現在、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで催されている『ピエール・アレシンスキー展』
が盛り上がっているのかどうかは微妙である。ピエール・アレシンスキー(Pierre Alechinsky)は
絵画は独学で作風がいまいち理解しにくいのである。
だから会場に行ったらとりあえず中程で上映されている、アレシンスキー自身が監督した
『日本の書(Calligraphie japonaise)』(1955年制作 1957年公開)という17分の
ビデオを観ることを勧める。そこには森田子龍、江口草玄、篠田桃紅(103歳!)などの
前衛書家たちが作品を制作している様子が撮られている。同時にアレシンスキーは中国系米国人の
美術家のウォレス・ティン(Walasse Ting)との交流の中で中国式の描き方も学んでいる。だから
寧ろ日本人の方がアレシンスキーの作品に親しみをもっていいはずなのであるが、日本人自身が
前衛書家たちの作品に親しみがない故にアレシンスキーの作品にも馴染めないのである。
『1815年(1815)』(1979年)
上の作品に書かれている速記文字(logogram)を見てもわかるようにそもそもアレシンスキーの
絵画は文字との親和性が高く、日本や中国の書道に惹かれる理由はわかる。
『至る所から(De toutes parts)』(1982年)
アレシンスキーの作品には「プレデラ(predella)」と呼ばれる、メインの作品の周囲に描かれる
装飾絵画がしばしば見受けられるのだが、アレシンスキーはこれを掛け軸の前の飾られる
花に譬えている。
アレシンスキーの作風にジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)やジェームズ・アンソール
(James Ensor)からの影響が指摘されるが、ポロックはともかくアンソールには疑問を感じる。
アンソールが好んで描く「仮面」との類似性を指しているのだろうが、アレシンスキーが描く
「仮面」は画力がない画家がたまたま描いた漫画のような顔でしかないと思うからである。
そのような画家たちの影響に加えて、速乾性のアクリル絵具(fast-drying acrylics)や
ビチューム(bitume 歴青 れきせい)と呼ばれる画材の出現によりアドリブのような
即興的な描き方がアレシンスキーの作風を決定づけたように思う。