津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■手討達之扣ー(6)郡 仙蔵手討

2024-02-14 07:05:52 | 史料

14、安永九年四月廿三日 郡 仙蔵手討

   尾藤助次郎組郡仙蔵儀育之浪人郡伴蔵ヲ廿三日之夕討果申候ニ付仙蔵儀先ツ在宿仕居候様
   助次郎ゟ被申聞置右之趣即夕當番之御奉行大里角次江仙蔵ゟ之書付被相達候由翌廿四日
   助次郎方ゟ被申趣之書付左之通
        口上之覚
   私育之浪人郡伴蔵町屋ニ罷越無法之強儀義振舞等仕又は取り賣躰之取斗仕脇ゝ拂物等取
   次キ中途ニ而其品ヲかすめ私之取斗仕或は無筋銭■等拵へ人ニ難題ヲ懸ケ不埒之取斗仕候風聞仕候
   處吟味仕追々脇々ゟ承届其紛無御座候 ■等之内ニは別而筋悪敷仕方等届来候方も御座候 浪人之
   身分とハ乍申侍ニ不似不埒之次第ニ御座候 兼々不取□(扌に乄=締)ニ御座候処毎度申聞置候慎方并禁酒等
   相やぶり不届之至ニ御座候 此節迄ニ限リ不申連々不正之取斗ニ相聞常々家内武品諸道具等盗
   出し賣拂申候ニ付重畳異見勘當仕年を重ね申候ハゝ少し了簡も付キ改メ可申かと等々申し
   免のため在郷江遣し置又ハ久敷在宅江も召置候得而も無心元折々呼出し引□申候得共不取□り慎
   不申候様子ニ付一向外出不仕候様申聞近年は少シハ見直シ候様子ニ御座候処ケ様うかと仕居申候間難
   成稽古事等出精仕可申由師匠方ゟ出精候ハゝかたををも付為ニ成様取斗可申候由近所同心之方ゟ度々
   傳言仕遣候間神社ニかけ出精仕心得ニ而日参仕或は燈明を灯或は宮籠り仕候抔と申罷越申候ニ付少
   しハ改メ申候かと願之通外出仕せ候處右之通神社参詣等仕尤らしく見へ申候處此節重畳之吟味
   仕候得hが稽古ニは罷越不申不宜方ニ罷越不行跡成ル儀迄ニ而禁酒をやぶり過酒仕候而は不法之儀
   を申毎度あばれがましく強気成仕方も仕又ハ他の銀銭共取出し猥不宜向ニ而遣■或ハ人々之物等
   借頓而賣拂一向句々ニは仕向不申候 私ニ仕数々不埒之次第ニ御座候 母兄弟申分一事として相用不申し
   不存なる儀の己何ほど異見勘當も誠に千万百度之事ニ歩座候 私共ゟ申聞様々紛偽而己申物を恐レ
   不申何程申候而も右之通と續門外へ踏出し申候得は勝手次第之振廻仕候様子私共手二及申さず此節も
   早速大小取上ケ慎居申候様申付承繕申候處少シも恐不申罷出申候抔と申懸ケ右之者共片はし切捨
   申抔とおらび申候ニ付今夕厳敷異見仕候処承知仕却而手迎ニおよび可申様子ニ相見へ候ニ付難差
   通討果申候 被仰達可上下候 以上
      四月廿三日     郡 仙蔵
       郡仙蔵儀在宿ニ不及段四月廿五日御奉行所ゟ申来候事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■ 郡 勘右衛門  (南東40-22)
     上野大和守・秀政(養子 将軍義昭臣・堀孫八郎)
    1、五左衛門
    2、勘八   (1)馬廻組六番 二百石 (於豊前小倉御侍帳) 
           (2)御馬廻衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
           (3)御小姓組衆 二百石
           (4)御馬廻衆十二番・遠坂越後守組 二百石
    3、勘右衛門  有吉頼母允組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
              御詰衆・十一番西山八郎右衛門組 二百石 浅之進事 (御侍帳・元禄五年比カ)
    4、勘右衛門
    5、兵蔵・行直 (1)三百石 御使番御番方四番 屋敷・山崎
              (2)御小姓頭 三百石
    6、勘右衛門(次兵衛) 高橋御町支配順 三百石
    7、仙蔵      三百石
    8、喜八郎(勘右衛門) 御鉄炮三拾挺副頭・陳平太左衛門副頭 長岡組 二百五十石
    9、勘太郎(仙蔵)    御番方九番・中村進士組 二百石
    10、喜八郎(勘右衛門)  二百五十石
      

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■忠興、淀川べりに利休を見送る

2024-02-13 11:24:00 | 歴史

 天正十九年(1591)二月十三日羽柴与一郎(羽与=細川忠興)は秀吉に蟄居を命じられ舟で堺に下る利休を、古田織部と共に淀川べりにて見送っている。  
               
          千利休絶筆.jpg
      二月十四日付のそのことを謝す松井佐渡(康之)宛書状 財団法人松井文庫所蔵

                   態々御飛脚過
                   分至極候 冨左殿
                   柘左殿御両所為
                   御使 堺迄可罷
                   下之旨
                   御諚候条 俄昨
                   夜罷下候 仍淀 
                   迄羽与様 古織様       
                   御送候て舟本ニて
                   見付申驚存候
                   忝由頼存候 恐惶謹言 

