Sightsong

自縄自縛日記

政野淳子『四大公害病』

2015-09-09 00:27:53 | 環境・自然

政野淳子『四大公害病 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害』(中公新書、2013年)を読む。

四大公害病については、環境問題・公害問題を象徴するものとして知らぬ者はない。しかし、これらは過去の「歴史」ではない。なぜならば、(1) すべての被害者が金銭的・精神的に救済されたわけではなく、命と記憶とによってその体験が生き続けており、(2) 行政の不作為や、責任を問われるべき企業の免責が上からなされるという過程が、2011年以降また悪夢のように顕在化してしまった、からである。

(2)については、本書に多くの指摘がある。たとえば、水俣病においては、既に浦安の「黒い水事件」(1958年)に端を発して制定された「水質二法」が適用されなかった(もっとも、寺尾忠能編『「後発性」のポリティクス』によれば、同法は甘く、公害追認法として機能し、その後の水俣病の被害拡大を招いてしまった面があるという)。新潟水俣病が公表される6年前の1959年には、通産省による水銀利用量調査が化学企業に対してなされていたにも関わらず、政治問題化することを避けて調査が秘匿されていた(なお、これを掘り起こしたのは故・宇井純氏だった)。産業界に配慮して原因の特定を遅らせたことは、すべてに共通している。

教養としてではなく、現在を視るための本として推薦。

●参照
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
土本典昭『水俣―患者さんとその世界―』
土本典昭さんが亡くなった
工藤敏樹『祈りの画譜 もう一つの日本』(水俣の画家・秀島由己男)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』(行政の不作為)
桑原史成写真展『不知火海』
桑原史成写真展『不知火海』(2)
ハマん記憶を明日へ 浦安「黒い水事件」のオーラルヒストリー
浦安市郷土博物館『海苔へのおもい』
寺尾忠能編『「後発性」のポリティクス』


エドマール・カスタネーダ『Live at the Jazz Standard』

2015-09-07 22:54:12 | 中南米

エドマール・カスタネーダ『Live at the Jazz Standard』(Arpa y Voz Records、2015年)を聴く。

Edmar Castaneda (harp)
Gregoire Maret (harmonica)
Marshall Gilkes (tb)
Itai Kriss (fl)
Shlomi Cohen (ss)
Pablo Vergara (p)
Rodrigo Villalon (ds)
David Silliman (perc)
special guests
Andrea Tierra (vo)
Tamer Pinarbasi (kanun)
Sergio Krakowski (pandero) 

カスタネーダのハープは文字通りのウルトラテクニックであり、ギターのパット・マルティーノ、シタールのラヴィ・シャンカールに伍するものと言っても過言ではない。実際に、この4月に予備知識なくNYのSmallsで観たライヴで仰天、口を開けて凝視してしまった。その際は、ハコも、ドラムスのアリ・ホーニグとのデュオというフォーマットも「ジャズの土俵」であったわけだが、それでも、かれはラテンもジャズも迷うことなく繰り出し、聴衆を夢中にさせた。

そんなわけで、待望の新譜。ラテン感満載である。グレゴリー・マレットのハーモニカも味わい深いソロを聴かせる。もちろんそれだけでなく、皆が、俺が俺が、私が私がと次々にステージ上で愉快なパフォーマンス。ソロを渡すときには、ときにぞくりとする「興奮の幕間」がある。実に豊かな、テクとエモーションの泉である。

この演奏も、NYのJazz Standardという「ジャズの土俵」においてなのだが、解説で東琢磨さんが書いているように、むしろラテンのほうがウケる状況もあり、そのことを云々することはあまり意味がないかもしれない。東さんは、ラテンアメリカの音楽を、国ごとに分類することはできず、少なくとも南米北部の「汎カリブ」音楽としてとらえるべきものだと説く。この豊饒さと連帯感はそれに起因するものでもあるのかな。

●参照
アリ・ホーニグ@Smalls(カスタネーダ参加)


「JazzTokyo」のNY特集(2015/8/30)

