私めはと言いますと、毎日散歩をしているにもかかわらず体重が落ちません。
血圧も血糖値も下がりませんから、これは本格的に食生活を改善しなければと思い、炭水化物を暫く控えようと考えました。
何も食べないという訳にはいきません。そこで「モヤシダイエット」を試みています。1袋33円だそうで、これを炒めただけで食べて居ります。
先週の水曜日から朝昼33円の食事です。もっともトースト1/2枚とかとってはいますけど・・・
わりと腹もちも良いようで、年金暮らしには家計にも貢献することでしょう。
但し、新鮮なものをと奥方が気を使って買い物が頻繁になりました。
ひがな一日家の中ですから、つまみ食いが多かったのですが、これも控えるようにしました。
5日間で、75.6㌔が只今74.7㌔まで減っています。70㌔まで落としたいと思っていますが、さていつまで懸かるでしょうか。一ト月でどのくらい減量するか楽しみにしています。
デスクの足元や周辺に、ジュース缶(30缶)等が入っていた段ボール箱が並んでいて、これにA4の封筒に入れた史料が入っている。
資料を入れるにはこの空箱が誠に都合が良い。しかし、これに何が入っているのかがとんと判らない。
見出しを付けようと思い、再確認するために引っ張り出してみた。
①・志水家史料 ・下津家史料 ・牧家史料 ・有吉家史料
②・荒木家史料 ・横山家史料 ・伊津野家史料 ・坂崎家史料 ・高瀬藩西氏、村松氏史料 ・大竹氏史料 ・垂水氏史料 ・沼田門太先祖附 ・高田家、宮川家、
寺内家、坂口家、八木田小家史料
③・城安太家、續少助・才七郎・三郎家、手嶋楯三郎家、松浦新吉郎家先祖附 ・阿部茶事談関係資料 ・藩邸沿革 ・藩校サミット萩大会資料
④・大塚源次家史料 ・岡田裕隆氏所蔵田添家史料 ・西川家史料 ・緒方喜一郎家史料
⑤・薮田道家、田中八兵衛家、天野善次家先祖附 ・林新九郎家 ・高見家 ・「し」諸家、
⑥・
⑦・上林氏関係資料 ・米村勝太郎関係資料 ・三井家史料 ・小林恒太郎関係資料 ・松下加兵衛、中根関係資料 ・河方九平、山崎定平(本因坊)史料
・両角氏、高瀬藩両角氏、白石氏先祖附 ・秋山儀右衛門、高本孝太郎、薮九十郎先祖附 ・柏原新住、荒木太平(山城系)先祖附 ・小崎家関係資料
・「よ」諸家‐余田、横山、吉住、吉山、吉弘、横井、吉冨、吉澤、吉見、吉岡、吉川氏先祖附
⑧・魚住家史料 ・楯岡小文吾、谷助九郎、長尾権五郎、津川平左衛門、氏家仁左衛門先祖附 ・久野次郎右衛門資料・尾藤閑吾、平塚孫四郎、平野嘉門、平野甚九郎、
平野角蔵、平井井平、廣瀬新、平野八十郎、東雲衛、平井勘右衛門、・平野九郎太郎、平野庄左衛門、尾藤金吾先祖附 ・道家重三郎、本庄源次、上林甚十郎、國友
儀兵衛、村井虎之允先祖附 ・河喜多烈藏、山田熊太、鬼塚鬼八、岡村駿甫、木下嘉納先祖附
⑨・沢村衛士先祖附(軍陣之作法少々聞書) ・財津源之進、平川弥丈先祖附(NHKファミリーヒストリー、財津和夫氏取材を受けるにあたって取得) ・
つづら文から(佐方家‐佐方信博氏私家版著コピー) ・松宮家史料 ・甲斐宗運関係資料(隈ノ庄落城覚書) ・
⑩ 以下進行形
⑪
先に「■購入したいけど・・・」を書いたところ史談会の数日前、N君が電話をしてきた。
「その本は何ですか?」と聞く。「隈本古城史」だといったら「持ってますから史談会の日に持ってきます」との事で、昨日の例会の折お借りした。
実は是非読みたいと思っていた阿蘇品保夫氏の論考「隈本古城ー出田・鹿子木・城氏」が、何に掲載されているのかが良くわからずにいたのだが、ようやく第一高校が創立100周年を記念して発行されたこの「隈本古城史」にあることを突き止めたからだ。
蔵書マニアのN君のことだからと蔵書しているのではないかと密かに考えていたのだが、有難いことであった。