                    二月十四日 宗易(花押)
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    〆      利休
                   松佐様      宗易
                     回答

 利休七哲の一人と称された忠興の、この行動は大変称賛されているが、まさに真実利休を師と仰いだ忠興の真骨頂と言える。時に忠興29歳。
熊本に伝わる茶道・肥後古流は、利休の茶道の形を保持したまま現在に伝えられている。
熊本の誇りであり、10余年その茶道のお稽古を続けたことは私の財産となっている。
二月廿八日、利休は切腹した。

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■手討達之扣ー(5)

2024-02-13 07:20:58 | ご挨拶

13、安永八年正月廿五日 松本傳蔵手討

  堀丹右衛門組松本傳蔵儀町屋之者不届之儀有之昨日手討御日柄之儀心附ながら難差通様
  子ニ付不止事打果申候由依之傳蔵儀如何程ニ相心得可仕申哉之段覚書相達候ニ付先相慎居候様
  申達置猶又始末之委細承届別紙書付相添昨夕御用番江相伺候處近日可被申達被申聞候事
    正月廿五日         堀 丹右衛門

     
  熊本中唐人町砥石屋善次郎借家ニ居申候薩摩屋伊右衛門と申者ニ而呉服物等商ニ買仕今日
  私宅江参商賣之儀二付私方へ茂無之候處不埒之筋を申出難差通有之候得とも御征(祥)月御日柄
  儀之ニも御座候故再應罷帰り候様申聞候得とも承引不仕色々悪口仕難差通無余儀打放申候
  御日柄ニも御座候ニ付私儀如何程ニ相心得可申哉此段可然様奉願候 以上
    三(正)月廿五日      松本傳蔵

     
  別紙を以御達申上候私手討仕候訳は去夏之比私方江暫召仕候下女私方江相勤居申候内右
  伊右衛門ゟ帷子を調申候由私方ゟ暇を出し申候後も右銭相拂不申由ニ而伊右衛門旧冬も度
  たび私宅江共罷越相拂候様申候ニ付右帷子賣買いたし候ハゝ其方相對之事ニ候へは手前ゟ相拂
  申筋無之右下女江申通請取候ニ而可有之存候段申聞候得共右帷子賣申候も御家を見懸ケ賣
  渡申候間御屋敷ゟ御渡被成候様申候 然共私方ゟ相拂可申様も無之其段申聞候得は旧冬其分ニ
  引取申候 然處今日罷越居銭相渡候様二と断たん声高二申候ニ付私臺所江罷出直ニ承り候処
  前条之通申聞候ハゝ難差通御座候得共御征(祥)月御日柄之儀二も心付声強くハ不申聞又明日
  二も罷越候様申聞候得は弥以承引不比目色を替へ私居申候和気に腰ヲ懸申候ニ付不届成ル躰ニ有之
  下ニ退申候様申聞候処却而氣色を替へ私江手向可仕様子ニ見申候ニ付肩を打申候得は弥申募り如
  何被成筋ニ而打申候哉私事も承り桶屋も仕候 私一類は堀様江も刀を差御奉公相勤申候 惣躰御侍
  之振合私は存居申候 私は御士衆へ頭を下ケ手を■申候儀は無之御座如何ル訳ニ而御打被成候哉右訳を
  不承候而は帰り不申と申て中〃退キ申躰無御座候ニ付御日柄之儀氣付ながら不得止事討放申候
  右之次第御座候 以上
    正月廿五日         松本傳蔵
      熊谷市郎右衛門殿
      吉田傳右衛門殿

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■ 松本甚次郎  (南東38-14)
     次郎右衛門
     茂兵衛
    1、甚九郎
    2、甚十郎   三百五十石 御取次役
    3、傳蔵
    4、丹有(甚十郎)  御鉄炮拾挺頭・薮組 三百五十石
    5、甚助    旧知三百五十石
    6、次郎八(甚十郎)  御目付 三百五十石
    7、鶴彦(傳十郎)
    8、次人(甚次郎)   三百五十石

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■足利道鑑の嫡男・尾池傳右衛門の肥後における屋敷

2024-02-13 07:20:20 | 地図散歩

    近々■我が家検索リスト、再・「山崎」-1をご紹介すべく準備をしている。
そんな中、紺屋今町(日本銀国南側)に尾池伝右衛門の屋敷があることに気づいた。

先に■足利道鑑の子・相場彌左衛門、正保弐年二月十一日病死仕を書いた際ご紹介したが、13代足利将軍・義輝の子が道鑑(義辰)、
その嫡子が西山伝右衛門至之(左京)であり、尾池伝右衛門その人である。

