津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■参勤のお伴、選ばれた人々

2024-02-07 06:40:18 | 人物

 光尚公は御若くして亡くなられたこともあり、藩主としての7年の間、参勤の回数も5回とそう多くない。

一、同年(寛永十八年=1641)五月五日光尚公御遺領相続 同六日御拝礼 同十一日御暇被仰出
  同十九日江戸御発駕 六月十四日熊本御着
一、同年九月廿九日熊本御発駕 十月廿六日江府御着 十一月朔日御拝礼
一、同十九年五月朔日御暇被仰出 此時上位ニ今年茂滞府勤仕いたし度可有之候得共 去年国許不作
  百姓困窮之聞有之ニ付御暇賜也 帰国ありて政務可為専要之旨上使御演述之 同十四日江府御発
  駕 六月十二日熊本御着
一、寛永二十年三月十九日熊本御発駕 四月十七日江府御着
一、正保元年 寛永二十一年改元 四月廿四日御暇被仰出 五月三日江府御発駕 同廿七日熊本御着
一、同(正保)二年二月十二日熊本御発駕 三月十二日江戸御着 同十五日御拝礼
一、同三年四月十八日御暇被仰出 六月十三日江戸御発駕 七月十一日熊本御着
一、同四年三月十三日熊本御発駕 四月四日江戸御着
一、慶安元年 正保五年改元 二月御暇被仰出 同十四日江戸御発駕 三月三日熊本御着
一、同二年三月三日熊本御発駕 同廿五日江府御着 四月朔日御拝礼
一、同年(慶安二年=1649)十二月廿六日御逝去

ちょうどその中間期正保2年には2月12日に発駕しているが、そのわずか5日前に参勤のお伴の連中が正式に奉行所から仰せ出されている。
この年は2,720人(知行取149人、同下々1,266人、切米取1,305人)もの大行列であったが、以下の人たちは寛永20年も同じく上下したとあるから、よほどの光尚お気に入りの人々であろう。

    去年・當年續テ御供ニ被召連候衆
        小笠原備前守  ガラシャに殉死した小笠原少斎の嫡男・長光、6,000石・家老
        林外記     用人大目付光尚死後佐藤伝三郎により殺害さる
        有吉雅楽    有吉分家(英貴姉の子)重時
        平野九郎右衛門 父と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し置き。
                忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増。
                島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。小姓頭
        田中左兵衛   柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を初代とする田中家の二代目。
                元和七年、中小姓・光尚付 寛永八年新知百五十石、島原陣後加増五百石(幻の一番乗り)

                同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石、肥後藩初の城代職 
                後加増二千石、都合四千五百石 延宝四年正月致仕
        藤崎作左衛門  2代目喜八郎か、千石(真源院様御代御侍免撫帳)
        高見権右衛門  肥後入国時、御側弓鉄炮頭并組外衆、阿部一族誅伐に当り裏手門よりの討手被仰付、
                後加増三百石、御使番衆 八百弐拾壱石四斗 (真源院様御代御侍名附)

        堀平左衛門   元和中忠利に仕、光尚付 寛永十年九月知行三百石 島原陣後加増弐百石、都合七百石 奉行役 
                慶安四年三月二十六日殉死(肥後藩・主要系図による・以下同)

        竹内七郎右衛門 原城にて武功之面々御褒美被下候(肥後様衆) 寛永十五年九月朔日
                清田石見組 三十挺(頭) 六百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
        岡田甚五左衛門 御右筆衆・頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        明石玄碩    医師、林外記の岳父。
        永野慶巴    医師
        不破十丞    御使番衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        冨澤権佐    百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        東條新左衛門  二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        大塚甚左衛門  御留守居衆・田中左兵衛与 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
        山中又兵衛   二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
                阿部一族誅伐事件にあたり阿部隣家であった又兵衛は「御意」を守り「出合不申」おれば
               「人口悪敷聞へ候間、又兵衛是非に不及次第と存候而御暇願申候処、光直君聞召(中略)
                山中か御意を守りしハ其筈の事也とて御留メ被遊候、又兵衛是をふかく有かたく奉存候に
                付、御追腹仕候となり。 (綿考輯録・巻六十)
        柏原新右衛門  御側物頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附) 使番頭、小姓頭等を勤め、後城代となり
                家老職に進む。食禄三千五百石。

