七〇一
同年(文化六年)二月
一御府中萱屋根葺共心得之儀付て、御作事所より右支配方
え別紙之通沙汰有之候間、雇人ニ成候屋根葺共、若心得
違之者も有之候ハヽ、直ニ御作事所へ内達有之候様寄々
可及達旨候間、左様御心得、以下例文
三月十一日 御作事所御奉行中
御府中萱屋根葺之儀、御家中所々より雇候節は、日雇賃
等餘計ニ取候歟、又は度々酒なと賄不申候得は仕事も日
數懸候様、仲間共申談候様子相聞、不都合之次第相聞申
候、右之通有之候ては此許より職札相渡置候處、示方届
兼候様相聞候間、以來御家中へ雇参候節は究之通之賃錢
ニて、外ニ日雇抔之通長休等いたし不申候様相働可申様
屋根葺共え申渡、若違背いたし候者も有之候ハヽ、向方
より内意次第職札取揚可申候事
正月 御作事所
七〇二
一猪八郎様來ル廿二日五時の御供揃ニて、此元御發途之筈 六九七に記した如く猪八郎君は三月十八日に誕生された。
ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞候條 僅か四ヶ月ほどしか経過しておらず、赤児の旅は無理ではないのか?
被奉承知、觸支配方有之面々は可被相知せ置候、以上 案の定というべきか翌七年十二月廿九日二歳で江戸で死去している。
文化六年巳七月十九日 御奉行中
七〇三
一來ル廿日泰勝院様二百囘御忌ニ被為當候ニ付、於泰勝寺
同十九日・廿日御法會御執行被仰付候、依之両日共諸事
相慎火用心等彌歟被入御念候、且又御法會刻限幷参拝刻
限別紙書付二通相添候條、右書付之通半上下着可有参拝
候、尤下々至迄不形儀無之様可被申付候、此段觸支配方
へも可被相觸候、以上
八月十日 奉行所
七〇四
口上書
一來ル廿六日霊感院様二十五囘御忌被為當候ニ付、同廿五
日、廿六日於妙解寺御法會御執行被仰付候、依之両日共
諸事相慎被用心等彌可被入念候、且又御法會刻限幷参拝
刻限、別紙書附二通相添候條、右書附之通以下右同断
十月十四日 奉行所
七〇五
一御家中御蔵米幷御擬作且御扶持方等被下置候面々、門松
差出達方之儀、十二月五日限被究置、右日限を越被相達候
面々ハ、是迄不存書付を添被相達候得は、濟出ニ相成來
候得共、年々達後之面々多しらへ及混雑候間、以來は右
日限を越被相願候面々えは不被渡下候、尤無據譯筋も有
之候ハヽ委敷被相認、不念之段筋々達有之、政府より差
圖之上、差出達方有之候様及達候條、左様御心得觸支配
方有之面々は可被相達候、以上
文化六年巳十一月廿一日 御奉行中
七〇六
下津久馬 7代・下津久馬 寛政十二年九月~文化五年七月 小姓頭
一右は座席御留守居大頭同列被仰付、御足高五百石被増下 文化五年七月~文化六年五月 奉行(大奉行助勤)
置旨昨日申渡有之候、此段為御存知申達候、以上 文化六年五月~文化八年一月 大奉行
十二月十五日 御奉行中
七〇七
口上書
一細川左近殿病氣之所養生不被相叶、先月廿二日死去之段 細川左近・・不明
申來候、依之今日より日數三日諸事穏便相心得、以下例
文
文化七年二月十二日 御奉行中
七〇八
一先年御銀所預書替被仰付候節、五匁幷貮匁五分預は御引
上貮歟相成筈之處、右預御引上貮相成候ては一統不辨利
之趣ニ付、先其儘通用被仰付置候、然處當時に至右預も
め損し、近々は取扱難成様ニも可相成哉、依之只今より
認方被仰付出來次第追々引替、古預は且々焼捨被仰付筈
候
一右引替預之内、鶴崎表為通用貮匁五分・壹匁五分之預、
鶴崎御銀所より振出被仰付候、尤諸上納且現錢引替等之
儀、熊本御銀所へ差出候儀も不苦候
一於久住小物成方歩入會所取建相成、彼表為通用五匁・壹
匁五分之預、於小物成方出來振出被仰付候、尤諸上納等
之儀右同断
右之通候條左様御心得、御支配方へも可有御達候、以上
文化七年午二月廿八日 御奉行中
七〇九
二月十九日
一今度江戸於白金御裏御誕生之御女子様、御名於泰殿御 於泰→細川齊樹長女・泰(トヨ)二月廿五日誕生
事、御病氣之所、御養生無御叶、先月廿八日御死去之段
申來奉絶言語候、依之今日より日數三日諸事穏便ニ相心
得、已下例文
三月十三日 奉行所
七一〇
一御府中於端々幼年之者等、竹筒ニ鹽焇を籠、間々火扱遊
いたし候様子相聞、火用心無心元儀は勿論、自他怪我も
難計、彼是不埒之事ニ付、右躰之儀見逢候ハヽ名前承糺、
其段相達候様廻役共へ申付候、右は定て無辨卑賎之者之
仕業ニて歟有之候得共、萬一御侍之子弟之内姓名等承糺
候様之儀も有之候ては氣毒成儀候得共、其場ニ至候てハ
歟致用捨様も無之事ニ付、自然之儀も無之様兼て父兄よ
り精々被附心、勿論家來/\ハ不及申屋敷番又は長屋借
之者等へも屹ト可被申付候、此段一統可及達旨候條左様
被相心得、已下例文
三月廿一日 御奉行中
七一一
一細川式部殿儀、従太守様御願被為置候通、先月十四日右 細川式部・・不明
近殿遺領相續被仰付候段、江戸より申來候、此段觸之面
々えも相知せ可申旨、已下例文
文化七年四月七日 御奉行中