2015-09-07 00:26:22 | アヴァンギャルド・ジャズ

「JazzTokyo」のNY特集(2015/8/30)。

 http://www.jazztokyo.com/column/jazzrightnow/006.html

●創造する女性たち

あらためていまのシーンを視ると、すさまじい個性派ぞろい。

●シスコ・ブラッドリーのコラム

イングリッド・ラブロック(Anti-House)『Roulette of the Cradle』(淡々として深いサウンド)
ヨニ・クレッツマー『Book II』(前回に引き続き登場)
メテ・ラスムセン+クリス・コルサーノ『All the Ghosts at Once』(ラスムセンはノルウェーのサックス奏者。面白い)
クリス・ピッツィオコス@Jack(タイショーン・ソーリーと)
ベン・ガースティン@Ibeam(インターフェイスを模索する人)

●よしだののこのNY日誌

なんと、ブルックリンの住宅街にある小さいバー「Don Pedro's」に、クリスチャン・マクブライドが現れ、DJだけでなくベースを弾いたりしたとか。いちどだけ、クリス・ピッツィオコスのライヴを観に行った。こんなことが起きるなんて楽しいだろうね。

●マックス・ジョンソン・インタビュー

若干25歳。しかしインタビューでは、さらに若い人たちにも凄いミュージシャンがいる、と。

●参照
「JazzTokyo」のNY特集(2015/7/26)
「ニューヨーク、冬の終わりのライヴ日記」(2015年)


ヨニ・クレッツマー『Book II』

2015-09-07 00:15:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

ヨニ・クレッツマー『Book II』(Outnow Recordings、2014年)のレビューを「JazzTokyo」に寄稿させていただきました。

>> ヨニ・クレッツマー『Book II』

Yoni Kretzmer (ts)
Reuben Radding (b)
Sean Conly (b)
Mike Pride (ds)

●参照
シスコ・ブラッドリー ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報(JazzTokyo/Jazz Right Now 第5回)
シスコ・ブラッドリー ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報(JazzTokyo/Jazz Right Now 第6回)


纐纈雅代『Band of Eden』

2015-09-07 00:09:44 | アヴァンギャルド・ジャズ

纐纈雅代『Band of Eden』(suisui records、2015年)のレビューを、「JazzTokyo」に寄稿させていただきました。

>> 纐纈雅代『Band of Eden』

纐纈雅代 (sax, vo, mbira, chorus, kaossilator)
内橋和久 (g, daxophone)
伊藤啓太 (b)
外山明 (ds)
special guest スガダイロー(p)

●参照
纐纈雅代 Band of Eden @新宿ピットイン(2013年)
鈴木勲セッション@新宿ピットイン(2014年)(纐纈雅代参加)
渋谷毅オーケストラ@新宿ピットイン(2014年)(纐纈雅代参加)
秘宝感とblacksheep@新宿ピットイン(2012年)(纐纈雅代参加)


チャド・マッカロー+ブラム・ウェイジターズ『Urban Nightingale』

2015-09-06 23:55:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

チャド・マッカロー+ブラム・ウェイジターズ『Urban Nightingale』(Origin Records、2011年)を聴く。

Chad McCullough (tp, flh)
Bram Weijters (p, rhodes)
Piet Verbist (b)
John Bishop (ds)

マッカローのフリューゲルホーンは籠っていて良い音がするのだが、最初の2曲は特に尖ったところもない爽やか路線。ところが、3曲目にウェジターズがフェンダーローズを弾き始めると、空気が嬉しい匂いに一変する。マッカローは慎重にトランペットを吹き、抑制されていて良い感じ。

それならそうと最初から言ってほしい。そのあとも、曲によって皆の貌がつぎつぎに変わっていく。ドラムスのビショップは終始ノリノリ。


クレイグ・テイボーン『Chants』

2015-09-06 21:39:46 | アヴァンギャルド・ジャズ

クレイグ・テイボーン『Chants』(ECM、2013年)を聴く。

Craig Taborn (p)
Thomas Morgan (b)
Gerald Cleaver (ds)

ピアノトリオだからといって何かの典型におさまるわけではないということを実感する作品。テイボーンのピアノは絶えず静かにスパークするようで、また、次の曲がり道へ、次の曲がり道へと粘っていく。その粘りもブルースのそれではなく、抽象的・幾何学的な感覚。

トマス・モーガンの重い錨のようなベースも良いのだが(ゲイリー・ピーコックを思い出すのだがどうか)、なんといっても特筆すべきは、ガラスを突き破って外部へとスピルアウトするような、ジェラルド・クリーヴァーのドラムスだ。どんなプレイをしているのだろう。