        宗像少右衛門  三百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        足見(垂水)惣兵衛  御側物頭衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
        高村安丞    二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        山形半介    御側物頭鮎右・歩之御小姓頭 二百石
        稲生七郎兵衛  二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        益田孫太夫   御小姓組 三百石 
        永井安太夫   奉行所ヨリ触衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)
        坂井七郎右衛門 切米人数 二十三石 (於豊前小倉御侍帳)
        吉田加右衛門  三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        松崎勘兵衛   御台所衆 百石 (真源院様御代御侍名附)
        大槻勘丞    (不詳)勘十郎か? 御台所衆 七十五石 (肥後御入国宿割帳)
  右之衆跡扶持被遣衆ニ而御座候 以上
    正保二年
       二月七日 御印
                 奉行中

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■再度「手討達之扣」・(1)

2024-02-06 06:59:50 | 史料

ちょうど十年ほど前に■手討達之扣・目次をご紹介しているが、随分多くの手討事件があったことが理解できよう。
その事件一つ一つについては余りにも生々しく関係するお宅のことを思うと簡単にご紹介することは控えてきた。
今回、その内容を吟味しながらご紹介していこうと思いいたった。
「手討達之扣」とは、手討をした者、または関係者から提出されて書面の「控」であるが、その内容について■手討達之扣・緒言
目次の前に紹介されている。

届けられた事件が、すべてが正当な行為として認められたものではないことは当然で、行き過ぎた行為については其れなりの処分が
あったことを、申し添えておく。

目次を追って順次ご紹介する。ただし過去にご紹介したものは、その旨を表示することとする。

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1、宝暦六年 星野庄右衛門手討
   上田新兵衛組星野庄右衛門儀在宅ゟ致出府途中楠木丁ニ而御駕子之者難差通子細有
   之討果申候 依之其節之趣委細書付を以今日奉行所江相達申候 尤庄右衛門儀在宅仕居申
   候段申達置候処先刻御奉行所ゟ紙面ニ而庄右衛門儀在宅ニ不及候条沙汰候様二と申来ニ付
   庄右衛門へ及沙汰御請相済候由申■候事
      閏六月廿ニ日

2、同十一年三月 米田太次郎手討
   津田平助組米田又左衛門育之浪人米田太次郎一昨夜平原村百姓加右衛門と申者難差通
   有之討放申候 依之其節之趣委細書付を以昨日御奉行所江相達申候 太次郎・又左衛門儀在宿
   仕居候段をも相達置候処先刻御奉行所より紙面ニ而又左衛門・太次郎在宿仕慎居候ニ不及旨
   申来候事
      三月廿九日

3、宝暦十二年  鎌田小平太手討 十三歳
   (この事件に関する記事は
二度の手討ち事件でご紹介した。二度目の事件では切腹させられている)

4、明和元年十月 永井弥五郎妻手討
   志水三次兵衛組永井弥五郎妻召仕候下女難差通儀二付十月四日之暁致手討候段弥五郎覚書
   達有之候

5、明和三年二月 米良左源次手討
   小笠原斎組米良勘兵衛弟米良左源次儀二月十日用事有之下益城郡岩下村江罷越井芹儀
   三太宅江立寄申候処三太門前出小屋前二而何方之者とも不相知致慮外候ニ付不届之様子申聞
   候得とも不致承■悪口いたし其上可致手向程之躰ニ相見え至極難差通有之候故討放申候
   右之者鬢躰衣類之様子小者風情と相見申候得とも脇差を帯袈沙取を懸居申候由ニ而
   右之趣勘兵衛他委託ゟ出府いたし翌十一日相達申候ニ付勘兵衛・左源太共ニ在宅ニ而慎居候様
   二と申聞置尚又得斗承繕同十一日御奉行所江罷出其段相達置候處勘兵衛・左源次共に
   在宿慎居候ニ不及旨即夜御奉行所ゟ申来候事

