「細川忠興軍功記」を読むと、大きな事件の渦中に引き込まれた二人の女性がクロウズアップされる。
一人は一色五郎義有室の細川幽齋女・伊也、今一人は前野景定室の細川忠興女・長である。
一色五郎義有は、細川家から結婚祝いにともうけられた宴席に招待され、義兄・細川忠興の手によってだまし討ちに殺害された。
前野景定は父と共に豊臣秀次事件に連座の罪を問われ切腹させられている。室・お長も同罪とされたが、細川家家老の松井康之の奔走で前野家から離縁させ、後剃髪して危機を逃れている。何れも若くして夫を失ったことになる。
細川幽齋女・伊也は永禄十一年(1568)生まれである。
義有が亡くなったのが天正九年(1581)九月(諸説あり、位牌による)だから、結婚し一男をなし、14歳で未亡人となったことになる。
一男は愛宕山下坊福寿院に入山して修行した幸長だが20歳で死去している。
伊也は細川家に帰り忠興に面会した折、小刀で切り付け鼻に傷を負わせたと伝えられる。
その後吉田左兵衛侍従卜部兼治に再嫁したが、多くの子をなし、平穏な人生を全うしている。
一方忠興女・長については生年がはっきりしないが、興秋(天正十一年生)の姉だと考えられる。兼見卿記によると、長が前野景定に嫁いだのは天正十八年(1590)十二月廿六日だとしている。10歳か11歳くらいのことである。
秀次事件により景定が切腹して果てるのが文禄四年(1595)八月十九日である。15~16歳で未亡人となったがこちらは子を為していない。
剃髪の姿で懐かしい母・ガラシャの許に帰ったのであろう。切支丹になったとも伝えられるが、平穏な日々もそう長くは続かなかった。
石田三成による大坂玉造の屋敷への襲撃事件によりガラシャが亡くなるが、長がこの時何処にいたのかは定かではない。
何れにしろ20歳前後で最愛の母をも失った。慶長八年に豊前(出雲という説あり)で亡くなっているが、23~4歳か。非常な歴史の荒波に翻弄された人生であった。
■兼見卿記からの発見
追記 1月24日 9:22
(ピエール様からお長の生年が判る資料をお教えいただいた。感謝。これによると天正十壬午年生まれとある。又亡くなったのは京都であるとしている。)