●参照
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(テイボーン、クリーヴァー)
クリス・ライトキャップ『Epicenter』(テイボーン、クリーヴァー)
クリス・ポッター『Imaginary Cities』(テイボーン)
『Rocket Science』(テイボーン)
デイヴ・ホランド『Prism』(テイボーン)
オッキュン・リーのTzadik盤2枚(テイボーン)
Book of Three 『Continuum (2012)』(クリーヴァー)
ジェレミー・ペルト『Men of Honor』(クリーヴァー)


エドガー・アラン・ポー短編集(2) SF&ファンタジー編

2015-09-06 20:36:41 | 北米

巽孝之の新訳によるエドガー・アラン・ポーの第3巻が、新潮文庫から出ている。なんと意表をつく「SF&ファンタジー編」。

とは言っても、ポーの作品にはもとより不思議感が満ちている。ここに収録された作品群も、そこまで異色なものとも思えない。

まわりくどく衒学的な語り口は得意ではないが、いずれも短く、宝石の原石のようなものだ。なかでも「大渦巻の落下」には魅せられた。漁師が、人の想像を遥かに超えた渦巻に巻き込まれるが、中は荒れ狂う外側とは打って変わって静謐な世界であり、しかも、物理学的な法則が支配しているような空間。たとえば、偉大な存在との邂逅を描いた映画『コンタクト』だって、ブラックホール内の時空間を描いた映画『インターステラー』だって、これを源流としていると言ってもいいのではないか。

「灯台」は、ポーの遺作であり、息を呑むような導入部のみが書かれている。解説によれば、ジョイス・キャロル・オーツも、この短編を発展させて「死後のポーまたは灯台」という作品を書いているという(読みたい!)。

前の2冊と同様に翻訳が味わい深く、「じわじわくる」作品群。

●参照
エドガー・アラン・ポー短編集 ゴシック編・ミステリ編


ジョイス・キャロル・オーツ『Solstice』

2015-09-06 15:16:49 | 北米

ジョイス・キャロル・オーツ『Solstice』(Dutton、1985年)を読む。4つの章からなる、離婚した女同士の物語である。NYのStrand Booksで、7.5ドルで買った。

「The Scar」。ペンシルベニア州の郊外に越してきたモニカは、ひとまわり上の画家シェイラと仲良くなる。ふたりともアンドリュー・ワイエスの絵を実体化したような原野の一軒家に住んでいた。シェイラは相当な変わり者で、無礼としか思えない態度でモニカの過去に踏み込んでくる。そして閾値を超えると、モニカの過去の悲しみが迸り出るのだった。感情の封印を、モニカの顔に付いた傷跡(scar)によってほのめかしてゆく表現が見事。

「The Mirror-Ghoul」。離婚した夫が私立探偵を雇って自分を探りまわっているらしいと知り怯えるモニカ。そんな時に、シェイラはモニカを誘う。お互いにわかっていながら偽名を名乗り、バーで知らない男たちと積極的に遊ぶヘンな遊びに興じる遊びだった。もはや、モニカが精神的に依存する存在はシェイラだった。しかし、シェイラは姿をくらまし、モニカの懇願に気付きながらも去っていく(実はモロッコに旅立っていたことがわかる)。モニカは復讐を誓う。

「"Holiday"」。シェイラがいない喪失感。唐突に帰ってくるシェイラ。もうモニカの感情は元通りではない。

「The Labyrinth」。シェイラはやはり唐突に、着飾ってのホームパーティーを開く。モニカの精神は高揚と落胆との連続によって痛めつけられ、体調を崩し、げっそりとやせ細ってゆく。

最近の作品にもみられるように、オーツは心の痛いところ、触ってほしくないところを、容赦なく、しかも執拗に突き続ける。文章の塊は次第に短く細切れになってゆき、地獄への加速感がすさまじい。モニカが救急車で運ばれる間、シェイラはこともあろうに、次のようにモニカに囁くのだ。「"--- we'll be friends for a long, long time," she says, "---unless one of us dies."」 相互の管理下という無間地獄に陥ったふたりの女の物語である。

●参照
ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』(2013年)
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』(2013年)
林壮一『マイノリティーの拳』、ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』(1987年)


フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』

2015-09-06 09:45:31 | アヴァンギャルド・ジャズ

フィル・ミントン+ロル・コクスヒル+ノエル・アクショテ『My Chelsea』(Rectangle、1997年)を聴く。

Phil Minton (voice)
Lol Coxhill (ss)
Noel Akchote (g)

