津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寺本家の家紋

2022-10-25 09:24:13 | 家紋

 今朝取り上げた■御侍帳・家紋から考える(49)にある寺本家の家紋が面白い。

      
 こちらは寺本亀蔵家の家紋だが、家紋帳で類似の者はないかと色々調べているがとんと判らない。
何となく竹の子模様に見えるなと思って色々ググっていたら、「抱筍紋輪島うるし箸」のサイトに行き着いた。
「抱筍紋」を一膳の箸二本にデザインしてあるという凝ったものだが、何となく似ている。
いずれにしろ「替り筍紋」ではないかと思っているが如何であろうか。寺本亀蔵家のご子孫に教えていただく外ない。

      
 こちらは寺本八左衛門家の家紋、■御侍帳・家紋から考える(49)には記されていないが、随分以前、熊本史談会で会員諸氏の家紋を調べた折、
ご子孫から提示されたものである。
よくよく観察すると「本」の字が5個並んでいるのが判る。デザインが羽織などに映えるから、この紋をお使いだと聞いた。
「五つ寄せ本文字紋」とでもいうのだろうか。

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■御侍帳・家紋から考える(49)

2022-10-25 08:01:14 | 家紋

                         

          新・肥後細川藩侍帳「て」の部

寺尾志馬は、(南東42-13)寺尾求馬家の7代目・岩多(志馬)。家紋は「二重中太丸紋」
寺尾左助は、(南東42-14)寺尾弁治家の6代目・萬八(左助・藤兵衛)。  家紋同上

寺生寿右衛門は、(南東42-21)寺生嘉久次家の5代目。家紋は「隅切り平角に三木紋」

寺内角左衛門は、(南東42-18)寺内平格家の6代目・熊五郎(角左衛門)。家紋は「鉄炮角に沢潟紋」

寺本八左衛門は、(南東42-11)寺本多目家。八左衛門名乗りの人物が多く特定不可能。家紋は「隅切り立角に本文字紋」「丸に本文字紋」
寺本亀蔵は、(南東42-12)寺本 轍(ワダチ)家の5代目。家紋は「   」「丸に本文字紋」

寺川太郎作は、(南東42-17)寺川太郎作家の7代目。家紋は「七宝に一つ星紋」「隅切り立角に五つ星紋」

手嶋惣右衛門は、(南東42-15)手嶋源八家。何代目か不明。家紋は「丸に毬挟み紋」  

寺嶋宇吉は、(南東42-24)手嶋遊川家の4代目。家紋は「蛇の目紋」

手嶋金次は、(南東42-25)手嶋楯十郎家の4代目。「剣  紋」

          新・肥後細川藩侍帳「あ」の部

有吉主膳は、三卿家老・有吉家の嫡家、【青龍寺以来】 橘氏 代々御家老 壱万八千五百石(南東44-1)有吉興太郎家の14代、規矩次(養子・12代立芭嫡子 主膳・立直)。家紋は「隅立四つ目紋」   
有吉清助は、嫡家5代英貴の分流・(南東44-3)有吉清助家の5代目・央(清助)。家紋は「隅立四つ結紋」

有吉市左衛門は、英貴妹・富田与兵衛重冬室の子=市郎兵衛を祖とする(南東44-2)有吉市左衛門家の6代目益之助・時陳(市左衛門)である。家紋は「隅立四つ結紋」「丸に松紋」  
有吉七兵衛は市左衛門家の分家、(南東44-18)有吉七兵衛家の4代・辰三郎(七兵衛)か。家紋は「隅立四つ結紋」「丸に松紋」

浅野五助は、(南東43-4)浅野栄太郎家の6代・寿吉(後・五助)。「額紋」「  」

浅香清大夫は、(南東44-19)浅香一郎家の5代目・清大夫(後・彦四郎)。家紋は「左巴紋」

浅香忠兵衛は、(南東44-23)浅香市太郎家の7代目・淳助(後・忠兵衛)。家紋は「巴文字紋」

浅山才次は、(南東44-25)浅山平右衛門家の8代目。家紋は「垂れ角に菱紋」「垂れ角に一引き紋」

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■強烈な肩痛です・・

2022-10-24 08:56:00 | 徒然

 昨日、椅子の肘乗せに左手の肘を置き、少々分厚い本を抱えて読んでいましたら、突然左手全体に痛みが走りました。
現在左手先まで若干のいたみと痺れが有り、日ごろは感じない拍動を感じています。キーボードをたたくのにも苦労しています。
病院に行っても温熱治療が施されるばかりで、一向効き目がありません。もう数ヶ月こんな感じですから、死ぬまでの付き合いになるのでしょう。
心配なのは、長い文章のタイピングが難しくなりそうな事です。手首を温めようとサポーターをはめたりしています。
少しでも楽になればと思い、磁気ネックレスとか、ブレスレットとかつけてみようかと考える傘寿爺様です。

