ブロードウェイと銃弾
1994年/アメリカ
本物の‘アーティスト’
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
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ビジュアル
0点
音楽
0点
主人公の劇作家であるデヴィッド・シェインが最後になって‘アーティスト’を辞めてまでシェルドン・フレンダーの家まで押しかけて恋人のエレンを説得して縒りを戻そうと試みる理由は、初稿は自身で書き上げたものの、出演者の一人であるオリーブ・ニールの‘付き人’だったチーチのアドバイスによってだんだんと脚本が良くなっていき、ついにはオリーブの下手な演技によって舞台が台無しにならないように、自らボスの愛人であるオリーブを射殺し、その報復として仲間に撃たれた時でさえも、死に際にデヴィッドにセリフの変更を提案し、より良いものに仕上げようとするチーチに本物の‘アーティスト魂’を見せつけられ恐れをなしたからであろうが、死に際にチーチが変更しようとしたセリフは「私たちに子供がいたら」と子供が出来ないことが夫婦の不和の原因であると嘆いている舞台劇の主人公のシルビアに「私、妊娠したの」というもので、デヴィッドに早く家庭を持つ決心を促したのであろう。
「David,David」が「Do it, do it!」に聞こえるというギャグが秀逸。
2代目王者はハマカーン、うの弟は号泣(サンケイスポーツ) - goo ニュース
グループAの「ハマカーン」とグループCの「アルコ&ピース」は妥当だと思ったが、個人的
にはグループBの「千鳥」よりも「NON STYLE」の方が面白いと思った。決勝でも「千鳥」は
視聴者投票で一票を獲っていたが、ネタとしてはそれほど面白いとは思わなかった。
「アルコ&ピース」は最初に最高のネタをしてしまったために、決勝のネタは「ハマカーン」を
超えるようなインパクトが足りなかったのであるが、同じグループに「笑い飯」がいたために
最初から最高のネタを出さなければならなかったのであろう。「ハマカーン」は“男言葉”の
浜谷健司と“女言葉”の神田伸一郎のちぐはぐなやり取りが面白い。
人生万歳!
2009年/日本
科学的言説批判
総合
70点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
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ビジュアル
0点
音楽
0点
主人公の物理学者であるボリス・イェルニコフが終始カメラに向かって語る行為はあくまでも劇中ではボリスの妄想とされてはいるものの、ボリスに語りかけられる身としては正直あまり居心地が良くない。
見所としてはミシシッピ出身のメロディ・セント・アン・セレスティンがボリスと結婚したことで、決して聡明とはいえないメロディ本人も科学の専門用語を織り交ぜて日常会話をすることが出来てしまうという皮肉と、 再びボリスが自殺しようと自宅アパートの窓から飛び降りたものの下にいてボリスとぶつかり大怪我をしたヘレナの存在である。ヘレナが占い師であることを知り、自分が上から落下してくることを占いで分からなかったのかと訊いたボリスに対して、ヘレナは「分かっていたかもしれない」と答えに含みを持たせる。その答えによってボリスの科学的な思考方法はもろくも崩れてしまう。病院に入院するほどの怪我を負ってでもボリスとの出会いを選んだのならばヘレナの考え方はボリスの‘正論’を凌駕するものだったからであり、最後にはボリスは人生において才能などは何も役に立たないと言い、完全に‘偶然論者’になってしまっている。
ところでハワード・カミングスの「ヘテロは哀れだ。ゲイは性的興味を失わない」という発言は真実なのであろうか?