レクタングルはフランスの奇怪なレーベルで、最近はもう活動を停止したのかと思っていたら突然のCDリリース。かつて出された『Minton - Coxhill - Akchote』というEP盤(といいながら45回転ではなく33回転)と同じメンバー、同じ収録年である。これは嬉しい。

あらためて聴いても発見があるともないとも言える三人衆。ミントンはおかしなスキャットとか、鶏の断末魔のように喉から口笛を絞り出すような音とか。コクスヒルはいつも変わらず脱力を極めたなで肩のソプラノサックス。アクショテも変態度で負けては変態の名がすたるとばかりにギターをかき鳴らす。

このような人たちを唯一無二という。いやもう、最高の一言である。


フィル・ミントン、2010年 Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3)、フジブロ4号


ロル・コクスヒル、2010年 Leica M3、Summicron 50mmF2.0、Tri-X(+3)、フジブロ4号

●参照
フィル・ミントン、2010年2月、ロンドン
ロル・コクスヒルが亡くなった(2012年)
ロル・コクスヒル+ミシェル・ドネダ『Sitting on Your Stairs』(2011年)
ロル・コクスヒル+アレックス・ワード『Old Sights, New Sounds』(2010年)
ロル・コクスヒル、2010年2月、ロンドン
コクスヒル/ミントン/アクショテのクリスマス集(1997年)
G.F.フィッツ-ジェラルド+ロル・コクスヒル『The Poppy-Seed Affair』(1981年)


シャイ・マエストロ@Body & Soul

2015-09-06 08:20:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

実に久しぶりに青山のBody & Soulに足を運び、シャイ・マエストロのソロピアノを観る(2015/9/5)。

Shai Maestro (p)

はじめは音の響きを探るように、静かに和音を重ねていくマエストロ。それだけでなく、曲の前にはまずイメージを作りあげ、演奏に入っていく姿があった。ライヴは、妹に捧げた曲「Gal」(カウンターの隣に座ったテルアビブ出身の女性が、「波」という意味だと教えてくれた)や、自宅のピアノの上に飾ってある絵画からインスパイアされた曲「Paintings」から、やや静かにはじまった。

乗ってくると、面白いことに、左手で和音を弾きつつ、ベース奏者がいるかのように、身体をひねらせて右手で低音のパッセージを挿入する。かたや、ドラムスのように、ピアノの前面を叩いてみたりもした。まるでトリオだ。

特別な曲だという「When You Stop Seeing」は、出身国のイスラエルとパレスチナとの抗争をモチーフにしているという。曰く、ソーシャルメディアでは「イスラエル人は」「パレスチナ人は」などとして語る。自身が住むNYでも、セクシズムやレイシズムが少なくない。しかし、ひとりひとりは違う、ひと括りにされる存在ではないんだ、と。これはかれ自身の立脚点を確かめるプロセスかもしれないと思った。また、このクラブに捧げたであろう「Body & Soul」は、まず右手でメロディを反芻し、展開していく様が見事だった。

ライヴ前には、ナルシスティックな演奏を期待してもいたのだが、これは良い意味で裏切られた。マエストロは、観客の反応を確かめながら、ひとつのライヴでドラマを作りあげようとするピアノを展開した。演奏の中でサイレンスもイメージも明示し、また時にはトリオを想起させもする、知的でダイナミックなソロだった。

●参照
マーク・ジュリアナ『Family First』


マーク・ジュリアナ『Family First』

2015-09-05 08:34:08 | アヴァンギャルド・ジャズ

マーク・ジュリアナ『Family First』(AGATE、2015年)を聴く。

Mark Guiliana (ds)
Chris Morrissey (b)
Shai Maestro (p)
Jason Rigby (sax)

トーンのグラデーションで勝負するようなジェイソン・リグビーのサックスは、一聴スムーズであり、普通のジャズ・カルテットに聴こえてしまう。しかし、それぞれの楽器を聴いていると、まったく普通でないことがそこで起きていることがわかる。

ジャズ・ドラムスが、叩く者と聴く者との身体の共鳴によって成立する制度なのだとすれば、これはその閾をやすやすと逸脱している。ジュリアナのドラムスに耳を追従させようとすると、身体の共鳴を超えてついていけなくなり、かれが広大で微細な領域にじつに緻密なリズムをいきわたらせていることが実感される。まるでグレッグ・イーガンの小説を読んでいるようだ。

