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あの時、何を祈って踊ったか

2024年08月19日 | 雑記帳
 久しぶりに盆踊り本番の日に通りへ向かう。コロナ禍になってからずっと観ていなかったので数年経ってしまった。2019年の時は初日にその場で町CM撮影をしたことを思い出した。今夏は小学生になった孫も、少しの時間は列に加わったようでぎこちなく手足を動かす姿を笑いながら観た(ただし、スマホ画面で)



 様々な問題はあるにしろ、大勢の観光客が来る現状は町にとって嬉しいことだ。貴重な文化が残っていくことを誇りと思うし、継承する方々には励みとなるだろう。ただ、ここで生まれ育ち、間近に接してきた者としてより注意深く見れば、文化継承は夢中になってやる、自己感情に従うだけでは陥穽となるかもしれない。


 先日、NHKBS再放送で「スピリアル・ジャパン」で盆踊りを取り上げた番組を視聴した。リポーターであるスペイン女性は、自分が体験してきたdanceと盆踊りの違いに驚きながら、さらに独特である西馬音内盆踊りの特徴を、最後に「顔を隠す」という言葉で語った。ああそうか、と今さらながらに気づかされた。



 まだ踊りの輪に加わっていた学生の頃に、取材に来ていたラジオ番組の方にインタビューを受けた。質問は定番の彦三頭巾についてだった。「亡者踊り」と言われていることなどを話した記憶がある。ただよく考えれば、編み笠も深くかぶり、顔を見せない点は共通している。これは何を意味しているかと問うてみる。


 顔を隠すとは「自分をなくす」こと。表を晒さない、かがり火を囲んで並び、揃って同じ振りをつける意味の一つは鎮魂である。そこに個性はいらない。つまり自己表現ではなく身体を使っての祈りの共同作業と呼べるか。そう結論づければ、若い頃に踊りながら感じた居心地の悪さに納得し、冷静に全体像が見える。


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