者ハ職役ヲ遷サスシテ座班ヲ進ム 又此年役高ヲ定ム 役高徒ハ家老三千五百石高中老備頭三千石高番頭千石高奉行用人七百石高ト云ヘル類ナリ サレハ采地二千石ノ者ヲ家老に擧レハ千五百石ノ足高ヲ與へ百石ノ者ヲ奉行ニ擧レハ六百石ノ足高ヲ與フ 職ニ穪ヒ功ヲ積メハ猶其上ニ足高ヲ加フルモアリ采地ヲ増スモアリ是ヲ以テ人々自ラ我職ヲ守テ分ヲ盡クセリ
當家ニテ奉行ト云者ハ昔ヨリアリト雖共多クハ物頭ナトヨリ兼帯シテ軽々敷體ナリ 又郡奉行勘定奉行以下其ノ奉行ト名ツケタル類多シ 此改正ノ頃始テ奉行ヲ重職ト為シ爵禄ヲモ進メテ他官ハ奉行ト穪スル事ヲ得サラシム 蒲池喜左衛門・清田新助・村山九郎次郎・志水才助ナト才徳アル者共ヲ追々ニ抜擢シテ此職ニ命シ選擧刑法勘定軍政等ノ職掌ヲ分チ日々奉行所ニ出テ政務ヲ議セシム サテ家老中老ノ座ニハ大奉行大目附副テ附属ニ佐貮役アリ 奉行ノ座ニハ目附副而附属に根取アリ 日毎に觸来ル事件ハ奉行先ツ之ヲ承テ家老ニ告ク家老議セヨト云へハ退テ属吏ト旧例ヲモ稽へ或ハ郡頭勘定頭ナト其筋ノ官長ト會議スル事モアリ 議稍ク定リテ復家老ニ告ク 小事ハ家老裁判シ大事ハ必ス國主ニ告テ施行ス 此餘多端之變革ニテ職制始テ備ル 當時議定シタル事後世マテ多ク遵守ス 故ニ宝暦ノ改革ト穪ス
○志水才助ハ原禄三百石ナ 家督即日奉行トナリ果シテ職ニ穪フ 後大奉行中老家老ニ累遷シテ官俸三千五百石ニ至ル ○蒲池喜左衛門ハ世禄百石前代ノ近侍タリシヲ重賢ノ時ニ至リ次番ト云職ニ遷ル 頗ル圭角アリテ人皆以為ラク君ニ得ラレスト既ニシテ奉行ニ擢ラレ遂ニ二百石ノ采地ヲ加へ官俸六百石倶似九百石後病ヲ已テ職ヲ辞シケレハ六百石ノ高ヲ與ヘテ老ヲ養シム改正ノ時殊更心ヲ尽シテ其功堀勝名ト並穪ス ○凡重賢カ人ヲ用ル唯才徳ヲ求メ秩禄門池ヲ選マス緒方某・田添某ナト云ヘル者ハ農民ナリシカ共其通ニ長シケレハトテ士ト為シ領内ノ勧農ヲ司トラシメ後ハ各采地ヲモ與ヘタリ 
【世禄の法を定む】
是年重賢群臣ヲ集メ親書ヲ以テ喩シテ云 藩士食禄ノ事大概當國ノ高ニ應シ古代ノ定メ有リタルヲ中古ヨリ我等マテ新知加禄ノ類も總テ世襲ニ為シタル所ヨリ過當ノ高ニ至リ後年勲労ノ者アリト雖共賞スヘキ禄乏シク數世前代ノ本意ニ背ク 是ヲ以テ慶安二年以前與フル所ノ采地ハ給知加禄ハ斟酌して是ヲ與フヘシ 尤抜群ノ功労アラハ旧故ノ家ニ准シ又子孫ノ材能ニ因テハ強チニ世減スヘカラス以上 爾来父病死或ハ致仕ヲ乞フ者アレハ先ツ其子ノ行状及文武藝ノ程ヲ組頭ヨリ封事二シテ達士目附ヨリモ實否ヲ糺シテ申達ス 其上ニテ慶安三年後ノ禄ナレハ父ノ功労ト子ノ材能トヲ計リ抜群ノ者ハ減セスシテ與へ否ラサル者ハ千石ニ何程五百石ニ何程ト規制ヲ立テ減シケレハ皆耻ヲ知テ夙夜■文ヲ學ヒ武ヲ講シ大抵二三科ハ誰モ印可ヲ受ル二至ル 醫師馬役ノ類ハ家業ヲ以テ事フル者故家ヲ継クノ子其業拙ナケレハ僅二口米ヲ與へ其道ヲ學シメ上達スルヲ待テ禄ヲ加フ 若又親ニ勝リテ堪能ナル者アレハ親ノ禄ヨリ増テ與フルもアリケレハ夫等ノ子弟モ益家業ヲ励ミケリ サテ此減禄ノ令重賢頗ル慙懼ノ意アリ 然レ共亦節度無ンハ有ルへカラス 重賢一世ノ間器量アル者ハ多分ノ禄ヲ與経て擧ケ用ヒ又祖先功労アリテ子孫禄ヲ失フ者ハ遍ク之ヲ求テ扶持スルノ類擧ヲ數フへカラス 嚮キ二節スル所無ンハ何ソ如斯ナル事ヲ得ンヤ
【選擧及ヒ賞罰ノ参議式】
是トシ選擧及ヒ賞罰ノ参議式ヲ定ム 其條々ニ曰備頭ヨリ城代同列以上ニ至リ右家老中老會議家老之ヲ伺日伺書執筆家老或ハ中老一條 組外ヨリ番頭以上ニ至リ右家老中老會議大奉行参議選擧方或ハ刑法方奉行預参家老中老之ヲ伺ヒ伺書執筆大奉行故障ノ節ハ考績方奉行一條 江戸留守居ヨリ諸町奉行以上ニ至リ右大奉行及ヒ選擧方刑法方奉行會議家老中老覆議中老ヲ伺ヒ伺書執筆選擧方或ハ刑法方奉行一條 佐貮役ヨリ知行取以上ニ至リ右選擧方奉行會議大奉行之ヲ審ラカニシ家老中老覆議大奉行之ヲ伺ヒ伺書執筆右ニ同シ一條 中小姓右會議前ニ同シ選擧方或ハ刑法方奉行之ヲ伺ヒ伺書執筆佐貮役故障ノ節羽機密間根取一條 徒士以下右前條同断伺書執筆選擧方考績方或ハ刑法方根取一條 右會議ハ奉行所ニ於テ家老中老大奉行大目附奉行目附列座其處へ佐貮役諸書附持参隠居家督遺蹟相續ナレハ先ツ頭々ヨリ差出シタル封書ヲ讀ミ次ニ先祖以来家筋ノ次第ヲ讀ム 年労功労ノ賞ナレハ是又頭々等ヨリ申立ノ書附を讀ミ而後各格ニ據リ例ヲ照シテ評決役付役替ノ類モ此席ニテ論判又咎筋ハ罪ノ軽重ニ由リ僉議ノ書付ヲ以テ巡覧孰モ異論ナキ處ニテ決ス 縦令役員ノ内依怗偏頗ヲ心懸ル者アリテモ私情ヲ達スル事能ハス 公平ナラシムル設ナリ

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「細川家の至宝」展-出品目録 & 図録

2010-04-22 13:45:57 | 徒然
         http://hosokawaten.com/index.html

上記アドレス「細川家の至宝」展のサイトから、右下にある「出品目録」をクリックすると、今回の展覧会に出品されている品々の目録が記されている。本当に素晴らしいものが出品されていて驚くばかりだが、東京まで出て行けぬ私としては図録を手に入れようと目論んでいる。九州は再来年だそうだが・・待ち遠しい。


         http://www.nhk-p.co.jp/tenran/20100420_141214.html

  【図録】
  細川家の至宝─珠玉の永青文庫コレクション─ 2010年 NHK、NHKプロモーション
        ※2500円 +(梱包料)200円+(郵送料)590円=3290円
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
NHKプロモーションでは展覧会の図録を販売いたしております。
図録代、送料、梱包料の合計金額を「郵便振替」にてご入金下さい。

※お振り込みの手数料はお客様のご負担となります。

郵便振替入金先
口座番号 00170-0-172526
加入者名 株式会社 エヌエイチケイプロモーション

※「通信欄」には、ご希望の図録名と冊数を、「ご依頼人欄」にはお客様の郵便番号、住所、氏名、電話番号を、必ずお書き下さい。
※入金の確認が取れ次第、「ご依頼人欄」にご記入いただいた住所に郵送いたします。希望配達先の住所がご本人様と異なる場合は、「通信欄」にご記入下さい。
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 2