「PSY江南スタイル」を出版したク・ジャヒョン氏(聯合ニュース) - goo ニュース
先ごろPSYの音楽と人気を分析した著書「PSY江南スタイル」を出版した音楽評論家の
ク・ジャヒョンによるならば、「『江南スタイル』は単純なヒット曲ではありません。人気とは
別に音楽史に大きな変化をもたらしました。ユーモアの境地に達したのです」とし、大衆の前
で格好よく見せようとしていた既存の音楽ではなく、観客と楽しむ音楽が支持されるように
なったとしているのであるが、“観客と楽しむ音楽”というのならば、既に去年もLMFAOの
「Party Rock Anthem」という能天気なパーティ・チューンが世界的に大ヒットしており、
PSYの「江南スタイル」が「音楽史の流れを変えるきっかけ」を作ったわけではなく、
「江南スタイル」が大ヒットした理由は、ボストン大学やバークリー音楽大学で学んだ
音楽ビジネスのノウハウを活かしながら、本人が積極的にアメリカでプロモーション活動に
勤しんだ結果でしかない。もちろんその結果は大したものなのであるが、とかく比較される
坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」とは大ヒットした意味合いが違うと思う。
砂漠でサーモン・フィッシング
2011年/イギリス
‘場当たり的’の是非について
総合
50点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
「イエメンでサーモン・フィッシング」の計画を影で支えていた人物は、アフガニスタンでのモスクの誤爆によるイスラム教圏からイギリスへの批判をかわすために「良い話」を探していた首相広報担当官のパトリシア・マクスウェルなのであるが、「モスクの誤爆」と「イエメンで鮭釣り」が釣り合いの取れるような話なのかどうか疑問が残る。
さらにマクスウェルはアフガニスタンに派兵されて行方不明になっていたロバート・マイヤーズを、投資会社のコンサルタントでロバートの恋人であるハリエット・チェトウォド=タルボットとイエメンで劇的に再会させて話題作りを目論むのであるが、ヘリコプターから降りてきたロバートを見かけたハリエットが走り出して抱擁しあう肝心のシーンを新聞記者たちにカメラで撮らせようという計略も無く、ここでも中途半端な展開しか見せない。
主人公のアルフレッド・ジョーンズは博士号を持った立派な水産学者であり、イエメンでのサーモン・フィッシングは無理であると判断していたのであるが、その無謀なプロジェクトが、シャイフ・ムハンマドに反感を持つ者たちによる妨害以外には予想外に順調に進んでしまうことも呆気なく、別れ話の際に、メアリー・ジョーンズはアルフレッドに、「あなたは元の場所に戻ってくる」と言っており、それはタイトルにもなっているサーモンの習性を勘案するならば、当然縒りを戻すという意味になるはずなのだが、意外な展開で、メアリーの予言は何だったのかよく分からない。
「砂漠でサーモン・フィッシング」というアイデアの奇抜さにストーリーのディテールが追いついていないと思う。
僕の英会話「放置したのは自民政権」 維新・橋下氏(朝日新聞) - goo ニュース
「ゆとり教育を許してきたのは自民党政権だ。英語教育も、僕なんか10年たってしゃべれる
のはグッドモーニングだけ」という橋下徹は、まるで英語が喋れないことを学校教育が原因
のように語っている。「僕も国際会議に呼ばれる。中国人も韓国人もベトナム人もタイ人も
英語べらべら。僕だけ通訳がついている。みんなゲラゲラ笑いながら英語で会話している。
僕は通訳入っているから1分後にゲラゲラ笑う。何でこんな人間になってしまったのか」と
橋下は語っているが、ところで橋下の通訳をしているのは日本人ではないのか つまり
問題なのは学校教育ではなく、個人の資質や努力なのであり、それをあたかも民族の問題
に橋下はすり替えているのである。街頭演説が斯くも支離滅裂ならば橋下は英語を学習
する前に、日本語を学び直した方がいい。
丹下左膳餘話 百萬兩の壺('35)
1935年/日本
百萬両以上の価値について
総合
100点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
