「日本国憲法の二〇〇日」半藤一利
敗戦から日本国憲法成立までを追った作品。
著者の個人的な体験を織り交ぜながら描かれる。
「15歳の東京大空襲」の続編、と言える。
進駐軍が来たとたん鬼畜米英、八紘一宇と言っていた人たちは?
P92
小泉八雲がいっているように、日本人の思想とか主義とかは「心理的な祭りようの衣装」にすぎなかったらしい。
「リンゴの唄」
P136
歌った並木路子は、松竹少女歌劇の新人である。3月10日の空襲で、みずからも火に追われて隅田川に飛び込む羽目となり、危うく溺れるところを救助されたのであるという。一緒に川に飛び込んだ母は遺体となって浮かんだ。父も南方で殉職死、次兄は千島列島で戦死。「並木君、君に明るく歌えというのはつらいのだが・・・・・・」と作曲家の万城目正がいったとか。
戦後百人一首
P223
忍ぶれど色に出にけりわが暮らし銭が無いかと人の問うまで
蚤しらみうつりにけりないたずらに十円出して長湯せしまに
敗戦の嵐のあとの花ならで散りゆくものは道義なりけり
P237
戦後東京の、いわゆるパンパンの発祥は有楽町といっていいらしい。それは銀座四丁目の地下鉄構内から、であるという。
「終戦間もなく、この構内売り場口、また入口に、モンペ姿に下駄穿きという格好で、はじめ二、三人の女が、ここを根城にタバコの闇売りをしていたが、場所柄とて売り上げがいいので、他の女が目をつけるようになり、いつの間にか二、三十人の女が集まってきた。ところが、これら闇タバコ売りの二、三が、通行の外人、日本人に売春をするようになり、果ては、その風が全部の女に蔓延してしまった。そして、ついに収入の多い売春が本業になってしまったのである。やがて、地下鉄がオフ・リミットとなり、商売ができなくなると、彼女たちは相ついで、有楽町ガード下へ移動し、ここにラク町パンパンの創世となったわけだ」
【ネット上の紹介】
8月15日、敗戦の日から、新憲法誕生まで。「漱石先生ぞな、もし」「ノモンハンの夏」の著者が見た、日本の原点!これくらいの歴史常識をもっておいても無駄にはならないと思う・・・・・
「三月十日」の章
昭和二十年八月(1)―「涙滂沱」の章
昭和二十年八月(2)―「国体護持」の章
昭和二十年八月(3)―「総懴悔」の章
昭和二十年九月(1)―「青い眼の大君」の章
昭和二十年九月(2)―「記念写真」の章
昭和二十年九月(3)―「憲法改正示唆」の章
昭和二十年十月(1)―「天皇制打破」の章
昭和二十年十月(2)―「天皇退位論」の章
昭和二十年十一月(1)―「近衛失格」の章〔ほか〕
昭和二十年八月(1)―「涙滂沱」の章
昭和二十年八月(2)―「国体護持」の章
昭和二十年八月(3)―「総懴悔」の章
昭和二十年九月(1)―「青い眼の大君」の章
昭和二十年九月(2)―「記念写真」の章
昭和二十年九月(3)―「憲法改正示唆」の章
昭和二十年十月(1)―「天皇制打破」の章
昭和二十年十月(2)―「天皇退位論」の章
昭和二十年十一月(1)―「近衛失格」の章〔ほか〕