2010-04-22 10:11:58 | 細川家譜

三年癸酉犯禁ノ僧徒ヲ沙汰スル 二百餘人多ハ還俗シテ農ヲ業トス 先是新タニ佛寺神祠ヲ建立スルハ公法ノ禁スル所ナリ 然ルニ領内ノ僧徒以前ヨリ種々欺罔ヲ構へ造営する者止マス於是此命アリ
是と施有司令ヲ傳テ云禮ハ尊卑ヲ分ツ所以ナリ恭フシテ禮ナキ時ハ其弊必ス諂諛ニ至ル 家中ノ士門地又ハ在職ノ者ニ對士恭敬ニ過ルノ習アリ恐ラクハ風俗ヲ敗ラン 各禮ノ繁ヲ省テ其宜ヲ失フ事ナカレ
是年家中ニ令シテ云狂気ニテ自殺セシ者ノ跡目ハ以前ヨリ相續申付サル例ナレ共必竟病気ノ事ユヘ此後相續申付クヘシ 但シ自殺ノ節差通シ難キ始末コレアルモノハ病乱ニ紛レナク共断絶申付ヘシトナリ 是マテ不幸ニシテ喪心自殺スル者アレハ其父母妻子號泣悲痛ノ内失禄流離ノ患モ並至リシニ此改革有テ一國感動ス

【藩校時習館について】
四年甲戌學校ヲ建テ時習館ト名付ク 一族長岡内膳忠英ヲ總教トシ秋山儀右衛門定政 又名ハ儀字子羽號玉山 ヲ教授トス 定政學規ヲ著シテ之ヲ楣間ニ掲ク 訓導師句讀師十餘人ヲ置ク 演武場を東榭西榭ト穪ス 諸技皆師有リ後八十餘人ニ至ル 凡國子弟爰ニ入テ文武ノ藝ヲ学フ 其内居寮生ト云者アリ是ハ館中ニ養テ昼夜専ラ勤學セシム 庶人ト雖共俊秀ノ者ハ又館榭ニ入ル事ヲ許ス 五年正月七日重賢初テ學校ニ入ル 定政孝経ヲ講ス 畢テ文武ノ師員ヲ召テ之ヲ労フ 爾来年頭及ヒ参勤ノ前歸國ノ始ニハ必ス城ニ登リ政堂ヲ視學館ニ蒞ムヲ以テ定例トス 七年重賢館榭ニ入リテ親ラ文武ノ業術ヲ試ム 是ヨリ年々例トナシテ重賢在府中ニハ惣教代テ之ヲ試ミ其最抽ンスル者ヲハ録シテ以聞ス 十年六月講堂ヲ建テ尊明閣ト名ツケ重賢仰止ノ二字ヲ親書シテ之ヲ揚ク 毎月三八ノ日閣ニ於テ講師経ヲ説ク 其日ハ國老一人必ス出席シ備頭番頭奉行目附等モ毎職一人充東席ニ列ス 老職ノ嫡子以下皆北面シテ之ヲ聞ク 使番座班ヲ指揮シ威儀ヲ督ス 於是カ一藩翕然トシテ化ニ嚮ヒ講ヲ聞ク者年々増加ス 十三年正月講堂に於テ文武進歩ノ者ヲ褒賞スル事百餘人其内五十人ハ章服ヲ與フ 後二三歳越ニハ必ス此事アリテ遂ニハ毎歳ニ至ル 是ヲ以テ経術文辭或ハ武技ニ達スル者蔚然トシテ軰出ス 安永六年國中ノ詩ヲ集テ梓行ス 名ツケテ樂冸集ト云 作者二百餘人
【衣服の制】
五年乙亥群臣ヲ集テ衣服ノ制ヲ令ス 士以上表紬若クハ木綿裏ハ帛ヲ許ス 其以下ハ表裏トモニフ布木綿婦人モ概子之ニ准ス 然共急迫ニシテ事ニ害アラン事ヲ恐レ三年ヲ竢テ後制ノ如クセシム 但シ十歳以下七十歳以上及ヒ僧醫ハ此ノ限ニアラス
【刑法の改革】
是年國律を改ム 先是我邦ニテ人ヲ罪スルニ追放死罪ノ二刑アルノミ於是堀勝名 此時大奉行 ニ命シテ刑法草書一巻ヲ撰セシム 大略明律ニ基ツヒテ刎首斬磔ヲ絞斬■遲死ニ准シ雑戸ニ附スルヲ流刑ニ准シ ノ手下ニ入ルゝヲ雑戸ト穪ス 徒ハ一年ヨリ三年ニ止リ己ニ笞ウツテ後墨ヲ刺シ眉ヲ剔テ之ヲ一舎ニ養ヒ年限中日々辰ノ刻ヨリ吏卒引卒シテ徒役ノ場ニ出テ未刻ニ歸 サテ一日ノ賃銭ヲ定メ其三分一ハ官ニ留置キ満期ヲ待テ之ヲ與フ 又舎内ニ在テハ履ヲ造リ席ヲ織ル等ノ業ヲ営ミ市ニ鬻ク事ヲ許ス 是ヲ以テ放還ノ時ニ至リ自ラ活計ノ資アツテ良民トナル者多シ 笞は一十ヨリ一百ニ止リ重罪ニハ刺墨ヲ加フ大抵明律ニ比スレハ皆二三等ヲ軽クシテ誠ニ之ヲ行フ故ニ草書ヲ名トス 其序文ニ曰ク夫刑は一人ヲ罰して萬人ヲ治ル道ナリ一人ヲ殺ス至重ナリト雖共化ヲ梗リ俗ヲ敗ルノ徒ハ其天誅ヲ如何ン故ニ唐虞三代已来刑法アリテ聖人ノ最重ンスル所ナリ 古ハ墨劓剕宮大辟ノ五刑ニシテ異罪同罰合テ三千條ナリ 漢ノ相國■何律九篇ヲ造リ罪ノ軽重細微ニ分チ音樂ノ調十二律ノ外ニ出テス 正聲各和スルト云ニ比して律ト云名始テ起レリ 歴代損益アリト雖共大概此九篇ニ本ツクト云リ 近代ニ及テハ大明律尤其精詳ヲ極ム 本朝モ公家ノ世淡海公藤原不比等和律十二巻ヲ作ル 其後武家ノ世トナリ此律モ陵夷シ海内戦國ノ餘風ニ因循シテ今ニ至ル 我藩ニハ死刑追放ノ二刑有リテ盗者ノ初犯ヲ専ラ追放ニ行レ郭外方幾里或ハ幾郡ト限リ禁錮遠近ノ差アリテ一旦懲悪ニ似タリト雖共禁以外ノ地ニテハ衣食ノ便リヲ失フ事彌切ナレハ縦令悪ヲ悛改セント欲スル者モ飢寒堪サルノ憂已ム事無ク盗心遂ニ復生シ所在地ノ害トナル 如此ナル時ハ何ヲ以テ悪ヲ懲シ何ヲ以テ害ヲ去ランヤ唯一國中ニテ害ノ所ヲ遷スノミナリ 是圭カ水ヲ治ル隣國ヲ以テ壑トスルニ近カラスヤ 然ルニ初犯ハ死ヲ宥メ再犯は死ニ處ス其差アリト雖共已ム事無キノ再犯ヲ死刑ニ處スル時ハ則之ヲ穽ニ陷レテ殺スニ似タリ如斯ハ其罪戻彼ニアラスシテ此ニアリト謂サル事ヲ得ス 是旧典ナリト雖共治平久シク今ニ至テハ時勢人情ニ齟齬シ處置ノ當ラサル事アリ 於是君公厳明ヲ下シ革ン事ヲ議セシム 大哉民ヲ恤ムノ徳封内ニ布ク事永々不朽ノ善政ト謂ヘシ ■シ今綿密ノ律を作ラシメ國ニ施サルゝ事其美云へカラスト雖共恐クハ頓カニ行レ難カルへシ 故ニ先ツ的大ノ弊ヲ救ハシメハ其餘ハ類推スヘシ 民愚ナリト雖共敢テ固辞スル事得サルノ職ニ列ス 故ニ今ノ刑法ヲ増損シ之ヲ簡易ニシテ僅ニ數條ヲ左ニ稽顙シテ執政ノ府下ニ呈ス 其精詳ナル事大明律ノ如ハ伏シテ後ノ君子を■ト云爾