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■10月26日、天草島原の乱勃発

2022-10-23 07:38:45 | 歴史

 島原の乱の勃発については、将棋を指していた三卿家老・米田監物是季が、島原の方向に大炮の音を聞きつけて変事に気づいたと語られている。
かって私が、熊本城二の丸にあった米田邸の絵図を手に入れ、これを基にして現在城下模型ができ、熊本城内に展示してある。
御城や花畑邸以外はほとんど侍屋敷の平面図がない中、唯一米田邸だけは往時の有りようを見ることが出来るのは、資料提供者として誇りに思う。
どの部屋で将棋を指していたのだろうと考えるのも面白い。

              熊本城調査研究センター提供

 八代に於いても、中路宗悦という老人が同様の音を聞きつけたと記録されている。
米田監物を慮ってか、これは間違いだとか、伝写の誤りだとかする一書も存在するとされる。こういう大事さえ、上司を慮らねばならぬとは、いささか筋違いであろう。

 
 十月廿六日嶋原城ヲ攻候節之大筒之音を中路宗悦初而聞付、此音ハ常ならす、隣国ニ城攻有之なるへし、何も武具之用意せよ、誰々ニも知せよなと申候を、老耄の所為か何事を申候哉とて、聢(しかと)取合者もなく大方ニあしらひける処ニ、八代之商船嶋原ニ参居候か、廿七日之晩急き致帰帆、一揆之様子申候、それより追々委細之儀相聞江、其時ニ宗悦老功之程をいつれも致感心候

 『一色義有誅伐の砌義有家老日置主殿逃出候を中路市之允討留候』(綿考輯録・巻九)
この中路市之允が後の宗悦である。
丹後以来【周防 初・市之允・次郎左衛門 後・宗悦】 馬廻組二番組 二百石(於豊前小倉御侍帳)とある。島原の乱に於いては、八代に於いて留守居を勤めた。

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■御侍帳・家紋から考える(48)

2022-10-22 06:09:26 | 家紋

       

         新・肥後細川藩侍帳【こ】の部       

■近藤英助は、(南東40-28)近藤謙之進家の5代目、近藤淡泉 名は昌明、字は子中、通称英助、淡泉と号す。藩に仕へ禄七百石、初め医員となり。
       後寛政十二年時習館訓導となり、数年にして郡代に転じ、更に府学時習館に入り天保十二年教授職に任ぜられ、六教授の一人たり。
       三代に仕へて服職六十年、恪勤精励終始一の如し。嘉永五年九月十三日没す。年七十九。春日萬日山に葬る。
       家紋は「組み合わせ角に上文字紋」

■古原武左衛門は、(南東40-24)古原信次郎家、同名人物が多く特定が不可能である。家紋は「   」

■古閑儀助は、(南東40-33)古賀作十郎家の3代目。家紋は「亀甲に三つ柏紋」

■小泉丈助は、(南東64-26 *)小泉奥助家2代目、尉助。家紋は「   」

■後藤源左衛門は、(南東40-34)後藤惣左衛門家の5代目。家紋は「   」

■駒井軍馬は、(南東64-24 *)駒井軍馬家の8代目。家紋は「隅切り立角に三つ星」

         新・肥後細川藩侍帳【え】の部

■江藤又左衛門は、(南東60-12 一代御中小姓)江藤 武家の6代目・辰次郎(又左衛門)。家紋は「五つ環に剣片喰」

■恵良卯八郎は、(南東42-9)恵良発太家の6代目・卯八郎(長助)。家紋は「亀甲に三つ雁」

■江良丹七は、「細川家家臣略歴」には名前が見えないが、次のような記事がある。
       天明九年十二月:江良丹七儀、親半内数代下益城杉嶋村江居住仕居申候処、丹七儀今度跡目被仰付候付、熊本江引出相勤
       申筈候江共、半内儀寸志差上御知行被下置候付、丹七儀父半内代ニ奉願候通、無年限在宅被御免置候様有之度、組頭より
       半切添書を以達付而之事  (熊本市史資料編第三編p254在宅願頭書)家紋は「   」