次の例会迄借りることにしているから、まだ精読には至っていないのだが、大いなる余沢があった。
今は桜町にある「サクラマチ・クマモト」とお隣の「NTTビル」のあたりはかって熊本県庁舎があった。
旧県庁舎が太平洋戦争で被災し、ここに物資が不足している時代に、木造建築の県庁舎が建てられた。
昭和42年に現在地に新庁舎が建つまで約20年間、床がギスギスと音を立てる「下駄ばき庁舎」の感があった。
実はその庁舎があったあたりで、江戸中期の侍屋敷から石棺墳墓が見つかったという話を聞いて何となく知っていたが、その詳細を知らなかった。
それが、富田紘一先生の論考であり「考古学からみた茶臼山とその周辺」のなかに、「山崎古墳」として取り上げられていることを発見した。
花畑邸のすぐ目の前だから、いわゆる白川の大蛇行のその「こぶの中」である。
この地で作事でもしたのか、地盤面下5尺(1.5m)の所から、先史時代の石棺のふたの部分が姿をあらわし、当時の屋敷の主・高瀬文平は労を惜しまずこれを掘り起こしたという。
高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、御側取次組脇、用人等を勤む。
頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
ふたを取り上げると「いと美はしき朱の土に交わりて見ゆ」とある。たて8尺(2.4m)×横6尺(1.8m)の石棺の中には「仰偃して膝をもたげたる状の白骨あざやかにみえて頸玉にかけたるさまに・・(云々)」とあり、その「頸玉は長さ一寸(3㎝)ばかり、めぐり七分(2.1㎝)計の管玉十顆あり。その色五つは青く五つは黄ばみたり。又勾玉十顆あり。すべて青き色に白きに青を帯びたるも、黄ばみたるもあり。わたり六・七分、いささか大小あり、はじめ見たるとき此管玉と勾玉とを一つおきに緒を貫きて頸にかけたるさまなり。」と記録されている。
これが、木造建築の県庁舎時代の土木部の下あたりだったというから、よくここに通った私としては大いなる驚きである。
周辺にもこのようなお墓が存在していて、破壊されてしまったようだ。富田先生は熊本城城壁への転用は見られないようだと仰っている。
そんな遺物や遺骸の処置はどうなされたのだろうか?
千葉城や古城(第一高校内)には横穴古墳も多くみられる。茶臼山周辺に先史時代の豊かな生活が営まれていたことを考えると、大いに心豊かになる。
図書館浴という言葉は当然造語だが、これは出久根達郎氏の言葉である。
この場合の「浴」は「浸る」の意からきているのだろうが、まるでお風呂に入るが如く気持ちよく図書館の雰囲気に浸るということであろう。
そういう意味では、熊本史談会の例会や、種々の講演会などに出席した折にはは、そんな雰囲気に浸っている。
講演の内容そのものや、講師のお人柄や話しぶり、また質疑応答などを聞いていると、それぞれに楽しい。
3月の例会は、正会員よりも一般の入場者の方が多くて準備したレジュメが無くなりそうな状況にあったと聞く。
私が史談会をお預かりしていた8年間は苦痛の連続であったが、いま運営からはなれてみると、まさしく「講演浴」を楽しむという心境である。
これならまだまだ皆勤できると思っている。かってNHKの看板アナ鈴木健二氏が名物番組「クイズゼミナール」の冒頭、「知るは楽しみなりと申しますが・・」と仰っているが、まさにその通りで、大いに知ってこれをメイドの土産にしようと思う今日この頃である。
昨日は堤勝彦先生のー新資料で「菊池氏初代則隆の出自」を探るーという、少々私にとっては高尚で難しいお話であったが、多くの皆さんが熱心に耳を傾けて居られる熱意に引き込まれた感がある。