【球磨川大水害と稲津彌右衛門】
六月朔日ヨリ大雨同九日ニ至ル 川々水溢レ芦北郡瀬戸石山崩レ球磨川ヲ堙キ逆浪山ヲ包ミ陵ニ上ル 頓テ其水一時ニヲシ流シ八代郡萩原ノ堤ヲ決スル事數里田園村落一掃して堙壊流亡スル所高ニ拾三萬五百六拾石餘 田二萬線質百五十二町餘 畑七千録百二十五丁餘 鹽濱丸十七町餘流家二千百十八戸溺死男女五百六人溺死牛馬五十八疋此害潮塘川塘堤塘石垣磧所水柵山岸土橋大道井樋番所神祠佛堂蜜柑畑等の數ハ之ヲ略ス 祖先封ヲ受シ以来未曾有ノ水害ニテ水ノ引タル跡ハ渺々ラル曠原トナリ又モ雨降リ水溢レハ里人盡ク魚ノ餌トナラン 然ルニ球磨川ハ聞ユル大河ニテ球磨ノ高山ヨリ流レ落チ疾キ事箭ヲ射ルカ如 昔ヨリ萩原ノ堤ヲ其的に譬へタレハ先ツ此堤ヲ速ニ築クヘシト評議一決ス 抑此堤は故ノ國守加藤忠廣ノ老臣加藤右馬允正方文武兼備ノ才力アリテ築立タル所ナリ 今ノ世比スヘキ人無ク如何セント議スル所二稲津彌右衛門ト云者此時郡監ナリ進ミ出テ右馬允トテモ鬼神ニテハアルマシ 笱モ人力ノ為ス所我何ソ之ニ譲ラント云フ 重賢聞テ即チ命ス彌右衛門承リテ凡ソ十五歳以上土石ヲ運フ者ニハ銭ヲ與ヘテ労ニ酬ント郡中ニ觸レケレハ男女来リ集ル者數萬人強弱ヲ三等ニ分テ築カシム 其堤水際ヲ距ル事三四十丈基ノ厚サ二十餘丈巓ノ厚サ四丈五尺長サ數里ナリ 於是イカナル大雨ニモ水溢レス人民安堵シテ業ニ就ク 彌右衛門ハ發端ヨリ落成マテ晝夜奔走シテ下知ヲナシ彼門ヲ過テ入ラスト云ヘル體ナリケレハ築ク者共喜ンテ頌ヲ作リアノヤ稲津様ハ神カ佛カ死スル命チヲ助ケ給ト口々ニ歌ヒテ土石ヲ運ヒケリ 此役畢テ厚ク恩賞ヲ加フ 其後重賢内宴ノ時自ラ此頌ヲ歌フ彌右衛門傳へ聞テ感泣シ老後常ニ云凡君ノ臣タル者國内ニ充満スレ共君ヨリ様ト呼ル者ハ我一人ナリト
彌右衛門ハ天性威厳ニシテ智慮アリ 前代宗孝カ時租税滞リテ國用不足ナリ彌右衛門自ラ進ミ臣ヲシテ是ヲ治シメハ三年ニシテ國用足ラン若功ナラスンハ自裁セント強チニ云ケレハ即チ命シテ郡頭ト為ス 是ヨリ封内遍ク巡リテ里正抔ノ奸曲ヲ推問シ中ニモ咎ノ重キ者トモ數人ヲ捕ヘテ首ヲ刎ケレハ其餘ノ曲者共雀ノ鷹ニ逢タルカ如ク屏息摂伏シテ邪念ヲ生スル者ナク又日頃姦曲ノ吏ニ苦ミタル民ハ歓呼ノ声路ニ満ツ 果シテ職ニ穪ヘリ 
         

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上達の きざしも見えず 駄句をよむ

2010-04-21 22:53:18 | 徒然
           靴音の 遠のく路地や 朧月

           我里は 今楠若葉 風うらら

           風鈴の 軒端にありて 売家札

           夢はさて 夢になりぬる 歳となり

           出もならず 猫も思案の 春嵐 

           阿蘇の郷の 大なる天の 春北斗      
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細川家譜--細川重賢譜 ・・ 1

2010-04-21 07:24:18 | 細川家譜

 細川家譜巻之七   細川重賢譜

細川越中守源重賢ハ故越中守宣紀カ第ニ子ニシテ宗孝カ弟ナリ 幼名六之助後民部又主馬實名紀雄ト穪ス 延享四年十月四日特命アツテ兄宗孝カ遺領相違ナク相續十一月二十八日従四位下侍従ニ任セラレ越中守重賢ト改ム

寛延元年戊申夏重賢初テ封ニ就ク 年来國用疲耗且其弊風モ部室住中ヨリ具ニ心得テ同年冬家中へ申渡ス條々其略ニ曰ク 諸事清廉ニ取計申スヘトノ趣ハ先代ヨリノ掟ナリ然ルニ近年間々不直ノ事コレアリ差通シ難キヲ以テ咎メ申付タリ是人ヲ撰フ事不宜シテ我等不肖ニ由ル歟抑亦役頭依怗贔屓ノ申立ニ由ル歟兎角我欲ノ筋専ラニテ兼テノ掟ニ違フハ末方ノ者迷惑必然ナレ共不訴出ハ役頭ヲ恐レテナルヘシ向後其人ノ高下ニ依ラス存寄ノ筋ハ書付封印ヲ用ヒ差出ヘシ治国ハ上下一和ヲ以テ成ルモノソ何レモ可考一條  當時國内一統困窮ノ由其源由ヲ尋ルニ諸士ハ數年ノ上知百姓は先納課役又ハ在役人共へ無益ノ物入等多ク町人ハ度々懸リ物ニテ費ヘモ有之故ナルヘシ何卒少シ成リトモ甘クヤウニ致シ遣シ度役人共ニモ精々申聞ト雖共連々ノ差支ニテ手取米等寛ルメ申儀難叶小身ノ者別テ困窮ニ及可申依之軽キ者ヨリ先ツ救立可申二條 右ノ通小給ノ折節ナカラ家作屋敷廻等願クハ取荒ラシ申サス時節直ルマテ可ナリニ取續申ヘシ且又困窮ノ内ニモ文武ノ心懸ハ忘却スヘカラス三條 諸目附横目役ノ者共當リ障リヲ存スル歟又ハ勤を怠ル歟兎角事實ヲ申出テス當時ノ心得ニテハ我等為ニナラス此以後屹度心ヲ付何事モ有躰ニ申聞クヘキ外ニ聞届ケタル筋モアレハ追テノ様子ニ應シ越度申附ヘシ四條 右ノ條々今年始テ入國ノ儀ニ付心得ニ相示ス我意ヲ立権ヲ争ヒ功ヲ奪フ尤未練ノ至リナリ支配方有之面々ハ此節別テ心遣致シ家中無異議押移ル様ニ致シ度何レモ怠ル事勿レ五條

二年己巳二月重賢江戸へ發足前勝手懸リノ者共へ相示ス略ニ曰ク 勝手向ノ儀愈油断ナク申談スヘシ當時ノ有様ニテハ事ニヨリ公邊ノ勤モ差支申ヘキヤト心遣致シ且家中ノ者共難儀至極ノ様子ニ相聞へ苦悩ノ至リナリ勝手方ニ掛ル者共は軽キ役人マテモ朝暮此旨ヲ以テ一統ニ心ヲ合セ精力ヲ盡シ相勤メ申ヘシ一條 在中近年殊ノ外零落ノ由成丈ケ委ク心ヲ付救立村々成立ヤウニ取計ラヒ申ヘシ二條 勝手方ニ懸ル役人共勤方善悪ノ儀明白ニ申達スヘシ三條

三年庚午重賢再ヒ封ニ就キ領内ノ治績ヲ観察シ同八月郡奉行ヲ呼ヒ集テ親ラ之ヲ諭ス概略ニ曰 在中ノ儀郡奉行心得次第ナレハ締方精粗アルヘク又郡村ノ風俗は其所々ノ違ヒモアレハ治教ノ異同ナキ事能ハス然ルニ數多ノ同僚事ヲ同フセント欲スル故事務擧ラス賢愚辨シ難シ預ケ置タル郡村ハ一統ノ見合ニ■リナク且新古ヲ論セス銘々存寄ニ申付ヘシ一條 在中ノ風俗宜カラス今以テ下役人取計ラヒノ内不直ノ儀モコレアル趣ニ相聞へ何レモ心懸薄キ故ニテハコレナキヤ其上善悪糺シタル様子モ相聞ヘス廣キ在々ナルニ旁不審ノ至リナリ二條 郡奉行共下方ノ儀ヲ委ク存知セスシテハ間違モコレアルヘキ所平生権高ニ心得テ下方ノ事ニ疎ク下ヤ九人ノ申立計リヲ據トシテ取計ラヒ申モノハコレナキヤ不埒ノ至リナリ三條 事ヲ恐レ蕪事ヲ好ミ身構ヘノミヲシテハ支配届クヘキ様ナシ此儀孰モ覚悟ノ前タルヘシ四條