今まで、かなり地図帳を眺めてきたつもりだが、今回一人ひとりの名前をチェックしたことから発見できた。
場所は日本銀行の南ブロックのやや三角形の場所だが、町名は紺屋今町である。
当時は白川に面し、大きく広がる対岸の景色は素晴らしかったと思われる。
伝右衛門はのちに、父道鑑や弟・勘十郎と共に京に上っているが、このようなところで肥後での生活をしていた。

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■二月十二日、第九代藩主齊樹公逝去。

2024-02-12 10:31:57 | 歴史

                                                           

 齊樹(ナリタツ)公は先代・齊茲公のニ男である。齊茲公が宇土藩主(立禮)から宗家を天明7年(1787)9月19日相続した後、江戸白金邸で寛政元年(1789)正月13日に生まれている。
立禮公が本家を相続後、宇土支藩は嫡男で兄の立之が四歳で相続した。
齊樹の相続は文化7年(1810)11月10日、結婚は享和2年(1802)4月6日お相手は一橋中納言治済女紀姫、治済の嫡男・が徳川宗家を相続した家齊でありそれゆえ義兄弟である。
文政9年(1826)2月12日死去、39歳という若さであった。
跡は兄立之嫡男・宇土藩主立政が相続した。

 

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■手討達之扣ー(4)

2024-02-12 06:53:01 | 歴史

12、安永七年十二月 奥村八内手討
    小田原九郎左衛門組奥村久左衛門伯父奥村八内儀久左衛門知行所上益城木倉手永南上野村
    罷越候処百姓源右衛門・源次郎と申者難差通儀有之候ニ付右両人共ニ去ル廿三日討放申候段昨廿
    四日之夕久左衛門より相達候覚書一通并始末之書付一通右始末之様子昨夕にてハ慎不相分候ニ付
    昨夕は御奉行所御用請持大里角次迄及内達置今朝右始末相分候間八内儀は先ツ在宿いた
    し候様申聞置右書付御用番迄相達候事

    十二月
      口上之覚
    私育之伯父奥村八内儀上益城木倉手永南上野村知行所江罷越申候処右南上野村百姓源
    右衛門・源次郎両人之者共難差通過言いたし候ニ付今日御達申上候通源右衛門と申者昨朝手
    討仕候 両人之儀二候末源次郎儀手疵を負せ其場を迯去申候處同日八ツ時比同郡口村出八勢
    打留申候 今日源左衛門手討仕候儀御達申上置ニ私儀は南上野村江罷越申候處於途中八内二
    行逢申候ニ付直ニ出府所江罷帰申候 此段御達被成可被下候 以上
      十二月廿四日      奥村久左衛門
         中路勘太夫殿
         八木十太夫殿

      口上覚
    私伯父奥村八内手討仕候間南上野村江罷越申候処途中ニ而八内江行逢同道仕出府所江罷帰リ
    手討之始末承申候處右上野村江八内先在宅之家居賣拂申度為内談右両人之者共呼寄申候
    處両人之者とも如何躰之用事ニ而呼寄申候哉相尋申候故右家居賣拂呉候様為内談呼申候
    段申聞候得は其元家居之世話請合不申埒無事候被申間敷と致返答候故不届之申分と私咎メ申候
    得は又々両人共より申候は右上野村ゟも追立候■又々色々と申候ハゝ熊本居住も不相成様に
    可致抔と散々致悪口候ニ付不得止事両人共打果申候段八内ゟ申聞候 右之通御座候 以上    
      十二月廿四日      奥村久左衛門
         中路勘太夫殿
         八木十太夫殿

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■ 奥村久蔵  (南東15-22)
    1、久左衛門  (1)沢村宇右衛門組 五人扶持廿石 (寛文四年六月・御侍帳)
             (2)江戸・上方・長崎(衆) 四百石・外二高百石之役料被下候 (御侍帳・元禄五年比カ)
                   奥村久左衛門知行
    2、藤七・定寛  百五十石 御番方十番組・御小姓組五番
    3、久左衛門        細川綱利公御書出(貞享二年)
    4、久左衛門
    5、次郎助(次郎右衛門) 寛文三年~延宝二年  奉行
    6、藤七(次郎助)
    7、熊五郎(久左衛門・次郎右衛門) 顕光院様(斎護室)御附 百五十石
    8、鉄之助(久蔵)   百五十石

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■足利道鑑の子・相場彌左衛門、正保弐年二月十一日病死仕

2024-02-11 07:54:02 | 人物

 「手討達之扣‐(3)」をご紹介した中で、伴儀兵衛が所属した組頭が「西山大衛」とあった。
西山家のご先祖は足利将軍13代義輝の足利道鑑(義辰)だが、道鑑とその息・左京と勘十郎が細川家の客分となり、勘十郎の息・八郎兵衛
が細川家に仕えて、これが西山家の初代である。
時折何気なく「細川家臣略歴」に目を通すのだが、先の「手討達之扣」を書く中でページをめくってみたら、西山大衛家(南東8‐1)の項に
相場彌左衛門正保弐年二月十一日病死仕」朱書きの書き込みをしていた。
その死亡の日がまさしく今日の日付で驚いてしまった。