■江嶋伝四郎は、(南東42-5)江嶋 傳家の7代目・貞松(傳四郎)。家紋は「隅切り立角に浜洲」
■江嶋伴之允は、(南東42-7)江嶋 備家の5代目。        家紋は同上。

■江村悰珉は、御医師 (南東56-26 医)江村悰益家の6代目。家紋は「木瓜に  」「三つ石」   
■江村柳渓は、御医者 (南東56-27 医)江村萬春家の5代目。「三つ石」

■遠藤見寿は、(南東64-32 *)遠藤快珉家の4代目。家紋は「下り藤紋」

         新・肥後細川藩侍帳【て】の部
■寺崎俊都は、御医師(南東57-25 医)寺嶋宗澤家の4代目。家紋については表示なし、不明。

■寺本順次は、(南東42-23)寺本 登家の5代目、沖津弥五右衛門景一ノ後妻ノ連子・四郎右衛門の二男を祖とする。
       家紋は「卍紋」

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■秋は夕暮れ・・・

2022-10-21 18:10:09 | 徒然

         

             秋は夕暮れ。
             夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行く とて、
             三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。
 
「雁などつらねたる」さまは、熊本では見ることはできないが、「日入りはてて、・・・虫の音など」は聞こえてこよう。
もう十月も下旬、あと十日足らずで11月かと思うと、本当に年老いての一年の早さに驚かされる。
今日は「オリオン座流星群」が見えるようだ。
鷹羽狩行の句に  流星の使ひきれざる空の丈  があるが、そんな流星を見てみたい。寝る前に外に出てみようかと思っている。

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■明日だというのに・・

2022-10-21 10:09:44 | 熊本史談会

 以前熊本史談会で「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺の控」をお話した折、八代の「遥拝堰」「山鹿の間歩」に関連して、「萩原堤」の資料を準備した。
これは宝暦5年6月、萩原堤が大決壊して、これを稲津弥右衛門という人物が7日で復旧完成したという、少々眉唾な話が残るが、これが熊本県の道徳教育の教本になっていて、これを採用した。
実は明日の例会で、短い時間だがこの話をしてくれという、運営委員会からの要望があって準備をしていた。
いろいろ資料を読んでいくうちに、7日という話は何処から出てきたのかという疑問が当然のように出てきた。
弥右衛門は自ら、難工事が予想されるこの工事に自ら手を上げて責任者となった。
藩主から正式に任命されたのは10月に入っての事である。まずは資金の調達から始めている。
翌6年4月に入り、松井家の墓所春光寺の裏山だろうか、ここを土取場として工事が始まったようだ。
そして資料はその完成が宝暦7年の3月だとしている。

   「どういうこつかい・・」

 工事の責任者に任命されてから、15か月後の事である。7日とはどこから出てきたのか、出典が皆目わからない。
上辺13m、下辺45m、高さ9m、長さ1㌔、26万㎥に及ぶ大工事である。
しばし爺様は考えた、上辺13m×長さ1,000mの堤上の部分に覆石が当然為されただろう。13,000㎡の覆石を7日間でやろうとすると、約5,000人の直接工と石を運び上げる人夫が必要だがやれぬ事はなかろう。これだとしか思い至らない。
土木の専門家に聞きたいと思うが、明日を前にしての17時30分すぎではどうにもならない。
せいぜい資料をもう少し読み込んで明日に備えようと思っている。

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■横井小楠の書

2022-10-21 07:05:05 | オークション

          ◆巻物『 横井小楠 消息 書状 』古文書 熊本藩士 幕末時代 中国唐物唐本

     

 横井平四郎の号「小楠」は楠木正成の「大楠公」に由来すると言われるが、どうやらこの書はこれを伺わせる内容のようだ。
雄渾な字が躍る様にあって、小楠の気分の高揚が見て取れるような感じがにじみ出ている。
熊本に在ってほしい書である。

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■御侍帳・家紋から考える(47)

2022-10-20 12:41:22 | 家紋

                                 

             肥後細川藩侍帳】の部

■小堀市平は、(南東40-7)小堀沿助家の6代目で郡代を勤めた。家紋は「   」
       当家を含め五家は小堀長左衛門を祖とする一族である。
■小堀平右衛門は、小堀流踏水術の(南東40-29)小堀清左衛門家3代目。茶道小堀家四代・長順からの分家である。