宝暦元年辛未鞠獄ハ尤重事ナリ萬一舞文鬻獄ノ弊アツテ不幸ヲ殺サハ何ヲ以テ天譴を贖ンヤ願クハ其人ヲ得ントテ平野権九郎・村上市右衛門ト云ヘル者ヲ擧テ鞠獄ノ長トナス 両人果シテ職ニ穪ヒ推問愈私ナクシテ寃ヲ蒙ルモノナシ 或時一囚白状シテ罪斬ニ當ル 権九郎見ル所やアリケン此断獄暫ク見合スヘシトテ固ク請テ止マサリシケルカ三年ノ後別ニ首罪ノ者顕レテ初ノ一囚ハ命治助カル事ヲ得タリ

【堀平太左衛門登場】
二年壬申七月堀平太左衛門勝貞 後改勝名 ヲ大奉行ニ抽テ國政ヲ任ス 先是納戸役竹原勘十郎玄路ト云ヘル者思惟の條々封書ヲ以テ相達シ猶其詳細ナルハ口陳セント請不 於是重賢玄路を召シ左右ヲ屏ケ密話子丑ノ刻ニ至ル 是ヨリ毎夜如斯ナル事累月ナリ 傍ラノ者共ハ玄路己レ等カ事ヲ讒シ又ハ公ニ由ナシキ事ヲヤ進ムラント疑懼シテ玄路國政ノ得失ヲ論スル事ヲ知ラス 一日重賢歎テ云我圖ラスモ大封ヲ襲テ薄質多恙何ヲ以テカ善治ヲ得ン 玄路云是何ノ言ソヤ夫レ政ヲ為ス豈唯人君一身ノ任スル所ナランヤ縦令ヒ薄質多恙ナリ共賢ヲ撰テ之ニ任スル時ハ事必ス濟ルヘシ臣年月頼ミニ思ヒ参ラセシ甲斐モナシト涙ヲ流シケレハ重賢之ヲ見テ頼母シキ心ナリ行末其心ヲ渝ル事ナク我ヲシテ失人ノ誚ヲ免シメヨ玄路拝稽首シ死ヲ以テ誓フ 於是重賢懐抱ヲ披ヒテ玄路ニ語テ曰抑我封内ノ習俗ヲ観ルニ唯名ト利ノミ貪リ能ク始終ヲ為スモノナシ 是我焦慮苦心スル所以ナリ 爾カ見ル所イカン玄路カ曰ク臣人ヲ閲スル事多シ未タ得ル所アラス 獨堀勝貞其任ニ穪フヘシ 重賢云我亦之ヲ知ル然レ共聞ク所云云ノ事アツテ果サス玄路カ云是恐ラクハ妄設ナラン臣請フ目附ト共ニ行テ之ヲ質サン事無實ナラハ疑フ事勿レ 若其迹アラハ刺違ヘテ共ニ死ナン 重賢戒テ曰ク爾豪邁ナリ謹テ事ヲ誤ル事事勿レ 時既ニ夜ナリ玄路目附ト倶ニ勝貞カ家ニ至テ之ヲ詰ル 勝貞其妄ヲ辧觧シテ且曰臣此毀ヲ得ル全ク戒懼ヲ忘ルニ由ルト義憤ノ色面ニ見ル 玄路即チ反命ス 重賢心觧ケテ平太左衛門ヲ擧用セリ

堀勝名ハ世禄五百石小姓圖タリシヲ重賢封ヲ襲テ後用人ニ移シ玄路カ薦ニ因ニ大奉行ト為ス 爾来重賢國政ニ於ル 大小トナク啇議ス 同六年中老トナシ大奉行元ノ如シ且禄千石ヲ與フ 辞シテ受ケス遂ニ俸ニ直シテ之ヲ與フ 同十二年増禄千五百石此節ハ勝名思フ旨アリテ辞セス 明和三年家老トス 安永七年重賢江戸ニ在リ親書ヲ以テ猶又千五百石ヲ増シ加フ 其言ニ云ク累年勤労功業甚碩ナリ 寡人カ喜ヒ何ヲ以テカ之ニ加ニ勝名書ヲ同僚ニ贈ツテ固ク之ヲ辞シテ云フ 嚮ニ増地ヲ賜フ一度ハ辞シ一度ハ受ク 是職前出ス所ノ兵賦ヲ考フレハナリ 今ヤ人足リ馬■ス臣敢辭スト 重賢又命ヲ下シテ云有功ヲ賞スルハ國家ノ典ナリ謙譲ノ美アリト雖共豈國家ノ典ヲ廃センヤ 勝名己ム事ヲ得スシテ之ヲ受ク 爰ニ至テ前ニ食スル所ノ采地ヲ合テ三千五百石ナリ 重賢卒テ治年嗣ク委任如前 治年卒而齊茲嗣ク待遇益厚シ 二世増禄各千五百石ノ命アレ共皆固辞シテ受ケス 寛政元年齊茲江戸ニ在リ大執政松平越中守幕命ヲ宜諭シテ云堀平太左衛門ハ良臣ナリト翌二年退隠ス ○竹原玄路葉采治二百五十石寛延三年納戸役寶暦二年側取次同六年用人後二百石加増其俸ヲ合テ千石トナル 或時重賢云汝ヲ毀ル者アリ汝ヲ譽ル者アリ其實如何何ン 玄路拝謝シテ云某レノ事ハ真ナリ某レノ事ハ妄ナリ 重賢云汝豪気未除喜テ人ヲ面辱ス必ス之ヲ慎テ口ヲ守事瓶ノ如クセヨ且汝に厚ク爵禄を加ヘン事ヲ請フ者アリ汝カ心ニ於テ如何ン 玄路云冨貴ハ人ノ欲スル所ナリ其人ニ與フルハ衆心悦フ臣カ如キハ唯憎ミヲ取ルノミ其愚ヲ守ルニシカス 重賢云功労ニ酬ユルハ君タルノ道ナリ 玄路云臣才能ノ取ルニ足ルモノナシ只洪恩ニ報ル事ヲ欲スルノミ 是ヲ以テ知テ言ハスト云事ナシ豈功労とスヘケンヤ 重賢強テ欲スル所ヲ問ケレハ臣他日骸骨ヲ乞ハ恐クハ子孫貧フシテ養ヲ遂ル事能ハシ其時ハ老ヲ養フ程ノ扶持を賜ハラハ莫大ノ寵恩ナリ 重賢云是易キ事ナリ必ス養老ヲ給セン而己

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細川家家臣・坂根氏

2010-04-20 10:19:12 | 歴史

 坂根氏は【青龍寺以来】の家柄であり、初代少九郎は田邊城籠城衆の一人である。
少九郎は忠興の乳人(中村氏)の三女を娶り、嫡男が継嗣のない中村氏を相続した。

(1)少九郎(長右衛門・九右衛門)
    代々丹後田辺江居住、坂根右京亮子也、青龍寺にて御児小姓被召出、十人
    扶持三十石被下、今度不慮之御籠城ニ付、八木六十石差上、籠城仕、此節
    之働、御満足之旨ニ而御自筆之御感状
        今度不慮ニ令籠城候処、走入昼夜の辛労忠節候、
        於子孫可申伝候、猶甚助可申候、恐々謹言
            九月十一日         幽斎玄旨御判
          坂根長右衛門殿
        長右衛門妻之母中村新助妻忠興君御誕生之節、乳を被召上候、其後大局
        ニ被仰付、御知行百石、長右衛門并同人妻にも御書其外拝領物等度々仰付、
        御懇之ものなり                   (綿考輯録・巻五)
        (中村)新助妻熊千代君(忠興)をあつかり奉候時、娘三人有之候内、(中略)
        幼少之ごうと申を召連候、此娘後坂根長右衛門ニ嫁候
                                  (綿考輯録・巻九)
        切米人数 炭薪奉行 十五石五人 (於豊前小倉御侍帳)
        嫡子兵助は中村新助養子・茂介(中村家参照)
   消息*坂根九右衛門被申候ハ、中村茂介煩相究申由、申来候間、明日より一夜帰ニ見廻ニ
       参度、被申候間、一段可然候間、可被参由申渡候事  寛永五年四月廿日
      *坂根九右衛門尉被申候ハ、中村茂介知行所へ罷越、見廻申候処ニ、茂介相果候跡
       ニ罷越申候、登城仕申上度候へ共、いミ■て御座候間、奥村少兵衛迄申入由、被
       申候事
             寛永五年四月廿三日
                  (福岡県史・近代資料編-細川小倉藩1-P461,464)

(2)藤左衛門(二男) 御中小姓、有馬御陳之節、御仕寄城戸口御番相勤申候


         
    中村新助    
      ‖--------+==========  茂助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→中村家
      ●    |           ↑
  忠興乳人 後・大局    | 三女     +--兵助 嫡子ナレド生母実家・中村家ヲ相ス
          +--●ごう    |
             ‖----------+--藤左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・→坂根家
         坂根長右衛門
           少九郎 ・九右衛門

