津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二人の若き未亡人

2019-01-21 12:48:40 | 歴史

 「細川忠興軍功記」を読むと、大きな事件の渦中に引き込まれた二人の女性がクロウズアップされる。
一人は一色五郎義有室の細川幽齋女・伊也、今一人は前野景定室の細川忠興女・長である。
一色五郎義有は、細川家から結婚祝いにともうけられた宴席に招待され、義兄・細川忠興の手によってだまし討ちに殺害された。
前野景定は父と共に豊臣秀次事件に連座の罪を問われ切腹させられている。室・お長も同罪とされたが、細川家家老の松井康之の奔走で前野家から離縁させ、後剃髪して危機を逃れている。何れも若くして夫を失ったことになる。

細川幽齋女伊也は永禄十一年(1568)生まれである。
義有が亡くなったのが天正九年(1581)九月(諸説あり、位牌による)だから、結婚し一男をなし、14歳で未亡人となったことになる。
一男は愛宕山下坊福寿院に入山して修行した幸長だが20歳で死去している。
伊也は細川家に帰り忠興に面会した折、小刀で切り付け鼻に傷を負わせたと伝えられる。
その後吉田左兵衛侍従卜部兼治に再嫁したが、多くの子をなし、平穏な人生を全うしている。

一方忠興女・長については生年がはっきりしないが、興秋(天正十一年生)の姉だと考えられる。兼見卿記によると、長が前野景定に嫁いだのは天正十八年(1590)十二月廿六日だとしている。10歳か11歳くらいのことである。
秀次事件により景定が切腹して果てるのが文禄四年(1595)八月十九日である。15~16歳で未亡人となったがこちらは子を為していない。
剃髪の姿で懐かしい母・ガラシャの許に帰ったのであろう。切支丹になったとも伝えられるが、平穏な日々もそう長くは続かなかった。

石田三成による大坂玉造の屋敷への襲撃事件によりガラシャが亡くなるが、長がこの時何処にいたのかは定かではない。
何れにしろ20歳前後で最愛の母をも失った。慶長八年に豊前(出雲という説あり)で亡くなっているが、23~4歳か。非常な歴史の荒波に翻弄された人生であった。

     ■兼見卿記からの発見

追記 1月24日 9:22
(ピエール様からお長の生年が判る資料をお教えいただいた。感謝。これによると天正十壬午年生まれとある。又亡くなったのは京都であるとしている。)





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■「度支彙凾 文政元より五迄 法令條諭・十九」(2)

2019-01-21 07:09:42 | 史料

 三七
一御府中早乗之儀、遠馬休養之外従前々被禁置候段、委細
 天明年中及達、猶又寛政四年十二月及達置候處、近來間
 々御府中早乗之輩も有之哉ニ相聞不都合之事候、右及達
 候以後最早年隔候事ニ付、若手之面々ハ熟得無之候て之
 儀ニも可有之哉ニ付、先年及達候趣寫相添候條、彌以堅
 可被相心得候、此段觸支配方えも可被達候、以上
   四月廿八日

 八三八
一江戸より御國許え御飛脚之儀、一ヶ月ニ一度宛指立申事
 ニ候處、御便餘り間違有之、御家中老人又ハ病人等有之
 者は別て之事ニて、双方共様子承り候儀間遠く難澁仕者
 可有之候間、非常之御省略中なから、格別之思食を以、
 以来は月々両度宛指立候様被仰付候段、従江戸申來難有
 御事ニ候、依之此御許より之御飛脚も一ヶ月ニ両度宛指
 立申筈候、此段為御存可申達旨候條、左様御心得、觸支
 配方有之面々は寄々ニ相知せ置候様存候、以上
   文政元寅五月廿七日     御奉行中

 八三九
  貮歩判出來公義御達
一此度世上通用之ため貮歩判金新規吹立被仰付候間、右歩
 判二ツを以金壹両之積り、尤銀錢共両替小判・壹歩判同
 様之割合相心得、取交無滞可致通用候
 右之趣國々えも可觸知音候
   四月
                            「文政元年 二分...」の画像検索結果 右肩に文政の「文」が見える

 八四〇
一藤崎宮・祇園社御祭禮之節、於桟敷御仕出二相成候御菓
 子、且又其節御物頭以上え御酒被下候儀、格別御省略二
 付て文化三年以來被差止置候處、被為在思召之旨御省略
 年限中に候得共、右両様以前之通被仰付候、此段一統為
 存知可申達旨候條、左様可有御心得候、以上
   六月廿七日         御奉行中

 八四一
養浩院様四月十九日御忌日之處、以來四月十八日ニ被遊              養浩院→細川齊茲二男・職五郎茲詮 文政元年四月十九日死去 23歳
 御極旨被仰出候段江戸より申來候、此段為被奉承知申達
 候間、觸支配方えも寄々可被達候、以上
   文政元寅六月廿九日     奉行所

 八四二
    口上書
細川和泉守殿病氣之處養生不被相叶、先月十八日死去之     細川和泉守宇土細川藩8代藩主・立之
 段申來候、依之今日より日數三日諸事穏便相心得、此段
 觸支配方えも可被達候、以上
   七月四日          奉行所

 八四三
一今度世上通用之ため吹立被仰付候貮歩判金之儀、来月十
 日より通用可致候、尤先達て相觸候通小判・壹歩判取交
 無差別取引為致候様、通用差滞申間敷事
       文政壹歩判

一小判金之儀年久敷相成、自然と瑕金等多、世上難儀之趣
 相聞候付、追て及沙汰候儀迄は五分以上之切レ金は勿論、
 其以下之瑕金にても無差別小判・貮歩判・壹歩判・貮朱
 判取交無代ニて引替可遣候間、武家・在家とも所持之も
 のハ、來月十日より後藤三右衛門役所を初別紙名前之者
 方え早々差出引替可申候、尤五分已下之瑕金通用方にお
 ゐてハ是迄之通候間、心得違致間敷候事
一貮歩判切賃之儀、壹歩判同様に相心得、不相當之儀いた
 す間敷旨両替屋ともへ申付候間、其旨可相心得事
 右之趣可被相觸候
   文政元寅五月

 八四四
太守様御國許え之御暇被仰出候處、無據御内用被為在候      太守様細川齊樹
 ニ付、御發駕暫御見合、御内用被為濟候て可被遊御發駕
 處、御忌中ニて御延引相成候、然處御持病之御疝積御發
 動、暑中別て被遊御障長途難被遊御旅行、當秋中迄御滞
 府御願書御用番青山下野守様え、先月廿九日被遊御差出
 候處、去二日御願の通被仰出候段申來候、此段為被奉承
 知申達候條、觸支配方えも可被知置候、以上
   七月廿九日

 八四五
一途中深笠をかふり候儀無子細候得共、近來面躰不相分程
 之異形之笠かふり候者有之哉ニ相聞候間、以來右躰之笠
 不相用様一統可及達旨候條、左様御心得、觸支配方有之
 面々は可被相達候、以上
   九月五日         御奉行中

                             

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