2009:8:27相場彌左衛門という人という記事を書いたことを思い出した。
これは、私にとっては少々自慢できる発見で、ある方からお褒めをいただいたものである。
「真源院様御代御侍免撫帳」『熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記」p399』「有馬ニ而牢人衆城乗之刻働之様子」(熊本縣史料・近世編
三p170)を総合してまとめたものだった。
彌左衛門の息左太郎と弟辰之助以降の消息は知れないが、道鑑にこのような子・孫が存在したことを知ることができて、2009年の記事にも書
いているが、「文書漁りもこんな事があるから止められない。」のである。

 12代      13代   足利道鑑   伝右衛門・左京    
 足利義晴---+--義輝-----義辰---+--至之---+--重辰
      |  14代         |    |
      +--義昭        |    +--之氏---氏清---+--氏一---景備
                 |              |
                 |              +--氏政---氏景
                 | 勘十郎  初代
                 +--義茂---八郎兵衛・・・・・・・・→(細川家家臣・西山氏)
                 |
                 +--義次
                 | 藤左衛門
                 +--之直---次之
                
                 +---相場彌左衛門---+--左太郎 (以降不明)
                              +--辰之助 (以降不明)

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■小倉戦争余話「落書上達」ー3・了

2024-02-11 06:49:34 | 史料

 惣師一統ヲナダメ半地押ニ隠居、其以下夫々ノ財科ニ處セラレ、御物頭以下ハ屹ト御賞美被仰付、滞陳中分外ノ義ニタヅサワリ、御預ケ
 被置組方ヲ残シ置、早打ニテ御國ニ来リ、平四郎ト相談ナド、不都合ノ者ハ其罪惣師ニ可准ス、平四郎ヲ早ク死罪二行レ、餘黨ハ罪ノ軽
 重モ可有之、賞罰分明ノ上ニテ各罪ヲ可受間、決テ死ニ入程ノ事ハ無之、タトエ死罪二被仰付トモ、惣師ゟ順々二可被仰付モノナラズハ
 安心ノ場ニ至ルヘシ、依テ趣意嘆願書認メ、差出可申候、理非分明二申内、庄屋差出、乱炮ニハ不居ト聞及候間、御引モ道理カト云、社
 人静ニ受ケ、不知ヲ不知トセヨ、汝ハ平四ガ肥へ取カト云時二、當村百姓ノ帳口ト見エ、狂歌云フタ〃〃〃ト進出テ    
     マルゴシノ、ヌケタガムリカ、庄屋ドン、ケンモツテサエ、二ケタモヲモノ

 初テ一座笑ノコエ有リ、時二神主、無用ノ長居返テ妨ケルナル、只今迠ノ咄ハ此地二流シ、願書ハ差上可然、アゝコゝロナラヌ罪、帰ル
 カト思ヘバ行方不知、百姓モ消失ス、是ハ是、仁和寺ノ六本杉ノ古事ト驚キ、釣竿ヲカタゲテ、明方近ク我家へ帰リヌ、
 此書ヲヒロイ是ヲ考ルニ、文王狩ニ出テ、太公ヲ獲、天皇笠置ニ楠ヲ■ム此人釣ヲ好ヲ名言ヲ聞皆同日ノ論ナルベシ、上聞ニ達シテ、政
 府ノ眠ヲ覺ンヿヲ思ヒ、卑身ヲウラミ、予二タスクルモノカ、惜ラクハ、其名ヲカクスヿヲ志ヲツイテ上達スル者也、
        寅十月     去隠士
       愚家老
       愚中老
       臆病中

 此落書丙寅小倉凱陳之時分之事
   慶應ニ丙寅十月廿二日御花畑御門前ニ落居候由

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■熊本史談会2月講演会ご案内

2024-02-10 08:12:34 | 熊本史談会

                                                            記

期日:令和6年2月17日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
講師:論語研究家・図書館講座「出水論語講座」元講師  阿田俊彦氏
演題:『西郷南洲翁遺訓』の誕生、そして頒布

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。
    又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします

 
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■手討達之扣ー(3)

2024-02-10 08:01:15 | 史料

   以下の10・11は同一の事件にかかわるものであるが、我が祖母の実家に関わる事件ともいえる。

10、安永四年七月四日 伴儀兵衛手討仕損シ差扣
   西山大衛組伴儀兵衛當分雇置長屋ニ召置候久左衛門と申者去ル四日之夕不届之儀有之手討仕候
   處間合遠ク手疵を負せ申候 儀兵衛儀数年足を痛近キ比ニ至候而者別而不時由之程ニ有之
   難住存念討損門外江迯出申候 依之方々相尋候得共行方知レ不申候處翌五日流長院住僧狩野兵
   太夫(伴儀兵衛実弟)宅ニ罷越久左衛門儀寺を頼ミ参候儀二付何卒彼ノ者慮外之筋差免候様兵太夫まて
   頼申候 右之趣儀兵衛江兵太夫申聞候得とも如何躰ニ有之共難差免様子ニ付久左衛門儀是非相渡
   候様再應流長院江及取遣候得共決而相渡不申候而申越候間猶又申向置候儀二御座候共右之通手
   延ニ相成候次第難住心底奉恐入候 依之儀兵衛儀如何程ニ相心得可申哉と相達候ニ付先相慎居候
   様申聞置右書付御役所江持参相達置候處儀兵衛儀慎ニ不及旨御用番ゟ即答被申聞候叓

