新・肥後細川藩侍帳【ふ】の部
■二塚牧太は、(南東39-8)二塚三郎家の6代目、家紋は「丸に三つ持ち合い菱紋」
■深野九郎左衛門は、(南東39-18)深野才九郎家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「片喰紋」
■船瀬儀右衛門は、御船頭(南東58-15 船)舟瀬彦雄家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「剣片喰紋」
■深田玄随は、御医師(南東56-24 医)深田玄随家の3代目、名は當亮、玄随と称す。医を業とし、物産学に精し、禄百石。
目見医師となり、物産師を兼ぬ。嘗て諸国を歴遊し木内石亭に石類学を修め其奥を究む。種殖の学亦深し。
天保九年二月十一日没す。享年七十五。墓は中尾本妙寺中智運院。家紋は「深の字紋」
■古内八之允は、(南東39-22)古内圓次家の5代目、初代を尾崎藤市とするところから、尾崎家の分家か?
家紋は「丸に笹竜胆紋」
■藤井文四郎は、(南東39-28)藤井善九郎家の2代目、家紋は「丸に隅立て井桁紋」
新・肥後細川藩侍帳【こ】の部
■米田左兵衛は、【青龍寺以来】 (南東40-12)米田藤十郎家の5代目・勘十郎(左兵衛・作左衛門)。初代左兵衛は三卿家老米田家2代是政の弟是門(藤十郎)の嫡男貞之を初代とする。家紋は「隅立角紋」
■米田元太郎は、【青龍寺以来】 (南東40-11)米田甚左衛門の7代目、こちらは嫡家2代の弟・是門を初代とするが、同上左兵衛家の弟の家系である。家紋は同上
■郡 夷則は、(南東40-1)郡 夷則家の8代豊喜か、養子で実・沼田小兵衛弟である。
祖は細川藤孝(幽齋)の兄・三渕藤英で秋豪→藤利→藤正→(初代)夷則氏正と至る。細川藩・郡氏は初代の父藤正が
綱利に仕えてからの事らしい。家紋は「丸につなぎ二つ引紋」
■郡 仙蔵は、(南東40-22)郡 勘右衛門家の7代目である。上記郡家とは同族ではなく、將軍足利義昭・上野大和守秀政(堀孫八郎)
の養子・五左衛門を祖とする。細川家は大和守の讒言にくるしめられ関係は大変悪いが、五左衛門を召し出すにあたって
は姓を改めさせている。家紋は「三つ割剣花菱紋」、それに上野氏を表す「丸に上の字紋」
■郡浦万作は、「細川家家臣略歴」に名前が見当たらなく、人物の特定が出来ない。
■後藤元兵衛は、後藤又兵衛・基次の子・又一郎を祖とする、(南東40-8)後藤又蔵家の8代目である。家紋は「入れ子桝紋」
■後藤善大夫は、(南東40-9)後藤善左衛門家の5代・門吉(善大夫)か、家紋は「左三つ巴紋」
■後藤十兵衛は、(南東40-10)後藤半之允家の5代・内蔵八(十兵衛)、家紋は「隅立角に四つ星紋」
■木庭傳右衛門は、(南東40-31)木庭徳之丞家の3代目、菊池一族であり、家紋は「丸に違い鷹の羽」
■木造源右衛門は、伊勢国司・北畠具晴三男、従五位下・木造城主兵庫頭具政を祖とする、(南東40-19)木造(こつくり)誠之允家の
8代目か、家紋は「 」
■是常武五郎は、(南東40-20)是常三之允家の6代目、家紋は「丸に毬挟み紋」