       名は濶看、通称平右衛門。藩に仕へ禄百五十石、兵法師範となり、特に居合長刀の師役たり。 
■小堀次郎助は、(南東40-18)小堀十蔵家の7代目である。
■小堀晋順は、茶道小堀家の6代目である。
■小堀九万次は、(南東40-27)小堀市助家の5代目である。

■小田原(こだわら)九郎左衛門は、(南東40-4)小田原武兵衛家の7代目・源之助(養子・九郎左衛門)で用人を勤めた。家紋は「三つ星紋」

■小畠伝之丞は、(南東40-16)小畠冨之助家、同名の人が多く人物の特定が出来ない。
       遠祖・小畠越前守は丹波の宍人城 (ししうど城 船井郡園部町宍人 )を築城したとされる人であると思われる。
       家紋は「   」「三つ柊巴」

■小崎加十は、(南東40-15)小崎太郎左衛門家の7代目・唯之允(嘉十・加十)。家紋は「左三つ巴紋」  
■小崎平八は、(南東40-13)小崎杢之助家の5代目。家紋は「丸に武田菱」「隅切り立角に左三つ巴紋」  
■小崎八之丞は、(南東40-14)小崎眞左衛門家の5代目である。家紋は「子持ち平角に左巴紋」

■小嶋伊左衛門は、(南東40-5)小嶋健太家の4代目・伊左衛門高満(養子 初・門次郎)。家紋は「五つ環に左巴紋」

■小林左七左衛門は、(南東40-3)小林平三家の7代目・鶴喜(茂八郎・半大夫・左七左衛門)か。
       「御知行被召上候 天保六年七月跡目断絶被仰付 高七百五十石」と記録が残る。家紋は「隅切り平角に蔦紋」
■小林勘太郎は、(南東40-23)小林貞之助家の7代目。家紋は「隅入り立角に蔦紋」
■小林半右衛門は、(南東40-6)小林十右衛門家の6代・7代が同名で人物の特定が出来ない。家紋は「隅立平角に六つ丁子紋」「蔦紋」

■小林伝之允は、細川家家臣略歴に名前が見受けられない。名前の誤植か・

■児玉十郎大夫は、(南東40-26)児玉太郎左衛門家の8代目・澄八(十郎大夫・太郎左衛門・次郎太郎)。家紋は「中陰唐団扇 」
■児玉円次は、(南東40-17)児玉安平太家の6代目・圓次。家紋は「隅切り立角に丸」「丸に唐団扇」

■合志角右衛門は、(南東16-23 か)合志弾蔵家の5代目・要助(角右衛門)。「   」ご教示を乞う。

■近藤角左衛門は、(南東40-32)近藤一太家の5代目。家紋は「角紋」?

 

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■合志氏の家紋

2022-10-20 06:51:50 | 家紋

 次回の「御侍帳・家紋から考える」(47)で取り上げる家紋にまことに不思議な家紋があった。
合志市の由来ともなった、合志氏である。合志氏の出自の程は三説あって真偽のほどはしかとしないが、熊本の古い氏として有名である。
細川家家臣・合志氏もまたその子孫であることは間違いなかろう。
      
       すみたてよつめ 隅立て四つ目  十二日足車紋 | 家紋の和市場                                
                    四つ目結紋 十二日足紋            
「肥後讀史総覧」に紹介ある合志氏の家紋である。

        
こちらは、「御侍帳‐家紋入り」にある合志角右衛門の家紋である。誠に不思議な家紋で当然初見で、その名前が判らないのもまた当然である。
もし御存知の方がおられたらご教示賜りたい。
「凹」の字をひっくり返したような(一辺足らないが)中に、「三つ目」らしきものが入っている。
上記「四つ目結」に関連しているように感じられるが如何だろうか。現物は7.5㎜角程の大きさで、スキャンして拡大した。
これは合志家の方でなければ分からないのかもしれない。

 

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■「酒縁歳時記」という捨てがたい本

2022-10-19 14:05:18 | 書籍・読書

              限りなき酒縁の旅や雪あかり  柳女(佐々木久子)

 終活の本の処分はまだ続いている。今日は朝から10数冊を紙袋に入れて、ごみ処分した。
捨てようと決心したものは即処分したが、さてどうしようかと迷う本が出てくる。
最期に目を通してからにしようと、読み直して処分したり、又本棚に戻したり、作業はかえって遅々と進まない。
そんな中、久しぶりに目にしたのが、佐々木久子著の「酒縁歳時記」だ。これも読み直していると、捨てがたい、随分草臥れているが本棚に戻した。
                     