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 坂根氏についてWEB上に素晴らしい論考が紹介されている。
       Sakane.net(坂根情報)

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細川家譜--細川宗孝譜 ・・ (全)

2010-04-20 08:22:13 | 細川家譜

細川越中守源宗孝ハ宣紀嫡子ナリ幼名ハ六丸 享保十七年壬子八月廿五人父宣紀遺領無相違相續十二月六日従四位下ニ叙シ侍従ニ任セラレ越中守宗孝ト改ム
十二月廿三日肥後豊後領分銀札通用ノ事幕府へ請フ 来丑ノ春ヨリ廿五ケ年ヲ限リ通用免許アリ

延享四年丁卯八月十五日宗孝依例登城小用ヲ便セン為メ其所二至リケルカ後ロヨリ切懸タル人アリ 振返リ見ル處ヲ猶疊ミ掛テ切付ル 宗孝ハ亂心者ト心得手疵數多負ナカラ其者ノ脇差ハ取揚シカ共相手ハ誰トモ知レス逃失タリ 大目附石川土佐守・水野對馬守目附土屋長三郎・中山五郎左衛門ナト駈付ル中ニモ土佐守・五郎左衛門早ク来リテ宗孝へ相手ヲ尋ヌレ共知ラスト答フ 意趣ハト問フ 何ノ覚ヘモ無シ乱心ト見受シユヘ捕ヘントシテ如此手ヲ負肥シト荒増ヲ答フ 其内溜ノ間脇ヲ圍テ種々介抱早速台聴ニ達シ人参湯漬等給ハル 右ノ騒動ヨリシテ諸間ハ悉ク建切門々ハ皆シメ切テ通路ヲ止ム 此時總供腰掛ニ同席ノ内手疵ヲ負タル人アリト聞ヘテ諸家ノ供人一同ニ騒立宗孝供ノ者モ玄関際ニ詰寄セ様子ヲ伺ヒ居ケルニ坊主来リテ宗孝着替ノ衣類ヲト云ニサテハト心得相手ヲ問へ共分ラス引續キ目附中山五郎左衛門ヨリ供頭ト側役一人宛ヲ蘇鉄間ニ呼出シ相手ハ上ヨリ吟味ノ上仕置アルヘシ 主家ヲ大切ニ思ハレナハ一家中少シモ騒キ申サル間敷トナリ 其後老中ヨリ相手ハ召捕ハレタリ安心スヘシ然レ共定法アツテ名前は告難シ 越中守措置宜シク将軍ヨリモ懇切ノ命アリ両人ノ名前ヲ再三問へ共言葉ナク重キ容體ナレハ屋敷へ引取ル 初メ屋敷ニハ一定シタル事聞ヘス上下騒キ立テ一所ニ集リ確報ヲ待ツ處ニ右ノ注進来リケレハ走リ出テ平川口マテ駈付ルモアリ途中へ追付モアリタリ 宗孝乗物ニハ殿中ヨリ醫師數軰差添ラレ徒目附二人小人目附三人役人薬ヲモ持参又武田叔安ヲ以テ人参ヲ給ハリ歸館ス 頓テ織田山城守来リ相手ハ捕へ置レケル間家中少シモ騒キ申サゝルヤウニ取計ラヒ申ヘキ旨老中ヨリ沙汰ノ趣ヲ家老用人ニ傳フ 程ナク台使堀田相模守入来アツテ手疵心元ナク思召ルノ處萬一大切ニ及フ共跡式ノ儀ハ去年假養子ニ願シ弟有レハ此度猶願出ニ不及安堵致シ養生スヘキ旨ナリ 家中ノ面々憤ヲ含ム中ニモ度々ノ台使ニテ懇ノ程著シク相手モ召捕へラレシト聞キ少シク静マリ唯容體ヲ気遣ヒケル處療治叶ハス翌十六日卒 年三十
相手ハ板倉修理 幕府麾下 ニテ雪隠ノ床下ニ隠レ居タルヲ石川土佐守見付テ捕ヘ糺問スルニ申口モ定カナラス全ク狂乱ト見ヘシカハ頓テ水野監物ニ預ケラレ八月廿三日死ヲ賜ハル

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細川家譜--細川宣紀譜 ・・ (全)

2010-04-19 17:03:36 | 細川家譜

細川越中守源宣紀ハ幼名竹之助利武ト名乗ル 綱利弟細川若狭守利重ニ男ナリ 元禄十年六月十四日綱利将軍ニ乞テ肥後國新田五千石ヲ内分シテ寄合衆トナル

寛永五年戊子正月拾九日綱利養子トナル 六年四月従四位下ニ叙シ侍従ニ任シ主税頭宣紀ト改ム

正徳二年壬辰七月十一日養父綱利願ノ通隠居宣紀家督無相違相續享保元年四月十三日越中守ト改ム

享保十一年丙午二月諸國領知ノ百姓町人社人男女僧尼等其外ノ者共マテ不残相改メ領分限ニ差出スヘキ旨沙汰アリ 肥後豊後領知ノ総人數五拾五萬九千百三十二人此打ち男三拾萬四千三百十三人女二十五萬四千八百十九人

十七年壬子六月ニ十五日宣紀病気重キ容躰故嫡子細川六丸へ家督相續ノ事ヲ乞ヒ翌廿六日卒年五十七
                            (了)

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細川家譜--細川綱利譜 ・・ 4 (了)

