津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠興が溺愛した娘「お萬」のこと

2019-01-28 11:30:08 | 歴史

 慶長五年(1600)徳川家康は上杉景勝を討つべく出陣するが、その先手として忠興と福島正則と加藤嘉明の三名が指名されている。
6月23日に嫡男の與一郎(忠隆)が主力の人数を召し連れて、忠興に先んじて出陣する。
忠興の出陣は遅れて27日となるが、これは忠興の娘・萬の「以之外御煩」が原因である。(細川忠興軍功記)
その日の夕、若狭の西津(若狭湾内)についているから舟での出陣であろう。歯痛のために忠興はここで逗留している。
琵琶湖を舟で渡り、7月2日に犬山城の川上に舟で到着、待ち受けた忠隆らと合流している。

 愛娘・萬の病気と自らの歯痛で数日の遅れをとっているが、7月18日宇都宮に至り20日には同地で秀忠の着陣を出迎えている。

さてこの萬姫は慶長三年(生月日不明)生まれであるから、三歳ということになる。
どうやら男女の双子であったようだが、男子は亡くなっている、名も明らかにされていないから、生後間もなく亡くなったのであろう。
生母は明智次左衛門女・小ややである。宮村典太の「雑撰録」にある「明智次左衛門事」によると、次左衛門は父の代までは近在の百姓であったが、次左衛門は優秀な人であったらしく侍に取立てられ、家老迄つとめたとされる。
在熊の能楽師・狩野家には小ややの妹が嫁いでいるとされるが、こちらの系図によると光秀の二女・律がこの次左衛門(光忠)に嫁いだとされている。

これが本当であれば「小やや」はガラシャ夫人の姪だという事になる。
忠興のもう一人の側室、郡宗保女・藤(古保の生母、松丸)については、ガラシャは自分の死後「藤」を継室としないように強く求めたと伝えられるが、これはガラシャが三土野に寂しく隠棲した時期に「藤」が子をなしたことに対する、忠興への抵抗だとも思える。
姪である「小やや」についてガラシャの想いはどうであったろうか。

のち「萬」は、烏丸光賢に嫁ぎ細川家から1,000石の扶持をあたえられている。
財政に難儀した父・忠興や兄・忠利は再三にわたり、「萬」の融通を受けている。京の三浪費家として「萬」をあげるものがある。

「萬」に対する忠興の溺愛ぶりは、終生途絶えることはなかったようである。
忠興と萬の痛恨事は、萬の娘「彌々」が細川光尚に嫁いだが、男子をなしたあと死去したことであろう。
その様子は伝えられていないが、二人の悲しみが目に見える様である。


        

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■「度支彙凾 文政元より五迄 法令條諭・十九」(10)

2019-01-28 07:08:05 | 史料

 九〇三
一御國中痢病流行に付、於藤崎宮退除之祈禱被仰付、明廿
 九日より五日五夜執行有之筈候、依之成就之上守礼申受
 度面々は神護寺幷寺社中え承合可申候、勿論従上被仰付
 候祈禱之事ニ付、銘々より奉納などニ不及候、尤御祈禱
 中被致参拝度面々は是又不苦候條、左様御心得、御支配
 方えも可被知せ置候、以上
   文政四巳七月廿八日     御奉行中

 九〇四
一當年御参勤小倉路九月十三日御發駕、例之通御達候事

 九〇五
一未暑有之候ニ付、禮服之節は當前之服着用、其外は帷子
 着用可為勝手次第旨被仰出候段、御用番被申聞候條、左
 様可有御心得候、以上
   九月朔日          御奉行中

 九〇六
一御留守中御城代長岡内膳殿被仰付候、此段觸支配方えも     長岡内膳→内膳家7代・忠虎
 知せ置可申旨、御用番被申聞候條、可被得其意候、以上
   九月三日          御奉行中

 九〇七
一漁獵被致候面々四季共耕作之隙不相成様との儀は、追々
 及達置候處、遂年相弛候哉、春夏満水之時分地低之田端
 網を入諸作を損し、潮塘・川塘幷井樋・碩所抔之石垣を
 損し、又は引網等漁父均キ躰、或渡鳥時節ニ至候ては及
 暮地鳥を當打いたし候儀も有之由、是等は向無心元候間、
 以來右様之漁獵は屹ㇳ遠慮有之候様、若心得違候輩有之
 候ハヽ、見役人より姓名承届相達候様及達候間、家來      扌偏に乄=
 々々迄も不洩様申付候様、一統可及達旨候様、左様御心
 得、御支配方えも可被相達候、以上
   文政四巳十月七日      御奉行中