 昭和52年の初版本だが、よくぞこんな本を購入したものだと思う。あとがきまで含めて250頁余、中身はすべて「お酒」の話である。
かって「酒」という雑誌がり、佐々木氏はその編集長だった。
佐々木氏は各地の蔵元や杜氏を訪ね、その地の水や食べ物、魚や野菜に触れ、文人や著名人・スポーツ界・芸能界の人たちとお酒を通じての交流の巾広さに驚かされる。
その「酒」という雑誌をどこで読んだのか、面白い雑誌だと思っていたところこの著の発刊を知り購入したように思うから、40歳前くらいの頃だ。
そのころは、本当によく飲んでいた。まだ焼酎が今の様にはなく、ウイスキーが主流だったが、家ではよくお酒を飲んだ。
酒器を楽しんだり、お酒の銘柄を替えたりして楽しんだものだが、最後は軽い感じのお酒をグラスで楽しんだりした。
「上善如水」等は軽すぎて一晩で720mlを飲み上げたりしていた。
熊本は一昨日の雨あたりから、涼気が寒気に変っていく。お酒を楽しむには良い季節になった。
久しぶりに燗をつけて飲むのもよいな~と思ったりしている。近所のマーケットに物色に出かけることにしよう。

 

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■銀台遺事をよむ「萩原堤修復工事」-3

2022-10-19 06:46:38 | 歴史

   

                                        事 何条得せぬ事の候べき哉と云 実は此男ハ詞(言葉)に恥ましき
           ものなり迚其よし君に告奉りけれハ則頼勝にまかせ(任じ)たまふ
           (承りて)凡男女十五以上 土を運び石を持(負)ん者には皆銭をとら
           すべしと郡中に(申)觸れ其強弱を三品に分つ たとへハ
             男上に百五銅  中に八十四銅  下に七十銅
             女上に八十四銅  中に七十銅  下に五十六銅
           如斯の定にて日毎に与へけれハ我も/\ときをひ集し偖
           しも男女数万人なり 頼勝遠慮を廻しし水際より三四
           十丈此方に元の廣さ二十餘丈いただき 四丈五尺程の堤を
           築たり かくてハいかなる大雨にも水溢ずして川添の里人も
              いね
           夜安く寝思ふまゝに農業をいとなみけり 此堤を築
           とて頼勝昼夜馳廻り下知をなし かの門を過ていらずと
           云る様なりけれハ 民も悦ひ勇て頓てうたを造り 口々
           に諷ひながらに土を運ふ 爰に伊形庄助名ハ質 字は
           大素迚高名の詩人有 是を聞て詩経の雅頌に入て世に 
           梓行せしかば爰に洩らしつ、またざれうたにとりはやしたる
           物ありたる記に
             何れの歳にかありけん卯月皐月の雨久しく降續萩原
             堤崩にければ松江の城岡の里みな淵瀬も有ず成に
             けり 家を流し身を流したる人いくらばかり共知れず右へ

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■鼎談「村重は卑怯者だったのか!?」

2022-10-18 09:29:21 | 講演会

伊丹ミュージアム・リニューアル・オープン記念 信長と戦った武将、荒木村重展
2022年11月19日(土)〜12月25日(日)
https://itami-im.jp/exhibitions/リニューアル・オープン記念%E3%80%80信長と戦った武将/
市立伊丹ミュージアム[伊丹ミュージアム運営共同事業体 / 伊丹市]

■鼎談「村重は卑怯者だったのか!?」

●登壇者:
     千田嘉博(城郭考古学者)
     米澤穂信(小説家)
     北川央(九度山・真田ミュージアム名誉館長 / ファシリテーター)

●日時:11月18日(金)13時半~15時
●会場:アイフォニックホール メインホール(伊丹市宮ノ前1-3-30)
●参加料:2,000円(展覧会観覧券付き / 参加者に限り当日も展覧会をご観覧いただけます)
●定員:250名(先着順 / 要申込)

申込について
●10月28日(金)10時より受付開始(申込ページは10月28日(土)10時に公開。公開までは「エラー」と表示されます)
●こちら(兵庫県電子申請共同運営システムe-ひょうご)にアクセスの上、お申し込みください(お電話での申込はできません)。

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■肥後人と流刑

2022-10-18 07:10:53 | オークション

                                                                                           

    

  ヤフーオークションに長崎奉行所の文書「流刑者」が出ている。11葉に及ぶ者だそうだが、右のぺ ーじに「肥後打越村大工 藤兵衛 三十七歳」とある。
「押し込み強盗をして二人に傷を負わせ、金八両と衣類などを強奪した」とある。