  (なおこの事件については風説秘話・9(米良左源次)に於いても触れられている)  

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■猫登場

2024-02-05 14:26:53 | 徒然

 今年の大河ドラマは内容をほとんど知らないから、一年を通して欠かさず見ることになりそうだ。
併せて「源氏物語」も読んでいる。
4日の放送後の予告編に「猫」がちらりと登場していた。ということはそろそろ一条天皇の登場となるのだろう。
命婦の御許という名前の付いた猫の存在など、一条天皇は大変猫好きであったというから、猫好きの人は気になることだろう。
好演しているお笑い芸人のロバート秋山の藤原実資の、あまりにも黒い顔に笑ってしまうが、劇中の発言にもあるようにストレートにものをいう人らしく、彼の著「小右記」では、天皇の猫好きに対して呆れ果てた発言が記されているらしい。
最近大変興味あるのがこの「小右記」だ。
最近雨の日が多く出かけるのが億劫で図書館にも今年になって出かけていないが、この本をかりて読んでみようと思っている。
随分長生きした人らしいから、このドラマに於いても長く黒い顔が見れそうだ。
余りにも現代風なしゃべりが気にかかるが、こちらは一年我慢しなければならない。

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■三斎隠居領を立允に譲る

2024-02-05 06:44:33 | 歴史

 寛永十六年二月五日、三齋君御隠居之御家督を立孝主江御譲被成候
    予ての御名依存ニ御存生之内御譲置せらるへきとて、吉日を被撰、今日八代本丸でいの間にて、
    御父子様御着座、一番に朽葉之御指物佐方与左衛門持出、是ハ大坂之役に御差被成、弐番ニ御
    旄を志方半兵衛持出候、是ハ信長公より御拝領度々無越度目出度とて御譲、御樽肴・熨斗・銀
    五百枚長岡河内披露仕候、此御座敷にて御囃子被仰付御家中御侍不残御酒被下、御肴之熨斗を
    頂戴、扨御旄被遣候時之御意ニ、休無ニ遣しても不苦ものなれ共牢人にて不入もの也、越中ハ
    大名也、其方ニ譲ると被仰候

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  佐方与左衛門  田辺城籠城衆、三刀屋一族にして佐方庄左衛門弟也、今度の働二付而、忠興君に被召出、御知行弐百石被下候、
                             大阪陳之時鑓を合、組討の高名有、為御褒美、御加増五百石被下、其後三百石被下、都合千石ニ被仰付候、中
                             務殿江被成御附、宇土にて病死   (綿考輯録・巻五)
  志方半兵衛       (大阪御陳)手ニ合候者、七月朔日御饗応、御褒美被下候 知行三百石 歩ニてしこを負、半弓を持て甲首一ッ討
                             取、其外ニ一ッ討取を人奪取候由也 (綿考輯録・巻十九)                                          
              三斎君ニ御奉公御知行被下置面々(中津)五百石後千石ニ成ル、御家老被仰付候、御逝去已後は光尚君ニ被召返             
                                                                                                  (綿考輯録-巻二十一)                                    
  長岡河内(村上縫殿介景則) 備中笠岡城主村上景広(豊前にて10,000石)の子、景広死去後、中津で三斎に仕え10,000石。
          三斎の八代入城後も家老として近侍、死去後は三斎の遺言に沿うべく行動するも、光尚の受け入れるところ
          とならず離国した。
  休無(細川忠隆)   細川忠興(三齋)嫡男なれど廃嫡され京都住。

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■風説秘記・3

2024-02-04 07:07:19 | 歴史

一佐藤直継咄に南郷久木野に大四郎とて社ニ大人を祀れり長一丈餘にして棒を持首を提ける形也 大宮司惟香の
 説に古へ草部吉見神の子に草二郎・草三郎・草四郎とて三人あり 此草四郎をして久木野を治めしめ■れし事様あり
 て其後里民の祀りしならん 身の長高き故大四郎とは云■と云ハれし 此兄弟の子孫今もあり草次郎の子孫は
 草部氏ニて今の阿蘇の社家也 阿蘇の社家兼ては皆今村といへとも権大宮司に任すれば草部を名乗也 三郎
 の孫は田上氏ニて南郷草部の社人也 四郎の孫は芹口の一黨也 又寛政十二年ゟ十七八年以前南郷高森街道を雨水ニ而
 打崩けるに石棺出たり 其内ニ有骨膝の長さ壱尺五寸餘也 是吉見神を葬し所ならんと老人等怪ミ思ひ直ニ其地に
 埋め若神霊あらハ此松栄しめたまへと一株の小松を植けるか諸木ゟ勝れて今ハ一抱斗になりて其後道も六七間
 脇によせて垣様結けるとそ