     七月十日
   西山大衛組伴儀兵衛儀雇置候久左衛門と申者手討致損候ニ付再應書付今日御役所江相達申候
   處儀兵衛儀雇置申候久左衛門と申者を手討致損候依頼延々ニ押移同十三日差出候書付之趣重畳
   不埒之様子ニ付依之儀兵衛儀差扣候様可申達旨申来候事

          (実弟)     (従兄弟)       (小舅)
11、安永四年十二月 狩野兵太夫・西村角左衛門・木村武右衛門逼塞
   安永四年十二月 狩野兵太夫
   兵太夫儀実兄伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命之儀相断手討延々ニ相成
   始末兵太夫儀差添申談候事ニ候得者儀兵衛不覚悟之処を差詰心被付可申處不埒之心得ニ付被下置
   候御知行之内五拾石被召上御留守居御番方ニ被仰付弓削一角組二被召加旨仰出候事

   ・十二月六日
   中瀬助之進組西村角左衛門儀従弟伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命
   之儀相断手討延々ニ相成候一件ニ付始末申談も可仕候処角左衛門儀行届不申不心得ニ付逼塞被
   仰付旨被仰出候事

   ・十二月六日八ツ時分ゟ廿六日御免之事
   松野外記組木村武右衛門小舅伴儀兵衛儀當七月手討致損流長院江迯入住僧ゟ助命之儀
   相断候ニ付手討延々ニ相成其節武右衛門儀病中ニ手申談ニ相加不申候ニ付数日不埒ニ押移居候ニ付而
   病中たり共心を付存寄之儀共可申遣儀二候處粗略之心得ニ付逼塞被仰付旨被仰出候事

   ・十二月六日 儀兵衛従弟等ニ者御咎無之儀兵衛江被仰渡ニ依而身分伺
   西山大衛組伴儀兵衛儀雇置候坪井町久左衛門と申者當七月四日不届之儀有之候由ニ付手討いたし候処
   討損流長院江迯入住僧助命之儀相断候ニ付数日延々ニ押移候次第其内差出候書付を以達
   尊聽候處寺院へ入込寺僧ゟ相断候ハゝ猥ニ押懸ケ討放候儀者可致遠慮事ニ候候得とも既二手負候者其上
   難差許段書付をも差遣上ニ而其上再應茂尋常に申断夫共ニ不致承引候ハゝ不得止事是非
   請取候而遂吟味不缼武士道様可致覚悟事ニ候処畢竟差詰候取斗之後難を考不埒ニ押移候旨
   被為 思召上未練之至ニ御暇被下置候旨被 仰出之候由御用番助右衛門(米田是福)殿ゟ書付相渡と
   儀兵衛江私可申渡旨ニ付則儀兵衛宅江罷越申渡候事

   ・十二月六日   西山大衛
      覚
   伴儀兵衛儀致手討候久左衛門儀遂穿鑿候處元来可致手討罪状は無之候ニ付何事可被遊
   御免者ニ候得とも儀兵衛不始末之一件も右久右(左)衛門ゟ事發り無節被仰付候通ニ付聊之
   事とハ乍申御士ニ對し候儀久右(左)衛門存命ニ居候へ者御城下拂被仰付筈ニ候處先達而牢死
   いたし候 此段承置候様儀兵衛一類中江貴殿より可被申聞候以上
   十二月

   儀兵衛御暇被下候節御用番より西山大衛江被相渡候書付

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
ここに登場する主人公の伴儀兵衛の弟である狩野兵太夫とあるが私の祖母の実家の6代目である。
兄・儀兵衛は伴家の養子となり、三男兵太夫が狩野の家を継いだ。
その儀兵衛が事件を起こした。下人の久左衛門を手討にしたが、病身で足元がおぼつかなく討ち損じてしまった。
そして逃げられてしまい方々探したところ、久左衛門は流長院に助けを求めて逃げ込んでいる。
そこで、足が悪い兄に代わって兵太夫が引き渡しを求めるが、流長院側は寺則によりこれを拒否する。
従弟や小舅(儀兵衛の奥方の兄弟)も関るも話は進まず、日が経過していく。
奉行所の調べによると、原因が些細なことらしく手討にするようなことではなかったという。
久左衛門は本来ならば御城下払い程度の事であったらしいが、拘束されたなかで牢死している。
そこで事件の顛末としては、儀兵衛は知行召し上げという過酷な処断を下された。
祖母の実家の兵太夫は50石を召し上げられた。元々は200石の家だがこの事件後は100石となったのだが、これは
宝暦期の世減の規矩(50石減知)によるものと合わせ100石減となったようである。
無礼討ちは武士の特権だとされるが、このように正当な処断もなされたことをご理解いただきたい。
  