 九〇八
一太守様舊臘廿九日依召御登城被成候處、篤姫様御事、      篤姫→細川齊樹二女 12歳(14歳で死去、正式な結婚には至っていないと思われる) 
 川中務少輔殿え御縁組御願之通被仰出候段、御到來有之、     細川中務少輔→宇土細川家9代立政 19歳(後・本家相続齊護)
 奉恐悦候、此段為被奉承知申達候條、御支配方えも可被
 相知候、以上
   文政五午正月廿三日     奉行所

 九〇九
一眞鍮錢吹方先年被指止候處、遠國之内ニは未拂底之場所
 も有之趣ニ候、猶又今度吹増被仰付候間、於國々も彌無
 差支可致通用候
   十一月

 九一〇
      和田十兵衛                              和田十兵衛5代・武学(左大夫・十兵衛・九兵衛)御鉄炮十挺頭・平野組 二百石
一御條目   
      宮川九十郎                              宮川九十郎6代 御留守居御番方組脇・上月半下組 二百五十石
  此通上書いたし、裏ニ右両人之封印有之、其上を郡内
  嶋之三幅ふくさに包有之
 右之品先月十四日之夜、京町東裏仙勝院丁和田十兵衛宅        仙勝→現・熊本地方裁判所(和田宅も同・仙勝院右隣)
 より同所本町口角迄之間ニて宮川九十郎懐中より落し候
 由、此品拾イ候者有之候ハヽ、早々可申出可指出候、御
 品柄を恐レ申出候儀を相憚居候儀も可有之哉、拾イ候者
 御咎等可被仰付様も無之、たとゐ開封いたし候とも不苦
 候間、少も不憚可申出候、萬一拾候者後難を恐レ如何様
 とそ取計たる儀も有之候ハヽ、是又有躰ニ可申出候、若
 隠置追て相願ニおゐてハ其者屹ㇳ御咎被仰付候
 右之趣御家中家來々々町在共一統可相觸旨、御用番被申
 聞候條、左様被相心得、御支配方えも可被相達候、以上
   文政五年午三月十一日    御奉行中

 九一一
一於江府右大将様先月朔日より内府様と可奉稱旨、大大目       右大臣様・内府様徳川家斉
 付宗より御書附被差廻候、右之趣可相觸旨従江戸被仰下
 候條、奉得其意、觸支配方えも可被相觸候、尤此觸状可
 有判形候、以上
   四月            奉行所

 九一二
    道中之儀ニ付、公義御觸達
道中御奉行兼大目付岩瀬伊豫守様より、文政三辰五月廿       岩瀬伊予守氏記、文化12年~文政3年 南町奉行
 五日御留守居御呼出、御書取を以具ニ被仰聞候趣有之候
 付、御家中之面々心得方之通、左之通
 御旅行幷御家中通行之節、荷物貫目重有之は宿駅於改場
 所相改、重荷之分は貫目増丈ヶ割合を以賃錢等遣候得は、
 子細も無之事候得共、混雑之折柄、於宿駅役人共も一々
 改候儀不行届儀も有之候故、間二は各別重荷有之候様子
 ニ付、以來精々心を用候様申諭候様被仰聞候、前文通御
 内沙汰も有之候付ては、此末不都合之儀有之候ては難相
 濟事候間、以來旅行之面々彌以御定法通相守貫目越不申
 様、荷物宰領幷荷物付添之家來/\等えも堅可被申付候、
 為心附荷物貫目御定法等之書附別紙相添候條、熟得候て
 可有通行事

    荷物貫目御定法
一一駄荷物 御定法四拾貫目迄
  文化六年十一月道中御奉行井上美濃守様え御留守居よ
  り伺有之候處、各別輕貮拾壹拾貫目迄候ハヽ輕尻之駄
  賃ニて候由、御差圖有之
一乗懸下 御定法貮拾貫目迄 
  右同断伺有之候處、蒲團・中敷・跡付・小附一式にて
  貮拾三四貫目迄は不苦旨、御差圖有之
一輕尻下  同  五貫目迄
  右同断伺有之候處、蒲團・中敷・跡付・小附一式にて
  輕尻乗不申候ヘハ、貮拾壹貮貫目迄ハ不苦旨右同断
一人足壹人 同  五貫目持
  右同断伺有之候處、七八貫目迄ハ一人持之内貮て、九
  貫目よりは二人持之由、尤一人半と申御情報無之由
 江戸道中筋荷物貫目之儀付て、道中御奉行様御演達之趣
 一統可及達旨ニ付、則書付相添候條、左様被相心得御支
 配方えも可被相達候、以上
   文政三年九月二日     御奉行中

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