2010-04-19 13:45:46 | 細川家譜

                         赤穂十七士・切腹之圖
【赤穂義士一件】
元禄十五年壬午十二月十五日月次ノ登城シケル處浅野内匠頭家来大石内蔵助・吉田忠左衛門・原捴右衛門・片岡源五右衛門・間瀬久太夫・小野寺十内・間喜兵衛・堀部彌兵衛・近松勘六・冨森助右衛門・潮田又之允・早水藤左衛門・赤垣源蔵・億打孫太夫・矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門右十七人ヲ預ケ置ルゝト命アリ 尤屹トナク憐憫ヲ加へ申スヘシ委細ハ仙石伯耆守ニ申談スヘシトナリ コレニ依テ伯耆守申合セ綱利自ラ受取ニ行ントセシヲ夫ニ不及トノ示談有テ家来マテヲ差出ス 是ヨリ先キ浅野内匠頭ニ勅使馳走ノ役ヲ命セラレ去年三月十四日勅答ニ付テ登城シ高家吉良上野介へ日比意趣ヲ含ミ殿中ニ於テ刃傷ニ及シ時内匠頭ヲ押留メタル人アツテ本意ヲ遂ル事ヲ得ス 然ルニ此儀時處ヲモ辨へナキ仕方不届ナリトテ内匠頭ニハ切腹領知播州赤穂城ハ没収シ上野介ハ其儘蟄居ヲ命セラル サテ内匠頭家老大石内蔵助ヲ先トシテ四十六人ノ同士今暁吉良氏ノ屋敷ニ押入リ上野介ヲ討取り高縄泉岳寺ニ至リ内匠頭墳前ニ首ヲ手向ケ吉田忠左衛門・冨森助右衛門ハ直ニ仙谷伯耆守屋敷ニ至テ事ノ子細ヲ申達シ孰モ泉岳寺ニ在テ上裁ヲ待ツ 頓テ台聴ニ達シ四十六人ノ内當家へ十七人預ケラル コレニ依テ即晩受取トシテ家老三宅藤兵衛ヲ始騎馬四十人餘歩士足軽共數百人伯耆守屋敷ニ至リ受取ノ人數乗物十七挺式臺前ニ居へ置キ順々ニ載セ十七人ノ兵具以下紙入ニ至マテ帳面ニ引合セ受取終リ路地警固ヲ堅メ子ノ刻比白銀ノ屋敷ニ至ル 綱利早速對面シテ云フ孰モ忠義ノ至リ感心ス誠ニ天命ニ應ヒタルト存ス 當家ニ預ルコト武門ノ本望ナリ心易ククツロキ數月ノ辛苦昨夜ノ労ヲモ休メ申ヘシ 何事ニ依ラス存スル旨アラハ隔意ナク申スヘシ為メヨキ筋随分精ヲ盡スヘシ大法ナルユヘ公儀ニ對シ家来少々出シ置ト雖共番人ト云ニハアラス一ツハ用事ヲ達スル為メナリ遠慮ナク申スヘシト云ヒ又詰人ニ向ヒテ孰モ相應ノ用事ヲ承ルヘシ 夜モイタク更スレハ早々料理ヲ出スヘキト云テ内ニ入ス 随テ嫡男吉利對面シテ何ニテモ越中守ニ遠慮ノ事モアラハ我等ニ申サルヘシト懇ニ申聞ケ家臣堀内傳右衛門等五人ヲ擇テ馳走役ト定メ晝夜両人宛相詰ルヘシト申付ル追テ料理ヲ出シ濃茶菓子モ済ミケレハ所々ニ風呂ヲ立湯浴サセ小袖一重子宛遣ス サテ別室 コレヲ櫛形ノ間ト云 ニ置火爐ヲ設テ寒ヲ■(御ノ下ニ示)カシメ料理は綱利親ラ指圖シテ日ヒニ盛饌ヲ與へ撰テ客ヲ饗應スルヨリモ別テ心ヲ盡シケリ 又如何ナル不意アランモ測リ難ク或ハ火災ノ變ヲ避ヘキ為メ警衛ノ手當乗物ニ至ルマテ常ニ備へ置シノミナラス何時ニモ宥免アラハ與フヘシトテ銘々紋付ノ小袖上下刀脇差等ナラヘナオシ置ク 馳走人晝夜出テ寒暖鬱労ヲ訪ヒソレモ隔心アリテハ却テ休息ノ妨ナラン 和順ヲ本トスヘキトナレハ日ヲ重スルニ随ヒ親子兄弟ノ如ク昵シク給仕ノ者共マテ能馴染メ昼夜ノ勤ヲモ倦ス 只管預人ノ心ニ叶フ様ニ心ヲ用ヒ或時ハ生死ヲ與へ或時ハ軍書物語ヤウノモノ數多取出シ望ニ應シ兎角ニ気ヲ轉シ心ヲ慰ヘキ設ヲナシ サテ又親族朋友ニ書通スヘキタメ硯料紙等數々出シ或ハ畫圖ヲ書カシメナト万端親切ヲ盡シケリ
十六年癸未正月預人ノ面々へ舊臘ヨリ年始ノ着服熨斗目服紗麻上下等遣ハシ又新春ヲ祝スヘシトテ染小袖ヲ與ヘケルニ厚意難黙示トテコレヲ受ク都テ綱利憐愍ノ深キヲ感シ一日ニ千載ヲ招キタル心地トテニ六時中ノ詞モ唯冥加ノ程恐入ト云フ外ナシ 五人ノ馳走役ヲ初メ報讐ノ次第其夜ノ働等聞マホシクトモ敢テ問尋スマシキト始メヨリ戒メ置預人モ亦語ル事ヲ欲セス 復讎ノ事ハ己カ働キ二アラス只天命ノ擁護ニ依レル歟トノミ申ケリ 然レ共深切ニ語リ合ヒ又ハ密ニ尋シ人ニハ既往ノ事語リタルモアリシヨシ 綱利思フヤウ櫛形ノ間ハ庭狭クシテ千種ノ詠メモ無シトテ正月下旬ヨリハ役者ノ間ニ轉居セシム 此處ハ庭モ廣ク晴ヤカニ池水タゝヘテ前栽ノ木立物古リテ春ノ気色ヲアラハセリ預人ハ感激ニ堪ヘス 此處ニ移リテヨリ内蔵助・捴右衛門ハ晝夜額ヲ寄セ合セ何カ知レス書列子封シテ認置シカ死ニ極テ後綱利ニ差贈ケルヨシ 此節ノ預リヲ綱利喜悦大方ナラス何卒助命セラレテ永ク預リ置タキ旨老中ヘノ訴へ再三ニ及ヒ且四十六人ノ者生命安全ノ立願處々ニ有り 然ルニ下旬ニ至リ親類書差出スヘキ旨四家同様ニ老中ヨリ沙汰アリ捴シテ刑人ノ親類書ヲ取ル事死刑ニ定リタル上ノ法ナルヨシ サレハ諸人ヲ膽ヲツフシ殊ニ去冬ヨリ親炙セシ輩ハ惆然タル躰ナリ 預人等ハ素ヨリ死ヲ決セシ事ナレハ更ニ驚ク色モナク唯當家廣大ノ恩ニ報スル期ナキヲ遺憾トセリ
二月四日預人ノ面々仕置ノ事申来ル 綱利早速白銀屋敷ニ早打ノ使者ヲ差立十七人ノ面々へ申シ遣シケレハ各事一度ハ赦免ノ吉左右申聞カスへシト存シツルニ只今老中ヨリ仕置ノ奉書到来残念至極ナリ 孰モ妻子親類等へ遺言認ムヘシ旨遺體ノ事望ニ任セ送ラスへシ 検使の入来モ晩景ニ及ヘシ心静ニ支度スヘキ旨申遣シケレハ孰モ謹テ承リ舊臘ノ恩命一方ナラス其上死骸ノ事マテ意を懸ラレ有リ難事謝スルニ辞ナシ 旧臘十四日既ニ相果タル屍ナレハ今更故郷へ申越スへキ事モナシ然ナカラ老母又ハ幼少ノ者共ヘハ一封遣ハス事モアランカ宜ク頼入ト使者へ申述ヘケル 無程料理ヲ出シテ種々ノ馳走シ畢テ各沐浴シケレハ麻上下小袖二宛遣ハシ綱利竊二内蔵助ニ對面シテ深切ノ挨拶有り内蔵助涙ニ咽ヒ退出ス サテ比類ナキ預人共ナレハ軽キ者ノ介錯ニテハ武門ノ礼にアラストテ内蔵助ハ物頭格ノ者其餘ハ小姓組ヲ残ラス列座セシメ今度預人ハ後世武士ノ鑑トモ成ヘキ者ナレハ人ヲ指而羽申付サルナリ 上座ヨリ次第ノ通十六人ノ介錯スヘシトテ萬端手厚申付ル 家中ノ面々孰モ名残惜ミ兼手附置シ者共ハ奴僕等二至ルマテ愁傷シテ親子ノ情モ是ニハ過キマシと見へケレ共十七人ハ聊カ憂ル色モナク唯何カニ付綱利厚恩ヲ感シ難有トノミ云ヒ合リ 未刻台使荒木十左衛門・久永内記徒目附小人等召連入来十七人ハ衣服ヲ改目麻上下着圍ノ間ニ列座ス 台使申渡スノ文ニ曰
浅野内匠頭儀傳奏御用之節吉良上野介へ含意趣場時節ヲモ不辨上ヲ軽シメタル仕形不届二被思召候ニ付御仕置上野介儀者無御構被差置候然處ニ其方共内匠頭継意趣徒黨仕飛道具抔持参上野助宅ヘ致推参上野介ヲ討取不憚上仕形不届就被思召切腹被仰付者也 ト
孰モ其旨相心得レハ台使其座ヲ立退タル上土器ヲ出シ酒ヲ進ム 切腹ノ場ハ大書院舞臺脇ノ白州ナルユヘ各役者ノ間ヨリ直ニ出ル 場所には筵疊ヲ敷其上ニ袷蒲圑ヲ曳キ向二白幕ヲ打廻シ一番二内蔵助切腹其儘白張ノ屏風ヲ以手検使ノ前ヲ立塞キ死骸ヲ蒲團二包ミ幕ノ違目ヨリ持出棺ニ入レ乗物二載ル 其内ニ筵疊幕陰へ取拂ヒ跡ヲ清メテ又前ノ如ク筵疊ヲ敷ク其作法十七人共二同様ニテ孰モ神妙ナル最後ノ躰ナリ サテ市外葉望ノ通リ泉岳寺ニ送ル 乗物一挺ニ高挑燈一ツ足軽二人宛騎馬前後ニ乗ル 泉岳寺ニ數十人ヲ遣ハシ手待受ル 他家へ預ケノ面々死骸モ同時ニ泉岳寺ニ送リ来ル
佛事終リテ内匠頭墳墓ノ側ニ四十六人次第ヲ以テ埋葬ス 追テ泉岳寺に金五拾両ヲ納メテ追福ノ料ニ供ス サテ有司ノ者共座敷ヲ清メン事ヲ綱利ニ伺ヒシニ十七人ノ勇士共破屋敷ノ守神ト存スレハ其儘差置ヘシトテ其事止ミヌ