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■菫

2024-02-09 08:13:07 | 俳句

 漱石の句に 大和路や紀の路へつづく菫草 があるが、やはり菫は野原や道端に咲くものが愛らしく思える。

 そんな道端に咲いていた菫を頂戴して、バルコニーに置いているプランターに植え付けたが、今では実生の「菫」が生い茂っている。
その菫の今頃は、可憐な紫色の花が次々に咲いて騒がしいほどだが、これが小さい種を抱え込むように丸い球を作る。
これが三又にはじけるのだが、種は乾燥してから落ちるので、はじけてすぐ摘み取り、プラスチック・ケースに入れて乾燥させている。
それを、植木鉢に蒔いたり、マンションの植え込みに蒔いたり、それでも余れば道のわきの植え込みに蒔いたりもしている。
 そして私の部屋の前のベランダには、小さな鉢に「肥後スミレ」の種を蒔いてみたが、随分古い種子だから発芽するか心配していたが、二つほど芽を出している。

「肥後スミレ」は白い花弁がかわいくて、随分以前鉢物を買って育てていたが、夏の暑い日に水やりを忘れて枯らしてしまった。
さて今年白い花を見ることができるか楽しみではある。

           かわいいと思う齢や菫かな  津々

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■小倉戦争余話「落書上達」ー2

2024-02-09 06:36:23 | 史料

        以下の文章に於いて、実学党・(横井)平四郎が大いなる批判の対象になっている。

 併、此節夫役ニ出テ、迯戻ルハ恐入タル次第ニテ、其罪ヲ御糺被成候ハゝ無致方、尤自分ガ了簡二テハ此度ノ死罪二入間敷、其故ハ同ク
 廿七日ノ変、御人数へ押懸、終日程ノ炮戦古今無類ノ御勝利、天下ノ耳目ヲ驚シ、乍恐、御家ノ面目、御英名外国迄轟キ、尚百万長賊襲
 イ来ルトモ、九州ノ應援ハ、返テ足マトイ、御一手ニテ天下ノ為ニ、皆殺シ、何ノ御手間モ可入カト、武士御役目、我々共迄難有存シ、
 猶御吉左右奉待候処、惣御引拂トノ取沙汰、浮説モヿニヨル、如何ノ訳カト御府中一統仰天、市在ニ懸ケ、手二汗ヲ握リ、■様ウカゝ
 フ処、惣師真先ニテ、飛脚モ不入、御國議モ不待、次第不同言語同断ノ引ザマ、其元ヲ聞ニ、士甚実学トヤラノ仕業ニテ、彼休隱此近邊
 ノ平四郎ナト、薩摩ノ野郎ト文通シ、長賊打ヲ不道理抔ト其身勝手ノ臆病説、先祖ニ似合ヌ萩大、惣師休隱ニ手ヲ引レ、ヨフ/\出張ハ
 シタモノゝ、引上ケタイガ一ツハイ、恐シサカ本姓同気相求ル習ニテ、老中壱伎(岐)、勤行不對、ヨキ相手ノ愚将達、楽屋ノ論、カナ
 ド、以ノ外ノ事、依テ、勝タヲ幸、大里、田浦ヲ不追落、取モノモ取アエズ、ヒタ迯ニ迯ケ、追打サレヌカ御家ノ御高運、自分ノ軍■ハ
 不及申、鉦太鼓迄無残処打落シ、平家ノ富士沿ヨリモ浅間敷、萩大トハ申ナカラ、御家ノキユウセキ、三家ノ自分、大将ノ一身ゟ御國ノ
 恥ヲ四方ニ晒シ、御勝利ヲ泥土ニステ、追ニ公私ノ品ニ取返シ、来ルヲ面北ナシ共不思、腹ヲモ切エズヌカ/\ト殿中ニ出ル大タハケ、
 罪是ゟ大ナルハナシ、是ハヒトエニ、先ニ云実学党ゟ起ル処ニテ、平四ナト、士道忘却、御国辱ニモ相成、士席被差放、世二生キ甲斐モ
 ナキ者ヲ、其後モ度々御國議ノ席ニ出シ、相スマザル次第、或ハ其黨長不入隠居ノ簾中ヲ初、イン婦ノ養実南門ノ山行由良ガ太刀取リ鷹
 匠ガ子椎木無足抔ト、鳥合ノ國鼠徒黨ヲナシ、緒方ニ気前ヲ養イ、第一御國ノ大禁ヲヲカシ、大害ヲナス事平日多ク、別テ此節御国辱ノ
 根源トナリ、罪ニ罪ヲ重ヌ、惣師ノセメ申開キ有之間敷、軍ノ指揮ハ良将ノ第一、委細記ニ不及、此度色ヲ失ヒ、迯戻ル事、外ニ論ナク、
 依テ各連ノ迯ケタルハ気遣イニ不及、先ツ惣師ゟ先手ノ頭、引続御番頭御奉行此人ニハ一手ノ見切ニテ如何様トモ可相成ヲ、萩大ガ迯■
 ヲ幸ヒ、我モ/\ト引立ラレ、先ハ同罪也、
                  (つづく)
 

