津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■慶長五年、二人目の江戸證人

2019-01-15 09:35:25 | 歴史

 慶長10年細川忠興の二男・興秋(27歳)は、それまで江戸に於いて證人(人質)を勤めていた弟・忠利が細川家の嫡子となることが決定し、その身代わり證人となるために江戸に向かった。不本意に思った興秋は途中で出奔、剃髪してしまった。
忠利の嫡子起用は、徳川家の意向が働いてのことであろう。この事件はさらに波紋を広げ、飯河豊前・長岡肥後の誅伐事件へと繋がっている。
          ■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(一)
          ■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(ニ)

 忠利が證人になったのは、慶長5年正月未だ幼名の光で呼ばれていた15歳の時である。
石田三成のあらぬ讒言により、細川家は德川家から謀叛の疑いをかぶせられ、その釈明に奔走している。その結果として、忠利が江戸證人となった。
忠興の嫡男・忠隆は前田利家の女婿である関係もあり、前田家も疑いをかけられ利家の室・芳春院(まつ)が江戸證人になった。

「細川忠興軍功記」によると、忠興は二男・興秋を證人に出そうとしたことが判る。綿考輯録にはないものである。
慶長五年七月二十一日条「忠興様ハ廿一日之朝宇都宮にて與五郎様(興秋)を重て志ち(質)に被遣候」とあり、「胴落し」の太刀を「進上被成候とて、與五郎様と同時に被指上候事」とある。どうやらこれは秀忠に対するものであったと推測できる。
処が翌日、岡田太郎右衛門なる人が與五郎を同道して「御光様(忠利)被進候、與五郎に二重に入不申候、越中殿御心底殘所も無御座候」と返されたというのである。
「御父子様御満足不浅候」と喜んでいる。
一度かけられた疑いをはらすために大いに知恵を絞った結果と見え、戦国の世を生き抜く手立てであったのだろう。

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■度支彙凾 文化八年より十四迄 法令條諭・十八(9)

2019-01-15 07:05:27 | 史料

 七九二
一當年御参勤、來月廿三日五ッ半時之御供揃ニて、熊本可
 被遊御發駕旨被仰出候段、御用番被申聞候條、可被奉承
 知候、以上
   亥正月十五日        御奉行中

 七九三
    口上書
丹羽式部少輔様御妹、朽木兵庫助殿御嫡朽木縫殿助殿御      丹羽式部少輔丹羽氏昭 母:細川興文の娘
 奥方御病氣之處、御養生無御叶、去十二月十八日御死去      朽木兵庫助→旗本(交代寄合)朽木綱泰(くつき・つなひろ)か?
 之段申來候、依之今日一日諸事穏便可仕旨被仰出候條、
 奉得其意、觸支配方えも可被相觸候、以上
   亥正月廿五日        奉行所

 七九四
一江戸勤番之面々死去之節、所々之寺院え葬送有之候處、
 遠路之事ニ付、其子孫之内江戸詰等無之候得は墓参も出
 來兼、年隔候得は墓所等分兼候儀も有之由、不便之事ニ
 被聞召上候間、非常御儉約中なから相應之寺院、永代御
 借受、御家中惣墓ニ被成下候ハヽ、永々墳墓等分兼候様
 なる患有之間敷被思召上候旨被仰出候、依之今度東海寺               東海寺 細川家の墓所妙解院がある(サイト 続・竹林の愚人 から) 場所
 中少林院白雲庵両寺へ御頼ニ相成候間、近版之面々之
 内若不幸有之候ハヽ、御中小姓以上小林院、足輕以上は
 白雲庵へ懸合、勝手葬送いたし候様、且宗旨違たり共不
 苦、勿論望次第他之寺院へ致葬送候儀は、勝手次第之事
 ニ候、此段一統及達置蚊申旨候條、左様御心得、御支配
 方えも可有御達候、以上 
    定府之面々は、本行之患無之候得は、依望は主人 
    /\ハ本行両寺へ葬送いたし候儀不苦候
   一若不幸之節、本行両寺之内ニ葬送有之度候ハヽ、
    其段御役所へ申出有之次第、御寺へ申向之紙面相
    渡蚊申候
   一右葬送ニ付て之懸合筋、向後諸付届物等は都て
    解院納所へ仕向有之候様
     但、葬式料之儀、寺納之員數少分ニても、其程
     ニ應葬式勤方有之由ニ付、此方より懸合次第取
     計有之筈候、追々之振合も可有之候間、其節ニ
     臨、得斗納所へ申談か有之候
   九月七日          江戸詰御奉行中
 江戸勤番の面々死亡之節之儀ニ付被仰出之趣、於江戸及

 達候、別紙寫一通差廻候條左様御心得、觸支配方へも可
 相達候以上
   文化十一亥二月七日     御奉行中  

                
                          妙解院は細川宗家の菩提寺、清光院は宇土細川家の菩提寺           
                                

 七九五
一御知行取・御扶持方、大豆望差出之儀是迄幾手形ニても

 一通ニて相濟來候處、以後は手永分一ヶ通宛ニ〆、名前
 ニ印形を用達有之候様、左候得は夫を以在中え及達、翌
 年ニ至七月拂方相濟候上、右望差出村々より可致持参候
 間、石高之脇ニ無相違受取候との書入印形用ひ、被相渡
 候様、右指出文案別紙相添候、尤達方之儀ハ是迄之趣を
 以御勘定方御奉行所え可被相達候
一地子證文は今迄之通、尤當テ所は御勘定方と認有之筈
一鹽は御賄物所へ直ニ題錢上納ヲ以受取方有之筈、尤代錢
 ニ何ノ何某、鹽何俵代と付紙ニ〆、名前ニ印形を用ひ被
 差出候様
一御切米取御扶持方切手之儀、是迄前月十日限仕出來候處、
 以後は同五日限差出候様、尤右日限を越仕出候分ハ一統
 渡より日數十日過被渡下筈候
一諸渡方諸拝領願之内至節季達有之候分、以來ハ十二月
 十日を限被差出候様、若右日限通出候得は、年内不及
 御沙汰候、尤御救願其外臨時至急之願筋等は別段之事
 候
 右之通可及達旨候條、左様御心得、觸支配方有之面々ハ
 可被相達候、以上
   文化十二亥三月九日     御勘定方御奉行中

 七九六
    口上書
一今度於西御丸御誕生之姫君様、御名儔姫君様御事、先月      家慶の将軍襲職前に生まれた二女
 廿六日被遊御逝去候ニ付、今日より日數三日諸事穏便可
 被相心得候、此段觸支配方えも可被相觸候、以上
   亥三月十五日        奉行所

 七九七
    口上書
一來ル十七日、榮雙院様二百囘御忌被為當候ニ付、十六日       文化12年200回忌→元和2年死去 該当者を見つけ出せないでいる。
 御逮夜より御當日迄、於神護寺御法會御執行被仰付候間、
 右両日諸事相煩、火用心等彌入念候様、堅可被申付候、
 此段觸支配方えも可被相觸候、以上
   文化十二亥四月十一日    奉行所

 七九八
奥平大膳大夫様、此度御両敬被仰合相濟候、御家内様左       奥平大膳大夫→奥平昌高、中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ
 之通
      大膳大夫様    御嫡子  恒丸様          恒丸→奥平昌暢
   御祖母 貞祥院様     御娘  於様           (片偏に昜)ヒロ
 右之通ニ付、御家中へ知せ置可申旨、御用番被申聞候條、
 左様御心得、觸支配方有之面々ハ可被相達候、以上
   亥五月十一日        御奉行中

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