菊池氏については「土豪説」と「藤原氏後胤説」が両立していたが、今般の堤先生の古文書解析から、いわば合体説とでもいうべき御説の解説であった。歴史研究の有りようなどを思い知るお話であった。感謝。
天正8年(1580)生 正保3年( 1646)没-67歳
忠隆 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正11年(1583)生 元和元年(1615)切腹 ? 寛永19年(1642)没-60歳
興秋 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正14年(1586)生 寛永18年(1641)没-56歳
忠利 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元和元年(1615)生 正保2年(1645)没-31歳
立孝 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元和2年(1616)生 同7年松井興長養子 寛文6年(1666)没ー50歳
寄之 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元和3年(1617)生 延宝7年(1679)没-63歳
興孝 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
江戸證人22年
この略図の上三人兄弟は生母がガラシャである。
ガラシャには女子・長があり、これは興秋の姉に当たる。前野出雲守長重に嫁いだが、長重は文禄四年八月豊臣秀次事件に連座して切腹させられ寡婦となった。
又、忠利と立孝の間には、古保(長岡興長室)・多羅(稲葉一通室)が郡宗保女を生母とし、烏丸光賢簾中・萬は明智次左衛門女・小也々を生母としている。
末妹・萬は慶長3年(1598)生まれであり、立孝は元和元年(1615)生まれだから、17歳の年齢差がある。忠利とは29歳の年齢差がある。
立孝と興孝の生母は清田氏(幾知)、寄之の生母は真下氏である。それぞれが豊前生まれの新世代人と言うことになる。
さて今回はその立孝を取り上げる。
何歳の頃かよく判らないが幼名「坊」は、愛宕山福寿院の弟子となった。寛永5年(1628)3月東方立允と改名する。
7年には還俗して立孝と改め、同9年には父・三斎と共に八代に入城、翌10年には忠利より正式に30,000石を内分される。
11年12月には五條中納言爲適女・鶴を八代に迎え婚姻の運びとなった。(20歳)
寛永14年(1637-23歳)12月には天草島原乱の勃発、父・三斎の陣代として出陣する。その働きにより上使・松平伊豆守の賞詞をうける。
翌16年には三斎から、関ケ原合戦に使用した秏・指物などを受け継ぎ、また都合70,000石分知することを決定した。
このことは本藩には知らされていないとされる。八代領に対する本藩のいらだちが増したものと考えられる。
その後江戸へ下り、同年9月元服して中務大輔と称するとともに、將軍家光に謁見する。
寛永20年(1643)三斎の病の報を受け帰国するも翌年には再度江戸へ下る。正保2年(1645)閏5月、江戸にて卒去した。31歳の若さである。
これを追うように三斎が同年12月2日卒去した。83歳。
立孝の悲劇は三斎の悲劇でもあった。八代藩立藩の夢は消え失せたのである。
当時の本家藩主・光尚は、これを受けて三斎の想いを反故にしてしまった。立孝が今しばらく生きていたら、八代領は存続できたのではないかと考えるが如何であろうか。
遺族は追い立てられるように八代城を出ることを指示され、小川の茶屋へ移居する。家老長岡河内らの三斎遺言の実効を
求める動きがあるなか、八代城付衆の動きが監視され、離国組、本藩組、宇土支藩組と体制は崩壊していく。