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■綱利、備頭を集め教戒

2024-02-08 11:06:08 | 史料

(寛文)十二年壬子二月八日綱利備頭共ヲ集メテ茶ヲ點シ餘多ノ物語教戒セシ中ニ孝行ノ儀父へノ孝ハ身持心得ヲ善クシヨキ子ヲ持タリト人ニ譽ヲ取ル程ノ覺悟アルへシ 母ヘノ孝ハ同シ事ナカラ夜寒ナル時ハ肌薄ナキヤウ風ヒカサルヨウ二ナト或ハ食物ニ付テコマコマト労ハル心入ヨシ兄弟ノ間モ睦シク懇ノ心入肝要ナリ 朋友ノ交リモ慇懃ニヒタヒタトイタシ譬ヘハ今日ノ茶ノ湯ニ付テモ誰カ悪シキナト々申間敷ク皆左様ノ事ヨリ争ニナルモノナリ 鎌倉ノ代梶原太閤ノ時石田是等ノ者共は讒侫ノ者ナリ 相組ノ中ニモ別シテノ者モアルへシ 又大躰ノ者モアルへシ孰モ一同ニ隔ナク入魂ニ仕リ訴訟ナト申ス寸立間敷事ハ申サスヤウニ仕ヘシ

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  寛文四年六月「御侍帳」による「備頭」     参考:熊本藩備頭・側大頭・留守居大頭
     ■米田監物(3代・是長)
     ■長岡帯刀(松井家6代・寿之)
     ■有吉内膳(7代・貞之)
     ■沢村宇右衛門(3代・友雅)
     ■清田石見
     ■有吉頼母允(英貴流有吉家1代直當=養子・大木織部兼憲二男)

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■小倉戦争余話「落書上達」ー1

2024-02-08 07:16:49 | 史料

 上妻文庫にある「肥後風刺文学」は多くの落書(らくしょ)が収められている。
いずれも強烈な批判の文書が多いが、当時は民衆の知るところにはいたらず、一部の人たちの不満のはけ口にとどまり、密かに関係者
により収蔵されてきた。
その中に小倉戦争に出陣を余儀なくされた農民たちの声を伝えているものがある。
その内容を知り、小倉戦争の裏面史を眺めてみたい。
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   一落書上達 宮村氏藻塩草巻廿八所載
     慶応二年十月廿ニ日
 予釣漁ノ帰ルサニ井寺宮ニ休ミケルガ、腹痛差起リ保養ノ内日モ暮、盗人ノ目入モ恐シク、神殿ニ入居ケルガ、遠近村々ゟ拝殿ニ集リ、
 小倉夫ナルベシ其内一人申出ルハ、今晩ノ寄合ハ外ノ事デナシ、去ル三日ノ変動ニ吾々ニゲモドリタ者共、以後御懲戒ノ為、村々ニ於
 テ死罪二被仰付トノ風評、誠二当惑ノ次第二テハナキカ、時二一人云フ、我ナガラ愚民ノカナシサ、炮声ヲ聞ト惣身縮ミ、御国恩モ打
 忘レタ、又一人云フ、世ノ中カ道理斗テ行クナラ、大分ヨケレドモ、他國ハ不知此目出度御國サへ内證ハドンチャンスルト聞イタ、又
 一人云フ、咄ガ出レバ直ニ願事モセ話スル様二ナル事ハ扨オイテ、吾々ガ身ノ上、只今ニモ死罪ト申来ナラ、何トナリ行ゾ、今晩ノ寄
 合ハ其為ダニヨリテ、トウトゾ、タスカル分別付ケタイト云、時二老聲ニテ、迚モ吾々愚昧ノ百姓、何十人寄テモ同ジ事斗ニテ夜ノ明
 ル外ナシ、其内社名殿ヨリ見咎メラレ、不審デモ立ナラ、心配ニシンニュウヲ懸ル間、寄合ノ趣意ヲ打明シ、社名殿江知恵カルガ上分
 別カト云、大勢一同二同意ノ聲也、時二當村庄屋、今晩ノ様子跡ゟ聞付、今之話シヲ立聞シツト、拝殿ニ上リ此度各ハ小倉ヨリ迯戻リ
 タ上テ、兎ヤ角ト寄合ナド付、死罪ノ風聞ヲ恐レ、如何ニ百姓ナレトテミレンノ存念、一旦妻子ニ別レ、戦場二踏出タ上ハ、上下ノ
 差別ナシ、武功ヲ心懸、末代迄名ヲ残ス、武士ノ先祖トナルコソ人タル者ノ本意トスル所ナルニ、今ニ至テ、吾罪ヲ棚ナニ上ケ、死ヲ
 恐レ、寄合ナトイタシ、彼是ト申時ハ、積リ、庄屋ガ迷惑トハ此事、社家モ、坊主モ、不入ガヲキテノ當前、不遠ヤ来ベシ、此上ハ死
 後迄恥ヲカゝヌ様二覚悟第一ト、些力量面、若キ時ハ醫者ドノ位ゟ少々書物聲ハツゝタ者ト見へ、在イノ口上ニテ取切ルケシキ也、時
 二塩カラ聲ニテ庄屋殿ノ申サルゝ事ニ付、此村ノ人達ハ、兎モ角モ、吾々ドモハ此宮ニ寄合タルヿニ付、社名殿ニ答へ、カタ/\打
 明シテ咄タイト云、大方同意ノ躰ニテ、社人ヲ呼ニ行ク、ツレ越シ上座二スヱ、百姓共身上打明シ歎願ノ躰也、然ル處神主暫思案ノ様
 子ニテ、良ヤ有テ声ヲヒソメ、各ノナゲキ尤至極也、此上ハ乍恐モ歎願ノ口上書差上ルカヨイ、併百姓ノ書付ニ、物沢山ニ書時ハ、浪
 人カ、医者抔ノ手傳イタシ、知恵ヲ付タ様二有テハ、百姓ノ主意不立、惣躰百姓は迯ルガ當前、コヲ云ハ弱ミヲ付ル様ナレ共、戦場ハ
 武士ノ受持ツ所、百姓ハ耕作ヲ第一ニ〆、御上納不差支、田畑不荒様ニ心懸ルヲ以精民ト云、
                  (つづく)

