現在、東京の三菱一号館美術館で催されている『拝啓 ルノアール先生 - 梅原龍三郎に
息づく師の教え』を観て疑問に思うことは、梅原龍三郎の作風がルノアールに全くと言って
いいほど似ていなくて、それは梅原が1908年に初めてパリに留学した際に、ルノアールに
紹介されて通いだした学校がアカデミー・ジュリアン(Académie Julian)という私立の美術学校で、
この学校は後にピエール・ボナール(Pierre Bonnard)やモーリス・ドニ(Maurice Denis)
などのナビ派の画家を多く輩出しており、実際に梅原の作風もナビ派なのである。
『読書(Reading)』(1911年)
後期になるとナビ派と野獣派(フォーヴィズム)が重なったような作風になってくる。例えば、
アンリ・マティスのように計算された筆致であるならばともかく、梅原の場合は技術力不足による
偶然の賜物のように見える。
『薔薇とルノワルのブロンズ(Roses and a Bronze Figure by Renoir)』(1972年)
それでもルノアールの『パリスの審判(Le Jugement de Pâris)』(1914年)をモチーフに
した梅原龍三郎の『パリスの審判(The Judgement of Paris)』(1978年)は素晴らしい。
この時、梅原は90歳で、91歳まで仕事をしていたパブロ・ピカソに迫る仕事ぶりで、
その作風もなんとなくピカソの作風に似ているのではあるが、皮肉なことにあれほど好きだった
ルノアールの作風には最後まで近づけなかったのである。