嫡子・行孝(10歳)は翌正保3年7月末、宇土居住を命ぜられ、三斎の隠居料その他は収公された。父立孝の知行30,000石を以て宇土支藩の立藩が決定した。
そして光尚も、嗣子・六丸(綱利)に想いを馳せながら、慶安2年(1649)31歳で卒去した。細川家の苦難が続く。
皮肉なことに細川家の血脈は嫡流が綱利で途絶え、宜紀から新田藩系となり、齊茲に至って宇土支藩系となり現代に至っている。
溺愛してやまなかった立孝を祖とする血脈が、現在の細川家の血となっていることは不思議な因縁とさえいえる。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
日本書紀・歌謡にある景行天皇の歌だが、この歌は熊襲征伐の砌、日向で都を想い歌われたものだと伝わる。(思邦哥)
景行天皇の熊襲征伐は8年に及んだとされるが、九州各地にはいろいろな伝説が残る。
豊前細川家を勉強していると「京都(みやこ)郡」という名前が登場するが、これもこの地に景行天皇が行宮を置かれたことによる。
夕日と干潮が織りなす奇跡の絶景!! 熊本県宇土市「御輿来海岸」の美しい景色
ところで熊本では今の時期、カメラマンの胸を騒がせる有明海の砂紋が美しい。「神輿が来る(神輿来)」とかいて「おこしき」と読むが難解地名の一つかもしれない。
干満の差がはげしい有明海は、この海岸では特有の大波を打つように見事な干潟が出来る。これに夕陽が差すと見事な一幅の絵となる。
今の頃は駐車場は先を争って満杯となり、それでも見事な夕景を見ようとするためには相当な坂道を歩かなければならない。というのもこの条件がそろうのは年に10回程の事と言われる。今年は4月21日を最後とするらしい。
私は20年ほど前、「満ち潮の神輿来海岸」に行ったことがあるが・・・ただの海の風景であった。
一方福岡県境に近い荒尾市には「腹赤(はらか)」という地名が残る。腹の赤い魚を天皇に献上したことからとされる。
明治維新前まで、大宰府を通じて朝廷へ献上されたものらしい。
いろんな土地でそれぞれに伝説があるのだろう。記紀の世界が息づいている。
- 景行天皇12年 (ウィキペディアより引用)
- 景行天皇13年
- 5月、襲国平定
- 景行天皇17年
- 景行天皇18年
- 景行天皇19年
- 9年、帰国
熊本都市政策vol.7(熊本市都市政策研究所年報)最終更新日:2022年3月14日
都市政策研究所 都市政策研究所TEL:096-328-2784 FAX:096-326-8954
![]() 年報 熊本都市政策について
熊本市都市政策研究所では、調査研究論文をはじめ、情報収集・発信、人材育成に関する年間の活動等について整理した年報「熊本都市政策」を刊行しています。2022年2月に、2019~2020年度の活動報告等をまとめた「熊本都市政策vol.7」を刊行しました。ぜひご覧ください。 刊行に寄せて・目次
研究報告
講演記録
令和1-2(2019-2020)年度の研究活動記録
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宮城、福島地震のお見舞いを申し上げます。
3月11日には東日本大地震を想い手を合わせたところでしたが、又の地震の発生に驚かされました。
熊本の地では前震・本震と二度の地震を経験しましたが、再度の地震に備えて下さい。皆様のご安全をお祈り申し上げます。
これは全くの私の努力不足なのだが、綱利母子の奥州保呂羽山権現信仰に関する資料を見いだせないでいる。
我が家の二代目太左衛門(又市郎)が貞享元年(1684)九月に遠路奥州まで代参を勤めていた。
「貞享元年子九月十四日奥州岩井郡保呂羽山江御代参被仰付御上下御小袖被為拝領 御附人共ニ上下六人ニ而罷越十月十一日江戸白金御屋敷へ罷帰申候」と先祖附は記している。