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 1、記述からするとこの神社は久木野神社だと思われるが、由緒などには上記のことが表われない。
    大四郎伝説は残っていないのだろうか。これはちょっと調べる必要がありそうだ。
 1、ありきたりのように思える「芹口」姓の発祥の地であることは、以前■熊本発祥、由来の姓で書いた。
 1、私の友人に高森出身の田上氏がいたが、草部一族ということを知った。
 1、どなたか情報があればご教示を給わりたい。

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■史料いろいろ「赤穂義士切腹の日」

2024-02-04 07:06:49 | 歴史

 今日は立春、そして赤穂義士の切腹に日でもある。細川家には「御預人記録」が残されており、かって御預人記録から二月四日のことでご紹介した。
また切腹の場の模様については「義士十七人於肥後侯亭割腹検使之圖」でご紹介した。
又、赤穂義士切腹之図(一)及び赤穂義士切腹之図(二)もご紹介している。
毎年のことながら、今日の日を迎えるとこのことに触れずにはいられない。改めて御一覧いただきたい。

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■東北東微東

2024-02-03 08:24:43 | 徒然

 節季分れの今日は、豆をまいたり、恵方巻を食べたりとお忙しくなさるお宅も多いことであろう。
今年の恵方は「東北東微東」なのだそうである。
東北東より「微かに東」というのが曲者だが、私は起き掛けに東向きの私の部屋からその方向を眺めて手を合わせた。
恵方詣りとは参らぬのでこれにて一件落着としてお許しいただきたい。
豆まきは室町時代、一方恵方詣りは11世紀初頭までさかのぼるとのことだが、私はとんと知らなかった。
恵方巻に至っては熊本に於いては近年のことではないのか?
いささか商業ベースに乗った感もあるが、こういった日本の風習が後々まで続いていくことは結構なことだ。
明日は立春、春とは名のみでしばらくは寒さが続きそうだが、能登地方には一日も早い春の訪れを願うばかりである。

      

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■風説秘記・2

2024-02-03 07:02:36 | ご挨拶

一同年(文化元年)七月阿高村ニ在宅し居る廣瀬安之允妻手討之事
 安之允出府の留守に兼々出入する隣村の百姓鳥目のかゝり有けるか来りて盆前故右之銭遣候様二云 妻云けるは今日
 ハ安之允出府し其上一銭も無れハ暫待呉候へと断けれと一切不聞様二及悪口何分差置ぬ次第なればそれとなく
 座を立次の間二有脇差を取て脇二引付彼者か不知様二て本の座に来りしに猶ニ悪口募る故左様ニ慮外の事
 申ならハ覚悟致候得と云しかハ覚悟とは何事ぞときせるを取既に手向すへき勢也 廣瀬妻爰ニては斬損することもあ
 らんと思ひ妹を呼何となく用事云付ける内彼者少之気■二て烟草を吸付候処を抜討に斬る 首を斬られなからあつと云て
 立上んとするを同所に斬付たり されとも女の手二てニ太刀共ニ浅かりしけれハ立上り向ひ来るを足を拂はゞ倒れんと思ひ
 右之足を斬けれハ其侭倒なから猶這懸んとするを左の手首を打落し又右の指を打落しけれハ其時打■せしを
 直ニ留を刺ぬ 扨早速熊本ニ人を立安之允ニ知せ近所在宅人ニも告知せけれハ各馳行中本庄角太も近隣故行けるに顔
 色も平日のことく段々の次第太刀筋等を語るに前後審にして泰然たる躰也 安之允儀致出府居候間私儀女の事
 二付気付不申儀も可有御座候 万端被附御心被下得と挨拶せしと其節安之允頭境野加十郎此手打討の次第を聞
 大ニ悦ひ安之允ニ紙面を贈て云 古へ阿蘇家の臣何某の妻夫の留守に薩摩勢を防て敵を討取甲斐/\敷働
 有しとなん其後は如妻女事更ニ不承及と大ニ称誉しける