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■手討達之扣ー(2)

2024-02-07 14:18:49 | 歴史

6、明和六年七月 久武権之助仝金吾手討 宜敷トテ御褒詞
     上田卯助組 久武兵助嫡子久武権之助・二男金吾

 (この記事については過去■明和六年七月十日、坪井報恩寺にてでご紹介している。我が家の親戚に関わる記事でもある。)

7、安永三年八月 佐藤右衛門八手討
    志水三治兵衛組佐藤三郎右衛門養弟佐藤右衛門八儀一昨四日用事有之松橋村江罷越候而夜ニ
    入罷帰候処下益城河江手永浦河内村際を唄をうたい通候處村中ゟ稠敷咎メ申候ニ付
    道筋唄をうたい候儀何も妨ニ成候事ニ而も無之候ニ付構申間敷申し聞候得とも色々悪口仕候
                    (小文字ニテ挿入)
    二付不届ニ存候段申聞候処大勢罷出 相待居候處声をかけ候間待居候処棒■参仕先ニ進ミ候者 棒を打懸候
         はつ/\(古語・かすか)
    二付者川/\ながら抜打仕候得は手を打落シ面跡ニ懸ヶ深手ニ負せ申候 其外ニ手向仕候者
    有之候 其夜吟味仕候得とも相分不申候ニ付翌五日浦河内村江罷越吟味仕候處理右衛門と申者之
    由ニ而止メ指申候事

8、安永三年八月八月廿ニ日 荒瀬(牧か)忠次手討
    西山大衛組牧忠治儀宇土郡浦手永里浦村ゟ在宅仕居申候 荒瀬文次郎隠居荒瀬秋蛍儀も右
    忠治近所ニ在宅仕居申候 秋蛍儀は忠治実兄ニ而御座候 秋蛍妻ハ文次郎方へ幼年之孫共居申候
    二付一所に在罷折々秋蛍方へ罷越申候事ニ御座候 然処當月十九日秋蛍妻在宅所江参居候 去ル廿二日忠
    次宅江罷越彼ノ方ゟ帰り候節屋敷内ニ而嫡女か免後ゟ切懸申候 既二殺害仕候と相見候ニ付忠次儀娘ヲ
    早速打放候 左候而秋蛍妻を郡浦村江居申候醫師江口玄球松倉村江居申候江本多仲右両
    人を呼療治仕せ手疵之様子吟味仕候得は長サ五寸深サ六分程之儀二而命分ニ懸り申候程之儀二無御座候
    追々快方ニ相成申候由ニ御座候 右か免當年廿七歳罷成申候 秋蛍妻に對し何ぞ意趣ヶ間敷儀
    無御座候 右之通儀二御座候得は病乱之様子ニ相見申候由忠次親類中ゟ申聞候段牧才次郎ゟ相達候ニ付則
    昨日御奉行所江持参相達置申候事

9、安永三年十一月廿日 永井七十郎手討不首尾 扶持方召上ゲラル
    平井貞之允組国武十之進■(舅か)永井七十郎儀當九月十九日之夜田迎手永出中村(出仲間)ニ而田中又助組
    屋敷居申候太平次と申者打放申候 始末不宜候ニ付御合力御扶持方共ニ被召上候 依之十之進伺有之
    一日扣有之候事
      十一月廿日
     

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