兄の柳生対馬守から結婚の祝いとして柳生源三郎が受け取った壺は、一見みすぼらしい代物で、通りがかりの2人の屑屋に売ってしまったのであるが、直後に百万両の在処が塗り込められた柳生家の家宝「こけ猿の壺」であることが分かり、物語が始まる。この「こけ猿の壺」はいわゆるマクガフィンとして機能するのであるが、壺に限らず、本作においては招き猫やダルマの人形がアクセントとして使われており(それは後の作品において紙風船にもなるのであるが)、置物だけでなく大小様々な弓矢の的や、クライマックスにおける大量の壺の出現など、山中貞雄監督の物にこだわる‘映画術’は、結局、取り戻した「こけ猿の壺」をそのまま手元に置いておくことで娑婆を謳歌する柳生源三郎の処世術そのものである。
柳生源三郎が的を大きくすることで弓の命中率を上げたことと張り合うかのように、丹下左膳が弓を使わずに左手で矢を投げて的に命中させるという、デタラメを競い合うラストシーンも文句のつけようがない。
浅尾が引退会見「気持ちプツリ切れた」結婚はまだ…ビーチバレー(スポーツ報知) - goo ニュース
日本のビーチバレーを一躍メジャーにした貢献者は間違いなく浅尾美和であろうし、浅尾の
存在がなければビーチバレーがここまで認知されることはなかったと思う。スポーツという
よりも“色もの”として見られてしまいがちなビーチバレーに対する偏見とも浅尾は戦って
いかなくてはならず、パイオニアとしてなかなか試合に専念できなかったことがトップに立て
なかった要因であるだろうから、このまま引退せざるを得ないことは気の毒だとは思うが、
以前、夏目三久がMCを務めていたテレビ朝日の「ナツメのオミミ」という番組にゲスト出演
していた時に随分とトークが上手かったから寧ろタレントの方が向いているのかもしれない。
女は二度生まれる
1961年/日本
孤独になる幸せ
総合
90点
ストーリー
0点
キャスト
0点
演出
0点
ビジュアル
0点
音楽
0点
『花吹く風』(1953年)の流れで本作を論じるならば、九段で芸者をしている主人公の小えんは幼い頃に両親を亡くしており、厳しい環境の中で男に身を委ねる芸者という職業を選択せざるを得なかったのであろう。一級建築士の筒井清正や、寿司屋の板前である野崎文夫や、実業家の矢島賢造などと逢瀬を楽しみながら、他方で大学生の牧純一郎や映画館で知り合った工員の泉山孝平とも商売抜きで楽しんでいた。
やがて小えんは筒井の妾になり、筒井の死によって筒井の妻や娘と知り合うことになり、子持ちの女性と結婚して板前からわさび生産者になった野崎が家族と楽しそうにしている姿を見かけ、他方、就職した牧が客として店に現れ、接待として自分を得意先の外国人に抱かせようとしたことで、牧には小えんに対して愛情が無かったことを知る。
孝平が行きたがっていた上高地へ一緒に行ったものの、小えんは孝平一人を行かせて自分は島々駅構内のベンチに一人腰掛けて作品は終わる。小えんがどのような思いを抱いて座っているのか定かではないが、男と関わらない安らぎを見つけたようにも見える。それまで旅行者で溢れていた駅に、小えん一人しかいなくなっていることは、冒頭のシーンで、小えんが筒井と寝ようとした際に、靖国神社から5時を告げる太鼓が鳴ったり、小えんが孝平とホテルで休憩を取る際に、何故か窓の外で工事をしていたりと、とにかく小えんにまとわりついていた喧騒が無くなっていることを鑑みても、孤児という出自からなんとなく人と関わることを義務のようにこなしていた小えんが、ようやく男を巡る煩わしさから逃れて改めて孤独になれた幸せというものを噛み締めているように見える。孤独を幸せに感じることができるようになったことこそが小えんが成長した証なのではないだろうか?
美代子容疑者自殺 兵庫県警は責任否定、監視体制に「落ち度はなかった」(産経新聞) - goo ニュース
角田美代子容疑者が12日に兵庫県警本部の留置施設で自殺したことに関して記者から
監視体制について問われると兵庫県警は「落ち度はなかった」と話しているが、就寝の際に
上の布団を首までかけていたために、角田がTシャツを首に巻いて自殺を試みた事に気づく
のが遅れたことは明らかで、基本的な監視が出来ていなかったことになる。それにしても
相当苦しかったはずなのであるが、取り乱すことなく体を布団から出さなかったという強靭な
忍耐力は認めざるを得ない。こうして余生を刑務所で過ごすことを潔しとしない希代のワル
は自ら命を絶ったことで、自分は麻原彰晃こと松本智津夫のような俗物ではないことを
証明したのである。