   (尚、本庄角太とはニ天一流を収めて著名な柴任三左衛門(2代目・本庄(柴住)角兵衛の弟)を輩出したお宅の8代目である。)

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     ■ 廣瀬 新 (東南53-28) 【代々御中小姓】
    1、杢之助  
       原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
            (1)御小姓組 三百五十石  
            (2)御買物奉行衆 五百五十石 (真源院様御代御侍名附)
            (3)五百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・杢
            (4)沢村宇右衛門組 御物奉行 五百五十石・・杢介
    2、安右衛門(養子 実・益田弥一右衛門甥-岡本伝十郎)
       岡本伝十郎  有馬之役武功被賞--寛永十五年九月朔日
                 白銀十枚単物帷子三 益田(本丸一番乗)と一度ニ乗込火之手揚る
                                            (綿考輯録・巻四十九)

              沢村宇右衛門組 五人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
    3、五郎兵衛   御側物頭衆 御鉄炮十五挺 三百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    4、梶之助
    5、五郎兵衛
    6、杢之允
    7、一(安之允・杢之助)
    8、保  組附御中小姓・横山藤左衛門組 五人扶持十石
    9、牛之助(新)  五人扶持

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■「南洲翁遺訓」と庄内藩

2024-02-02 18:08:38 | 徒然

 2月の史談会では「南洲翁(西郷隆盛)遺訓」についてお話をお聞きする。
私は岩波文庫の「西郷南洲遺訓」を持っているが、その由来については「書後の辭」の頭書に次のようにある。
  明治三年荘内公の公子酒井忠篤・忠實を初め、藩士管實秀・三矢藤太郎・石川靜正等數十人來つて薩に寓し、廔々翁に就いて教を乞う。
  已に歸り、其聞く所を纂めて一書となし、之を同志に頒ちしに起る。明治二十三年三矢藤太郎之を荘内に印行し、「南洲翁遺訓」と題す。

 私には、荘内の人たちには会津に対する後ろめたさはないのかという思いがある。
そして会津の人たちには今でも長州(山口県人)に対する怨念めいた心情が生きている。
「長州と仲よくしよう」を公約にして、選挙に立ったひとはあえなく落選した。
100年先でも握手はしないという過激な話もある。
会津人は戦争で徹底的に抹殺され、その後斗南とという未開地に放り込まれ辛酸をなめた。
 一方荘内藩は、金で藩の安泰を買った。西郷に恩義を感じて酒井忠篤をはじめとし、管實秀らが西郷の許を訪ね感激し、その結果としてこの「南洲翁遺訓」が世に出た。私たちはその内容には感服している。
荘内藩士2名が薩摩に派遣され世児どんたちと行動を共にして、つまるところ西南戦争に参加して戦死している。
しかし、管は庄内藩士の薩摩軍参加をとどめて居る。会津の人たちは怨念をはらさんばかりに多くの人たちが官軍に身を投じて、そして多くに人が死んでいった。
この差は一体何なのだろうかという、浅学の身ゆえのはがゆい思いが募っている。
例えば、私が敬愛する作家・藤沢周平は生粋の荘内人だが、西郷に関する積極的な発言を聞いたことがない。
藤沢には会津に対する後ろめたさが見えるように思う。荘内藩の運命は「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と歌われる日本一の商人と呼ばれる本間家の掌(たなごころ)の上でもてあそばされている。
藩主・酒井家が移封すれば、莫大な損害が生じるからだとされる。本間家と藩、そして新政府の利害が一致して75万両の金が新政府の懐に入ったという。(半分ほどは返還されとも聞く)
「南洲翁遺訓」が語る言葉は西郷の正義であろうが、たとえば西南戦争について、西郷の遺訓は答えを出してくれるのだろうか?