十一月廿二日綱利嫡子内記従四位下ニ叙シ侍従ニ任シ兵部大輔吉利ト改ム 寶永三年四月廿五日卒

正徳二年壬辰三月禁裏御所方普請築地用銀高割ノ通献納ス

七月六日綱利老疾ヲ以テ隠居ヲ請フ 同十一日願之通隠居ヲ許サレ養シ宣紀ニ跡目無相違給ハル 

四年甲子十一月十ニ日綱利疾ヲ以テ卒年七十二 綱利為人勇壮軀幹雄偉ニシテ常ニ武邊ニ身ヲ委子槍術ハ宝蔵院流剣術は四天流・柳生流・武蔵流ノ三流各奥儀ヲ極メ其外兵學弓馬組打鉄砲踏水等ノ諸藝ヲモ鍛錬し餘閑ニハサシ石相撲ナトニテモ筋骨ヲ強クシ膂力人ニ勝レテサシ石ノ重サ二十六貫目肩入ノ弓一寸二歩ナルモノ今ニ残レリ サレハ兼テ召仕フ家来ニモ武術ニ達シタルモノ數多ナル打ち磯野彌兵衛カ槍術・成田清兵衛カ剣術組打・田中甚兵衛・寺尾カ剣術ノ如キハ世ニ其聞へアリ
 或年江州柏原驛ニ宿スアタリノ川筋■(雨冠ニ月)ニハ瀬ノ音シキリナリシカ夜深ケテ聞へサルニヨリ綱利怪ンテ見セシムルニ水勢至テ乏シト云 亭主之ヲ聞テ此邊ハ盗賊多ク水ヲセキ留テ火ヲ掛ル巧ミナラン油断アルマシトヒシメキけル故磯野彌兵衛・成田清兵衛命ヲ■テ馳セ向ヒケルニ果シテ大石土俵ナトニテ水上ヲセキ留メタリ サレハコソトテ彌兵衛ハ大ナル鑓ノ石突ニテ大石土俵ヲ刎除ケ清兵衛ハ棒ヲ以テ刎崩シケレハ左マテ力モ入レスシテ川筋元ノ如ク流レテ其夜何事モナカリキ 此時悪黨共ハ両人ノ強力ニ膽ヲ潰シ肥後ノ天狗ト恐レテ逃散リタルトナリ 綱利兼テ文學ヲ好ミ大學頭林鳳岡ヲ師トシテ老年マテ怠ラス詩作ナトモアリテ林家唱和ノ篇今ニ残レリ 傍ラ天文筆道故實茶ノ湯連歌ノ類ニモ暗カラス徒ラニ月日ヲ送ル事ナシ 七歳ニシテ父ニ別レ生母ニ事へテ孝心ナリ 年長スルニ従ヒ生母ノ嫡室ニアラサル事ヲ憂ヒ後ハ何トナク嫡母ノサマニモテナサセテ不断起居同靜ヲ尋問シ萬事深切ニ心ヲ盡シ六十八歳ノ時母ヲ喪フ 此時母ハ九十四歳ナリ斯ク老境マテ母ニ事フル事ヲ常々喜ヒテ歳旦ノ詩作ナトニモ多クハ其意味ヲ述タリ

                              (了)


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細川家家臣・中根氏・・3

2010-04-18 19:08:50 | 歴史
先日の「中根氏・・2」にぴえーるさんからコメントを戴き、細川家藩士・中根氏と岡崎藩本多家の家老・中根氏の関係がはっきりした。

 +--平忠盛---清盛
 |                     忠良
 +--平忠正---中根忠雄・・・・+---忠貞----○----市左衛門・・・・・・・→細川家藩士・中根氏
                    |               正吉
                    | +---織田信長
                    | |
                    | +---織田信照
                    |        ↓家康命、松平信康臣、本多忠勝臣
                    +---正秋===忠実・・・・・・・・・・・・・・・・・・→岡崎藩家老・中根氏
                     三方原戦死
 

       参考 www.city.okazaki.aichi.jp/MUSEUM/DB/KKP/H13-09-15/Ky00801.htm
          ja.wikipedia.org/wiki/平忠正
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細川家譜--細川綱利譜 ・・ 3

2010-04-18 16:28:17 | 細川家譜

【前川勘右衛門 vs 藤田助之進】
延寶元年癸丑七月廿三日前川勘右衛門重之筑後國北関ニテ藤田助之進父子ヲ討果ス 是ヨリ先キ両人江戸在勤ノ節助之進娘ヲ勘右衛門妻ニ遣シ度由ニテ粗其約ヲ固メシカ歸國ノ後前川一類ノ故障ニテ破談セシカハ助之進コレヲ恚ミ悪口セシヲ勘右衛門聞テ討果スヘシト云遣ス 助之進ヨリ噯ヲ入レ一旦和觧ニ及フト雖共勘右衛門噯ニ託シ臆シタリトノ唱ヲ受終ニ暇ヲ請フ 七月十九日願ノ通暇ヲ遣ス 依テ従兄弟山名十左衛門重澄カ知行所山鹿郡高橋村ニ退去ス 藤田モ同日暇ヲ取ラセタレハ同人本國播州へ歸ラントテ縫殿助ヲ初メ妻子家従ヲ纒メ七月廿三日南関口ヨリ出ル時前川カ許ニ人ヲ遣シテ若意趣ノ言フヘキアラハ北ノ関ニ相マチテ面決セント言贈ル 十左衛門ハ藤田カ立退ク由ヲ聞付テ前川カ許ニ馳付ケ此事ヲ聞キ前川ト共ニ藤田ヲ追テ北関ニ至リ先ツ使ヲ以テ藤田ヲ留ム
藤田丘ノ上ニ在テ主従十人計鉄炮ヲ構へ待懸ル 前川カ家士西郷祐道其子平十郎壻諸左衛門山名カ家来加々美横平主ノ矢面ニ立ツヘシトテ砂烟ヲ蹴立抜連テ蒐ル 藤田主従一同ニ炮發セシカハ祐道諸左衛門砲玉ニ中テ伏ス 平十郎肩先ヲ討セ少モヒルマス進ミ戦フ 十左衛門此隙ニ岸陰ヨリ跳上リ鑓ヲ擧テ助之進ヲ突伏セ其方先頃士蓄生ト悪口セシハ武士ニ似合サル雑言ナリ真ノ武士ノ擧動斯ノ如シ 山名十左衛門見知リタルカト喚リテ止メヲ刺ス 縫殿進馳セ来リ左ノ方ヨリ拂切ニ切付シヲ弓杖一丈計リ飛徐ケル時家来共押隔散々ニ戦フ十左衛門又討テ蒐リ縫殿進ヲモ突留ル 藤田カ家来皆働キテ死ス 此日申刻ヨリ事始リ酉下刻ニ場ヲ揚ク 山名カ手ニ討死一人手負八人前川カ手ニ討死三人手負二人アリ其後勘右衛門所々漂泊セシカ翌三月豊後臼杵城主稲葉右京亮ヲ頼ミシニ右京亮懇ニ待遇アリシカ八月晦日勘右衛門密ニ家来ヲ本意ヲ告ケ自殺セリ 十左衛門ハ追々知行五千石ニ至リ家老職トナル 元禄十一年三月綱利旅行ノ節北ノ関ヨリ十左衛門ニ書ヲ與フ 其略ニ曰先年藤田父子殺戮働ノ場所今見ルカ如シ心ナキ邑老村女マテ感心セリ天下静謐ノ時家老職ニ其方ヲ持スル事世上希有リト云々

【肥後領内洪水】
四年丙辰四月十八日ヨリ同廿二日マテ肥後領内大雨洪水諸軍所々堤磧所破損七千六百九拾間餘廿二日ヨリ五月廿四日マテ猶大雨洪水居城石垣堀岸等崩レ諸軍堤磧所岸拾五万五千九百間餘破損 田畑八万千二百石餘損亡崩橋等餘多アリ

【田中八郎兵衛事】
七年己未五月江戸留守居役田中八郎兵衛政盛遠州袋井ノ驛ニテ家人九人ヲ搦メ取彼地ニ於テ誅伐ス
先是八郎兵衛江戸表詰代リ發足ノ以前ニ家司自殺セリ 何心ナク出立セシカ袋井ヨリ二三宿前ノ駅ニテ年久シク召仕タル鑓持八郎兵衛カ厠ニ往クヲ伺ヒ小紙半枚ニ書タルモノヲ窓ヨリ投入テ立去ル ■テ披キ見ルニ家来共申合セ八郎兵衛ヲ殺シテ金銀ヲ分チ取ルヘキ巧ミ既ニ久シク先二家司モ悪徒共刺殺シテ自害ノ姿ニイタシタル由其身モ一味ニ加ラスハ忽チ殺サルへシト思ヒ詐リテ同心シ一度ハ物ノ用ニ立ヘキ歟ト書キタリ 八郎兵衛奇特ニ思ヒ夫ヨリ袋井マテ晝夜油断ナク既ニ熟睡セサル事三夜ニ及ヒ猶此上ニ労レテハ如何ナル不覺ヲ取ンモ測リ難シ サラハ今夜悉ク手討ニスへシト覺悟シ宿ニ至ル 此日同藩ノ稲津次郎兵衛・永田金左衛門江戸ニ赴クトテ同驛ニ泊リケルカ稲津は兼テ別懇ナルユヘ竊ニ右ノ子細ヲ語リ永田モ共二相謀リテ事故ナク不残搦メ取ル サテ八郎兵衛ハ此駅ニ滞リ次郎兵衛等は急キ江戸ニ至り右ノ由ヲ達スルニ綱利八郎兵衛カ壮気ヲ感シ早速公邊ノ許免ヲ蒙リ袋井駅ニ於テ九人ノ悪徒共ヲ誅伐ス 八郎兵衛ハ遂ニ熊本二歸着セリ 

