MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』

2016-12-23 00:44:29 | goo映画レビュー

原題:『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』
監督:サン・マー・メン
撮影:長田勇市
出演:デイブ平尾/ケネス伊藤/エディ藩/ルイズルイス加部/マモル・マヌー/ミッキー吉野
2004年/日本

早すぎた日本のブルースロックバンドについて

 ザ・ゴールデン・カップスというロックバンドに関して驚くべきことは、その音楽性よりもオリジナルメンバーの「イケメン」振りであろう。それに演奏テクニックの高さが加わるのだから人気が出ないはずがないのであるが、問題は楽曲である。当時からポール・バターフィールド・ブルース・バンド(Paul Butterfield Blues Band)のような渋めの楽曲をカヴァーしていたブルースバンドが間違って「GSブーム」に迷い込んでしまったようなものである。彼らと同じ頃活動していたバンド「パワーハウス」の元ヴォーカルだったCHIBO(竹村英司)の発言がメンバーたちの気持ちを代弁しているように思う。「芸能プロダクションは邪魔ですもん。歌謡曲の作詞、作曲家に何が分かるんだというのはあった。今になってみればいろいろあるもんね。」
 不本意ながら『長い髪の少女』や『愛する君に』を演奏したとしても、それがヒットしてバンドの存在を知ってもらえたことで、このような映画も制作されるほど長年愛される存在でいられるのである。あるいはフラワー・トラベリン・バンド(Flower Travellin' Band)のように海外に打って出るという選択もあったのだろうが、やはり問題は演奏能力以上にオリジナルの楽曲の有無にあったと思う。因みにフラワー・トラベリン・バンドはカナダのヒットチャートでトップ20入りを果たしたにも関わらず、作詞を担っていた奈良橋陽子と共に帰国してきたと奈良橋が証言しているのであるが、理由は明かされていない(2016年12月10日付スポーツニッポン「我が道」)。
 だからザ・ゴールデン・カップスは「早すぎた」ブルースロックバンドだったと思う。彼らが理想とするであろう「日本のブルースロックバンド」はもちろんキャロルではなく、サザンオールスターズでもなく、私見によるならばThe Yellow Monkey(ザ・イエロー・モンキー)のような気がする。


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『オケ老人!』

2016-12-22 00:58:14 | goo映画レビュー

原題:『オケ老人!』
監督:細川徹
脚本:細川徹
撮影:芦澤明子
出演:杏/黒島結菜/坂口健太郎/笹野高史/左とん平/小松政夫/藤田弓子/石倉三郎/光石研
2016年/日本

 下手な演奏の「加減」について

 主人公で梅が岡高校に赴任してきた数学教師の小山千鶴が間違えて入団していまった楽団、「梅が岡交響楽団」は老人ばかりが集う集団なのだが、要は実力の差によって優秀な演奏者たちが「梅が岡フィルハーモニー」として独立してしまったのである。「梅が岡交響楽団」では指揮者として監督を務める千鶴ではあるが、「梅が岡フィルハーモニー」のヴァイオリン奏者としての千鶴は完全な落ちこぼれであり、そこの対照性は面白い。
 結局千鶴はヴァイオリン奏者としては目が出ず、「梅が岡交響楽団」においても自分の教え方の悪さを痛感して、退団する決心をするのだが、前指揮者の野々村秀太郎に懇願され、著名な世界的指揮者のフィリップ・ロンバールの励ましもあり指揮者を続けることになる。
 初めてのコンサートは大ホールを貸切って、ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』の第二楽章、エルガーの『威風堂々』、ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』が演奏されることになるが、正直に言って演奏が「上手過ぎる」と思うのは、やはり『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアーズ監督 2016年)を観た後だからだと思う。個人的にはアマチュアはどこまで頑張れば楽しめるのかという問題を深く追求して欲しかったのであるが、例え、入場無料の田舎のアマチュアオーケストラのコンサートといってもあまりにも下手だったら映画として観賞に耐えられるかどうかという問題はある。
 オー・ヘンリーの『最後の一葉』に着想を得たギャグは面白かった。


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『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』

2016-12-21 00:42:22 | goo映画レビュー

原題:『Florence Foster Jenkins』
監督:スティーヴン・フリアーズ
脚本:ニコラス・マーティン
撮影:ダニー・コーエン
出演:メリル・ストリープ/ヒュー・グラント/サイモン・ヘルバーグ/レベッカ・フェルグソン
2016年/イギリス

 「アイドル」の歌声について

 主人公であるフローレンス・フォスター・ジェンキンスを日本人に対して分かりやすく例えるならば大屋政子といったところだろうが、この例えももはや通じないかもしれない。
 それにしても資産家のフローレンスの歌を貶す取り巻きはいないだろうし、ピアニストのコズメ・マクムーンさえ最初は陰で爆笑していたものの、伴奏者として雇われることになれば批判など出来ない。だから本来ならば妻の実力を熟知していた夫のシンクレア・ベイフィールドは取り巻きたちだけの小さなリサイタルだけに留めたかったのであろうが、あくまで本気のフローレンスは当然のことながら音楽の殿堂であるカーネギー・ホールで歌いたいという野心を持つ。だから妻の歌とカーネギーホールという場所のギャップをいかに埋めるかということがシンクレアの課題となり、約3000の客席をクラシック音楽に詳しくない退役軍人たちのための慰安コンサートにしたのであろうが、そんな軍人たちでさえフローレンスの歌の酷さは理解できて、大爆笑を取るのである。
 そんなフローレンスのカーネギー・ホールでのコンサートは今でも一番人気らしいのであるが、いわゆる「下手ウマ」として評価されているのか、あるいは「歌ネタ」のようなギャグとして評価されているのか、どのような基準による評価なのかがいまいちよく分からない。そもそもフローレンスを演じたメリル・ストリープが猛練習してフローレンスのように歌うその歌声は上手いと捉えるのか下手と捉えるのか、本作を観ている内に何が何だか分からなくなってくる。