最期のページには「肥後越木村 甚五郎 四十五歳」とあり、「小作の田畑を地主から取り上げられ祭りの夜言いがかりをつけ絞め殺した」とある。もっとも甚五郎は牢死したものと思われる。

 不思議に思うのは、なぜ長崎奉行所なのか、なぜ流刑なのかという疑問である。長崎まで逃げて捕まえられたのだろうか。肥後に送り返されることはないのだろうか。
そして、どこへ流される予定だったのが記されていない。又、長崎奉行の土井斉入なる人物の事がよく判らない。
鎌田浩氏の著「肥後藩の庶民事件録-日本近代自由刑の誕生」を読んでみなければならない。

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■御侍帳・家紋から考える(46)

2022-10-17 13:03:53 | 家紋

         
            肥後細川藩侍帳の部

■二塚牧太は、(南東39-8)二塚三郎家の6代目、家紋は「丸に三つ持ち合い菱紋」

■深野九郎左衛門は、(南東39-18)深野才九郎家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「片喰紋」

■船瀬儀右衛門は、御船頭(南東58-15 船)舟瀬彦雄家、同名の人物が数名あり人物特定が出来ない。家紋は「剣片喰紋」         

■深田玄随は、御医師(南東56-24 医)深田玄随家の3代目、名は當亮、玄随と称す。医を業とし、物産学に精し、禄百石。
       目見医師となり、物産師を兼ぬ。嘗て諸国を歴遊し木内石亭に石類学を修め其奥を究む。種殖の学亦深し。
       天保九年二月十一日没す。享年七十五。墓は中尾本妙寺中智運院。家紋は「深の字紋」

■古内八之允は、(南東39-22)古内圓次家の5代目、初代を尾崎藤市とするところから、尾崎家の分家か?
       家紋は「丸に笹竜胆紋」  

■藤井文四郎は、(南東39-28)藤井善九郎家の2代目、家紋は「丸に隅立て井桁紋」

            肥後細川藩侍帳の部

■米田左兵衛は、【青龍寺以来】 (南東40-12)米田藤十郎家の5代目・勘十郎(左兵衛・作左衛門)。初代左兵衛は三卿家老米田家2代是政の弟是門(藤十郎)の嫡男貞之を初代とする。家紋は「隅立角紋」
■米田元太郎は、
【青龍寺以来】 (南東40-11)米田甚左衛門の7代目、こちらは嫡家2代の弟・是門を初代とするが、同上左兵衛家の弟の家系である。家紋は同上

■郡 夷則は、(南東40-1)郡 夷則家の8代豊喜か、養子で実・沼田小兵衛弟である。
      祖は細川藤孝(幽齋)の兄・三渕藤英で秋豪→藤利→藤正→(初代)夷則氏正と至る。細川藩・郡氏は初代の父藤正が
      綱利に仕えてからの事らしい。家紋は「丸につなぎ二つ引紋」
  
■郡 仙蔵は、(南東40-22)郡 勘右衛門家の7代目である。上記郡家とは同族ではなく、將軍足利義昭・上野大和守秀政(堀孫八郎)
      の養子・五左衛門を祖とする。細川家は大和守の讒言にくるしめられ関係は大変悪いが、五左衛門を召し出すにあたって
      は姓を改めさせている。家紋は「三つ割剣花菱紋」、それに上野氏を表す「丸に上の字紋」  

■郡浦万作は、「細川家家臣略歴」に名前が見当たらなく、人物の特定が出来ない。

■後藤元兵衛は、後藤又兵衛・基次の子・又一郎を祖とする、(南東40-8)後藤又蔵家の8代目である。家紋は「入れ子桝紋」  

■後藤善大夫は、(南東40-9)後藤善左衛門家の5代・門吉(善大夫)か、家紋は「左三つ巴紋」

■後藤十兵衛は、(南東40-10)後藤半之允家の5代・内蔵八(十兵衛)、家紋は「隅立角に四つ星紋」

■木庭傳右衛門は、(南東40-31)木庭徳之丞家の3代目、菊池一族であり、家紋は「丸に違い鷹の羽」  

■木造源右衛門は、伊勢国司・北畠具晴三男、従五位下・木造城主兵庫頭具政を祖とする、(南東40-19)木造(こつくり)誠之允家の
       8代目か、家紋は「   」  

■是常武五郎は、(南東40-20)是常三之允家の6代目、家紋は「丸に毬挟み紋」

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