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細川家譜--細川綱利譜 ・・ 2

2010-04-18 11:18:04 | 細川家譜

(寛永)六年丙午七月廿一日綱利弟細川若狭守利重ニ知行三万五千石ヲ内分ス 是将軍ニ請テ免許ナリ
【田中左兵衛諫言】
今年田中左兵衛氏久ヨリ數条ヲ陳疏ス 其略ニ曰ク此間貞観政要ヲ讀ミ存寄タル事憚ヲ顧ミス言上ス 唐太宗ハサシモノ賢主ニテ常ニ身ノ過ヲ聞カン為メ諫ノ官ヲ立テ朝夕諫ヲ聞カレタリ 夫ヨリ日々ニ悪去リ善進ミ嫌ヒ我智ヲ飾リ驕リヲ極メ偽リ多キ二依テ國ヲモ家ヲモ亡ス事古書に見ヘタリ 此事ヲ見此書ヲ聞テ心ノ鏡トナシ善悪ヲ引合セ心ニ認ル寸ハ師共成リ申スヘシ 此言佛神ニ誓テ心ノ誠ヲ顕シ言上ス 其愚ナルハ恕セラレン事ヲ希フ一條 今ノ人ニ賢臣を選ミテモ其人柄アルマシク大方ノ人ノ内ヨリ卑シカラス者ニ諫ノ役ヲ任セラレ公ノ過失又ハ公ニ言上シ難キ事ヲモ包マス言上スヘシトアラハ大方ハ過ヲ見付ルモノナリ賢王聖主ノ上ニモ我過ヲ不聞シテ知ルタメシハ稀ナリ玉モ磨カサレハ光リ出ス二條 聖人ノ言葉ヲ聞召サレテモ談話ノ上ノ利口トマテ思召サレテハ心ノ磨ニハナラス却テ智恵ヲ飾ル基トナラン人ノ寶モ秘蔵ナル程深ク蔵クシ朝夕人ニフケルモノニアラス人ノ言葉知恵モ外へ飾リ出ス寸ハ内ハ浅ク顕レ申スヘシ水浅ケレハツマタテゝ渉リ水深ケレハ人恐ルヤウナルモノナリ言葉モ智恵モ外ノ飾リトナラサル様ニ潜メ居ク事専要ノ慎ト思召ルヘシ三條 大人タル人ノ目前ニテ追従スル臣ハ恨ル者多シト思召ヘシ智恵ヲ飾リ我ノミ宜ト思召サハ是非追従ヲ好ムニ至ルサレハ正直ハ日々二退テ口ヲ閉チ申スヘシ偽ヲ退ケ正直を貴フ事風俗ノ正ク成ル本ナリ四條 大人ハ奢ヲ戒メル事第一ニテ雨フレ共葢ヲハラスト申ス事愚カナル様ニ聞ヘケル共萬事ニ渡ル言葉ナリ下ノ困窮ヲ口ニハ憐愍ヲ加ヘテモ其身ニハ栄耀ヲ盡して言行相違スルハ心ニ誠ナキ故ナリ五條 大人ノ道具ニ物數奇ハ萬ノ奢是ヨリ始ル大人ノ物數奇ハヨキ人ヲ選ミ武道文道ニヨキ道聞召サルゝ事第一ナリ不入物數奇ハ費ト申シ奢ト申専ラ戒シムル事ト古人モ申置タリ太閤ノ時諸大名寶クラヘアリ家康公ノ仰ニ我等ノ寶ハヨキ人ヲ持チ先手ヲサセ人ヲ預ケル誰々ト申者ヲ持シトナリ此言金言ト云ヘシ昔東山殿イハレス物數奇アリテ今マテモ東山殿ノ物とて士民商人モ取傳持廻ルハ東山殿ノ耻ヲ末代マテモ残シタルモノナリ六條 大人ハ平生安樂ニテ下ノ苦ヲ存シナキ故政ハアリテモ下ノ志ニ通セス依テ常々賤道ヲモ聞召事専要ナリ草履取者ノ寒キ事モ知シ召レ然ルヘシ七條 大人ハ萬事心ニアハヌ事ヲモ堪忍強ク無クテハ萬人ノ父母トハ申サレス物毎我儘ニトマテ思召テハ萬人ノ仇トナリ申スヘシ之ニ依テ一人ノ苦ヲ思召セハ一人ノ安樂モ長久ナルヘシタトヒ下ヲ苦シメテモ苦トモ不存誠ヨリ出ル憐ミハ金銀ニモ勝レ又金銀知行ヲ與へテモ心不仁ニ思召ハ下ノ恨深ク面ハ従へ共心ニハ不義ヲ懐クサレハ下ノ義と不義ハ上ノ仁不仁ニアリ八條 
左兵衛ハ往年有馬ノ役ニ武功ノ老人ニテ此時綱利ハ十八歳ナリ尤モ切實ノ上表ナル故爰ニ記ス

七年丁未家中ノ士討死シタル者ノ跡目ハ討死ノ者ヲ除クノ外三代マテハ無相違申付ヘシト定ム 先是能勢勘大夫ト申者病死セシ跡ニ八歳ノ子アリシカ白川洪水ノ時溺死セリ 溺死ノ跡ハ断絶申付ル定法ナレ共勘大夫カ親有馬ノ役ニテ討死セシ者ナル故勘太夫娘十四歳ニナリケルニ入聟ヲ申付跡目ヲ立ル 爾来討死ノ跡目ヲ立ルノ定法トスル

八年戌申二月本田本畑ノ外ニ多葉粉ヲ作ル事ヲ許ス 初メ他國ニテハ本田本畑ノ外ニ多葉粉ヲ作ル事ハ有リケレ共當藩ニテハ一切コレヲ禁セシカ今年ヨリ此禁ヲ許セリ

今年長崎番舩ノ事高力左近大夫ト交代シテ差越ケルカ左近大夫罪アリテ嶋原ノ領チヲ没収セラル コレニ依テ右番船綱利一人ニテ差出ヘキ旨命アリ 翌年松平主殿頭ニ領知ノ命アリテ其後同人ト交代シテ番舩ヲ差出ス

十二年壬子二月八日綱利備頭共ヲ集メテ茶ヲ點シ餘多ノ物語教戒セシ中ニ孝行ノ儀父へノ孝ハ身持心得ヲ善クシヨキ子ヲ持タリト人ニ譽ヲ取ル程ノ覺悟アルへシ 母ヘノ孝ハ同シ事ナカラ夜寒ナル時ハ肌薄ナキヤウ風ヒカサルヨウ二ナト或ハ食物ニ付テコマコマト労ハル心入ヨシ兄弟ノ間モ睦シク懇ノ心入肝要ナリ 朋友ノ交リモ慇懃ニヒタヒタトイタシ譬ヘハ今日ノ茶ノ湯ニ付テモ誰カ悪シキナト々申間敷ク皆左様ノ事ヨリ争ニナルモノナリ 鎌倉ノ代梶原太閤ノ時石田是等ノ者共は讒侫ノ者ナリ 相組ノ中ニモ別シテノ者モアルへシ 又大躰ノ者モアルへシ孰モ一同ニ隔ナク入魂ニ仕リ訴訟ナト申ス寸立間敷事ハ申サスヤウニ仕ヘシ

五月十四日豊後鶴崎表風雨強ク洪水出テ高田塘切レ所々破損ス 熊本城モ同様ニテ城内廣間ノ前石垣陥リ此比中國九州都テ風雨強ク諸國破損多ク大損毛ニテ六十年来ノ洪水ト云ヘリ

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細川家家臣・中根氏・・2

2010-04-17 17:29:37 | 歴史
 1/29のブログで中根氏をご紹介したが、その出自が気になっていた。
分家の史料をよくよく眺めていたら、中根和泉守とある。
実は織田信長の弟に信照という人があり、これが中根和泉守の養子となり織田中根と名乗っている。この中根氏の嫡流と思われる家は徳川家に仕えたが、のち岡崎藩本多氏の家老職を代々勤めている。その中根氏について、岡崎市に於いては「中根氏文書」(上)(下)が近年発刊されている。細川家家臣中根氏に言及があるのかどうか確かめていないが、どうやら織田中根の弟筋ではないかと推測している。
上士は筋目といった事が重要視されているが、「これで納得」という次第である。
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