この保呂羽(ほろは)山とは「保呂羽山権現」のことを指しており、保呂羽山山頂に在ったとされる。
現在は存在せず、また地元の記録も決して多くなく、詳細を伺うことはできない。
江戸から仙台まで約350㎞、仙台から保呂羽山迄80㎞ほどある。
こんなに遠い保呂羽山権現をどんな因縁があって綱利と生母・清高院は信仰したのだろうか。
我が家の二代目様は、都合往復840㎞ほどを25日ほどで歩き、代参の御役目を勤めあげた。
今般不思議な御縁で、仙台にお住いのT様から地元の種々の史料をお送りいただいた。
ここには細川綱利とその生母・清高院の深い信仰を表す資料が多くみられたるとともに、我が家の二代目の活動も記述されていた。
磐井郡保呂村保呂羽山権現由来書上申し候覚
一、保呂羽山開祖相知れ申さず候
一、垂跡(すいじゃく)の事、人皇二十八代安閑天皇の御時、紀伊国金峯山に蔵王権現と出現遊ばされ候。右安閑天皇の御変作の由申し伝え候。
元慶六年に当山へ御飛来、永治の初め羽州仙北へ御飛行の由、彼の地にも社所御座候。天正十年に再び当山へ御帰りの砌雉に御乗り、中尊は釈迦文仏、
左右は文殊、普賢に御座候。当別当先祖多宝院拝し奉り候より、御本地釈迦文仏と相知り申し候。
一、御本地釈迦文仏に御座候へ共、蔵王権現と称し奉り、釈迦文殊普賢三体皆金仏に御座候。閻浮壇金に御座候由申し伝え候、尤も霊仏に御座候。
作者相知申さず候。
一、中興は葛西御一家岩淵近江守殿御知行の節、再興の由山記に相見得申す通りに御座候。
一、御先祖様御参詣遊ばされ候儀御座なく候。
一、御社は御宮造三間四面萱葺に御座候。寛文五年保呂羽村にて杉松下しおかれ、御人足借し下され並びに東山中より奉加を以て、右の通り造立仕り候。
一、棟札紛失仕り候。
一、往古よりの縁起、寛永二年二月自火にて焼失仕り候。然る所貞享二年細川越中守様御代参のため入江又右衛門様と申す衆御下り候節、祖々父多宝院に
縁起相尋ね候間、焼失仕り候由申し上げ候へば、縁起の様子大体にも覚申し候通り、申し聞くべき由に付、先祖段々の覚書取り合せ申し上げ候処に、
書立江戸へ御持参成され候。多年多宝院江戸へ罷り登り候処へ、鉄牛和尚山記御仕立成され候由にて、相渡され候。右山記写別紙指し上げ申候。
一、何方よりも御寄進御ざなく候。細川越中守様万治三年より良覚院六供の内膳行院御代参、寛文四年迄五か年罷り下り候。同五年江戸浅草膳慶寺御代参
のため罷り下られ候。夫より壱か年置きに罷り下られ候。其れ以後は膳慶寺御弟子四五か年これ又壱か年置きに罷り下られ候。貞享元年には右申し上
候通り、越中守様御代参のためと真藤又市郎殿と申す衆御代参のために罷り下られ候。同弐年入江又右衛門と申す衆御代参の御下り罷り成り候。御自
筆の心経一巻御諱遊ばされ、ならびに金襴の御戸張献納遊ばされ候。其後は右多宝院祖父宝仙院代迄、毎年正月江戸へ罷り登り、越中守様御屋敷へ罷
り出で、御祈禱の御守札献上仕り候、貞享元年より越中守様金三拾両、御袋様より金弐拾両宛、毎年御献納遊ばされ候。
(以下略)
第22回「宮本武蔵 編」(3月19日放送)20:00~
日本の歴史に名を刻む偉人たちは果たして私たちがイメージする通リの人物だったのでしょうか?そんな彼らの偉大な功績や意外な素顔に迫り、その人物像を履歴書にまとめて、現代のビジネスや組織マネジメントにも通じる人生哲学を学びます。あの偉人が現代に生きていたら、どのような働き方をするのか?なんの仕事を任せるのが良いのか?想像が拡がります。
今回は、宮本武蔵。
◆◆加来先生の『偉人・こぼれ噺』◆◆
BS11公式YouTubeにて、毎週火曜日に配信中!
加来耕三先生への質問を大募集!
視聴者の皆様から寄せられた歴史にまつわる疑問・質問については、
「教えて!加来先生」のコーナーにて、加来先生がズバリお答えします!