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■風説秘記・1

2024-02-02 07:14:34 | ご挨拶

    名門沢村一族の酒失

一文化元年五月沢村半兵衛養弟玉名の青野村ニ居り舅か許ニ居たりしか伊倉の酒屋に行酒飲候上ニて如何なる子細にや
 酒店の賣子と喧嘩し討捨るとて刀を抜しを賣子棒を以て打落し散々に打擲し刀をもぎ取たりける間誤證文を
 書て漸く刀を乞受帰りけるに其分ニては差置難しとて其夜近隣の者十人計程賣子を打捨ニ行けるに賣子早是
 を聞付迯失したり それ故夜中二は吟味も出来間敷明日見出し討捨んと一旦帰りけるに賣子は其跡ニて妻子と別盃なと
 して路銭用意し出奔しけり 沢村は翌朝又至りて所々吟味すれとも可見出様なく其旨達しけり 夫より一類様聞付手を
 分尋けれ共終ニ不知此節 上ゟ一類共江たとへ見出すとも討捨へからす搦捕可被差出との事也

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   沢村孫七郎 【丹後以来】 (沢村大学嫡流二代宇右衛門・三男家)  (南東46-6)
     大学
     宇右衛門
    1、孫大夫  人持衆并組外衆 小兵衛組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    2、孫大夫・友秀、友貞(初・二九之助)
    3、二九之助
    4、孫大夫(養子)
    5、松喜(半兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・この人の養弟
    6、孫七
    7、孫平
    8、孫七郎

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■風説秘記、再登場

2024-02-01 09:00:27 | ご挨拶

上妻博之先生の沢山の書写資料「上妻文庫」の中の一つである「風説秘話(記)」、過去にも下記の如く取り上げているが、改めて眺めているうちにすべてをご紹介してみようかと思いいたった。
62頁に及ぶのだが、ほかにも数々の面白い記事がある。
読み下しをしながらだから終了はいつになるかは保障の限りではない。

実は今回改めて資料を眺めていたら、表紙には「風説秘話」ではなく「風説秘記」とあることに気づいた。
「風説秘話・・1」が2010年1月24日のことだから、14年間「思い込み」のまま、間違いに気づくことなくここまで来た。
論語学而編に曰く「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とある。風説秘記」として、下記以外の記事を取り上げる。



  風説秘話 ・・ 1
  風説秘話 ・・ 2
  風説秘話 ・・ 3 (蓑田左五右衛門兄弟の事-1)
  風説秘話 ・・ 4 (蓑田左五右衛門兄弟の事-2)
  風説秘話 ・・ 5   (沖津九郎兵衛 vs 米田家)
  風説秘話 ・・ 6   (酔躰の無礼)
  風説秘話 ・・ 7
  風説秘話 ・・ 8
  風説秘話 ・・ 9 (米良左源次)
  「風説秘話」から お上人と願人坊主
  「風説秘話」から 鑓と釣竿
  鎌田氏もう一つの手討ち事件
  ■足利将軍の御血筋が・・・
  ■清正公の遺産・瀬田井樋修復
  ■「風説秘話」から、不破杢助殺害事件とその顛末

 

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■自転車節?

2024-02-01 07:05:57 | オークション

                                       

 何気なくヤフオクで古絵葉書を眺めていたらこんなものが出品されていた。
上にある写真は阿蘇山だろうと、文章を眺めていると上部にはこれは印刷で「雨あられふる バッテンが じんべんに 阿蘇の煙の キャア 消えんタイ」とある。
元々印刷されているものか、誰かが書き込んだものかは判断しがたいが、何やら熊本の民謡らしきものが書かれている。
写真左の印刷による歌詞はよくわからないが、右下の文章(歌詞)は「會たかばってん會れんたい」とある。
なんだか聞いたような歌詞だなと考えていたら、ご厚誼いただいているサイト「徒然なか話」で紹介されていた「自転車節」ではないかと思って確認したところ、間違いなかった。
             熊本自転車節がバズった日

Youtubeの方も併せて拝見、それにしても不思議な絵葉書にお目にかかった。

コメント (2)
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