シャイ・マエストロのピアノはその多次元空間で軽々と踊り、しかも骨太。実は今回の来日演奏を聴きにいくつもりで、ソロピアノでどのような世界を見せてくれるか楽しみなのだ。


神田界隈の讃岐うどん、丸香と一福

2015-09-05 00:00:23 | 食べ物飲み物

90年代頃の東京には旨いうどん屋がなかった。いやあったのかも知れないが、いまのようにネットで情報を入手できるような状況にはなかった(そういえば、『ぴあグルメMAP』を愛用していた)。もちろん、立ち食いのうどんはまるで違う代物であった。21世紀に入り、「はなまるうどん」が東京に進出して店舗を増やしてきたことはかなり嬉しいことではあったのだが、やはり、高松の「源芳」や「かな泉」で食べたうどんは別次元で、そのような一期一会のうどんを食べたいと願っていた。

そんなわけで、2003年、駿河台下に讃岐うどんの「丸香」ができたときはセンセーショナルだった。先日久しぶりに行ってみると、相変わらず旨すぎるうどんだった。麺にはコシがあり、いりこ出汁。以前は「かま玉」が好みだったが、いまは「かけ」こそが王道だと思っている。ちくわ天、げそ天、いろいろなすり身の丸天などをのせて食べるときには幸福感で一杯になる。

この「丸香」の磁場がまだ消えていない神田淡路町に、やはり香川県を本拠とする「一福」が店を開いたというので、矢も楯もたまらず駆けつけた。「かけ」に、ちくわ天とげそ天。やはりいりこ出汁ながら、「丸香」よりもマイルドな味である。麺も「丸香」ほど自己主張するコシの強さがあるわけではない。もちろん、キャラが立った「丸香」も、やさしい印象の「一福」も、どっちも旨い。

めでたしめでたし。


岡本亮輔『聖地巡礼』

2015-09-04 07:41:04 | 思想・文学

岡本亮輔『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書、2015年)を読む。

かつて、聖地巡礼と観光とはすっぱりと分けることができないものだった。一期一会の移動体験はすなわち観光でもあった。それらを潔癖に分けようとするのは近代の現象に過ぎない。

現代、そしてまた、観光と聖地巡礼とがお互いに接近し融合している。世界遺産は観光とは切り離すことができず、またそれを見越した登録のための物語が形成される。サンチャゴ・デ・コンポステラや四国遍路では、聖地巡礼というエッセンスを取り戻した観光として、あえて不便に歩いてアクセスする方法がシステム化されている。青森のイエスの墓は、誰もがフェイクだと知っているものの、パワースポットとしての求心力を得た。パワースポットはいまや無数に存在し、それらの由来さえロジカルに信じられているわけではないが、多くの人が苦労してまで訪れる。

著者はこうした現象を不純で否定すべきものととらえているわけではない。むしろ、日常にない共同体への参加や(見知らぬ人々との触れ合いという物語、「自分探し」)、ネットを通じた大きなつながりの獲得を、現代における社会と宗教のかかわりという文脈でみているようだ。シニカルに陥らず面白い分析である。他者の物語への「ただ乗り」という指摘もあって然るべきだとは思ったものの。


鳥の会議#4~riunione dell'uccello~@西麻布BULLET'S

2015-09-04 00:33:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

西麻布BULLET'Sに足を運び、「鳥の会議#4~riunione dell'uccello~」を観る。

遅れて到着すると、最初のKO.DO.NA&人魂は終わっており、休憩時間に、成田屋古漫堂さんが蓄音機を廻しつつ、壁に8ミリを上映していた。

■ ふぅちくぅち

ふう(琵琶、緊縛)
くぅち(エフェクター)
緊縛モデル

セクシーなモデルが次第に縛られていき、轟くノイズと琵琶。 

 

■ 橋本孝之+コサカイフミオ

橋本孝之 (as)
コサカイフミオ (g)

コサカイさんの叩きつけるギターが創り出す広い空間に、橋本さんのアルトが響き渡る。響いてもまだ大きな間がある、そのような二者の関係。アルトは叫び吠えるのだが、それは真鍮とガラスで出来た異形生命体。情のひとかけらもない、ど演歌とは対極にあるアルト。なるほど、誰にも似ていない。

 

●参照
橋本孝之『Colourful』、.es『Senses Complex』、sara+『Tinctura』