少々馴染みがないというと、関係者にはお叱りを受けそうだが、細川家には宇土支藩とは別に、新田藩がある。
茂木藩も存在するがこれは、忠興の弟・興元自身が立藩したものだから支藩ではないと私は理解している。
さてこの新田藩、定府であったが幕末になると帰国が命ぜられ、玉名の高瀬に陣屋を築いたことから高瀬藩とも呼ぶ。
初代は、綱利の弟・利重が初代である。父は光尚、生母は綱利同様清高院である。
兄弟仲が良かったのであろう、綱利は利重に35,000石を内分し、江戸定詰となった。参勤交代がないから内証は結構であったろう。
内分したのが寛文6年(1666)の7月、帰国したのが慶応4年4月(陣屋完成7月29日)だから、ほぼ202年の江戸暮しであった。
これが家族ともども初めてのお国入りだから、3月4日江戸発、4月23日高瀬着の長道中は不安と疲れで大変な事であったろうと、想像に難くない。
7月末になると陣屋が着工されるが未完のまま、その年の内には新田藩は廃藩となり、家臣は本藩に帰属した。
細川新田藩の江戸藩邸は鉄砲洲にあった。佃島・石川島が目の前である。下屋敷は吾妻橋際に在った。こちらは現在のアサヒビール本社、あの金色に輝く不思議なオブジェを屋上に戴くあの建物がある場所である。
藩士には本国は肥後だという認識は希薄であったように思うが、どうだったのだろうか。
言葉も江戸言葉であったろうし、肥後入り後の一変した生活も大変であったろう。
しかし、藩主利永は明治3年9月になると東京居住を命ぜられる。その後の藩士の動向は判らないが、大方は東京へ向かったのではなかろうか。
高瀬藩につながる二家のご子孫と御縁があり、資料を差し上げたことがある。
高瀬藩の陣屋及び家臣団の住まいは、現在の玉名町小学校とその周辺である。
重賢公の小姓ででもあろうか、二人が次の間に控え話す中で儒者の秋山玉山・草野雲平に話が及び、「それは玉山が話したるか」「雲平が話しなるか」と話していると、重賢公がお聞きになり、「学者に対する禮を知らぬか」と仰せになった。
「~が」などと言うと言葉に角が立ち、聞き苦しい。玉山の、雲平のなどと言うべし」とお戒めになったという。
難しすぎてよく理解できない。
散歩の途中「梅もどき」の赤が目に入りシャッターを押しました。
熊本は過去4日20℃越え、今日も多分23~4℃にはなるのではないでしょうか。
朝散歩も汗びっしょりです。自衛隊前の桜も急激に蕾がほころび始め、一部は開花しています。
木々は芽吹き始め、花々がいろいろ美しく咲き始め、一週間ほど前は暖房を入れていたことを想うと噓のようです。
風をきってサイクリングといきたいところですが、傘寿の爺様のことですから体力と相談してからの事にしましょう。
三連休が良いお天気でありますよう。いよいよ21日には「まんぼう」も解除になる事でしょうから、良い春になることを願いましょう。
ここ数日急激に春めき早咲きの桜もちらほらと観うけられます。
熊本では九州で唯一蔓延防止等重点措置が延長となるその期間中ですが、
さて3月例会におきましては、熊本郷土史譚研究所・
お誘いあわせの上ご参会いただきますよう、御案内申し上げます。
熊本史談会会長・毛利秀士
記
期日:令和4年3月19日(土) 10時~11時45分 (入場9時50分)
場所:熊本市民会館 第6会議室
演題: 私論「菊池氏初代則隆の出自」
ー新資料で「菊池氏初代則隆出自」を探るー
講師: 熊本郷土史譚研究所・熊本横井小楠研究所所長 堤 克彦 氏
一般参加自由:
参加費 500円を(資料代を含む)申し受けます。
資料準備のため事前にご連絡をお願いします。電話( 090‐9494‐3190 眞藤)
尚、開会前に当会会合を催しますため、入場は9:
又、