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『シング・ストリート 未来への歌』

2016-12-20 00:14:06 | goo映画レビュー

原題:『Sing Street』
監督:ジョン・カーニー
脚本:ジョン・カーニー
撮影:ヤーロン・オーバック
出演:フェルディア・ウォルシュ=ピーロ/ルーシー・ボイントン/ジャック・レイナー
2016年/アイルランド・イギリス・アメリカ

ダブリンとロンドンの距離の遠さについて

 ロックバンドをメインとしたこのような物語は大好きな部類の作品であり、特にデュラン・デュラン(Duran Duran)を高く評価している点など共感する部分は多々あるのだが、それ故にどうしてもラストに疑問が残る。
 シング・ストリート高校主催のプロムでライブをした後に、主人公のコナー・"コズモ"・ロウラーとラフィーナは当てのないまま、モーターボートに乗ってロンドンに向かうのである。恋人同士が自分たちの才能を信じて都会でチャレンジする姿は確かにカッコいいのではあるが、ラフィーナはともかく、一緒にバンドの楽曲を制作していたエイモンをコナーが連れていかないのがどうも納得しかねる。これは例えばジョン・レノンがポール・マッカート二―を、あるいはミック・ジャガーがキース・リチャーズを連れていかないようなもので、確かにソロで成功する可能性も十分にあるのだが、バンドが成長する物語なのにバンドという形態の重要性が分かっていないのではないのかと勘繰ってしまうのである。
 それでもさすがに本作のオリジナル曲は良質ものばかりで、ここでは80年代のホール&オーツの曲を彷彿させる「Drive It Like You Stole It」の和訳をしておきたい。

「Drive It Like You Stole It」 Sing Street 日本語訳

君は敗残者たちの中から抜け出てきた僕のやり方に納得できない
僕が自分自身を変えたやり方を君は理解できないんだ
僕は君と一緒にこの諍いを終わらせようと努力したけれど
君はいつまでもこだわり
さらなる報復を続ける

僕は自由を取り戻すつもり
ここから飛び出し後ろを振り返ることはない
僕が明るいブルーのキャディラックでエンストを起こしていた時
天使が呼ぶ声を聞いたんだ

これは君の人生なのだから
君はどこにでも行ける
ハンドルを握って独り占めするべきなんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
前進あるのみ
これは君の人生なのだから
君は何にでもなれる
君はロックのリズムに合わせて運転することを学ぶべき
アクセルを踏んで
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ

僕たちは泥まみれで
自分たちがどこに向かっているのか分からない
あらゆる苦痛に直面し
軋轢が僕たちのペースを落とすけれど
世界が僕に金メダルを与えるからといって
僕がここで立ち止まっている訳がない
僕が置き去りにした君の埃は道に残されるだろう

僕は自由を取り戻し
態勢を整えるつもり
僕が明るいブルーのキャディラックでエンストを起こしていた時
天使が呼ぶ声を聞いたんだ

これは君の人生なのだから
君はどこにでも行ける
ハンドルを握って独り占めするべきなんだ
アクセルを踏んで
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ

これは君の人生なのだから
君はどこにでも行ける
ハンドルを握って独り占めするべきなんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
突き進め

これは君の人生なのだから
君は何にでもなれる
君はロックのリズムに合わせて運転することを学ぶべき
アクセルを踏んで
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ
いつの間にか自分の物のようにして運転するんだ


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『裸のキッス』

2016-12-19 00:11:02 | goo映画レビュー

原題:『The Naked Kiss』
監督:サミュエル・フラー
脚本:サミュエル・フラー
撮影:スタンリー・コルテス
出演:コンスタンス・タワーズ/アンソニー・ビスリー/マイケル・ダンテ/ヴァージニア・グレイ
1964年/アメリカ

 「裸のキッス」の威力について

 サミュエル・フラー監督作品は冒頭の「掴み」が秀逸で、例えば本作において主人公の娼婦のケリーがマネージャーの悪徳さを懲らしめてはみたものの、密かに睡眠薬を飲まされ、気がつくと丸坊主にされているのである。ヒロインがいきなり丸坊主になっている意表の付き方が上手いのである。
 それは1961年7月4日の出来事で、それから2年後、ケリーはグラントビルという小さな町に現われる。町の映画館では『ショック集団』が上映されている。すっかり髪の毛も元に戻ったケリーは娼婦を生業にしようと取り合えず地元警察のグリフを客に取る。グリフは町の端ならば見逃す約束をするのであるが、ケリーは心を入れ替えグラントビルの子供のための障害者施設の看護婦として働き始め、J・L・グラントという町の富豪と知り合う。ゲーテやバイロンやボードレールなどの詩人の話で盛り上がり、ケリーは自分の素性を明かすのであるが、それでもグラントからプロポーズされる。しかし結婚を目前としてケリーはグラントが親戚の女の子にいたずらしているところを目撃し、殴り殺してしまう。ケリーの素性を知っているグリフはケリーが犯人だと決めつけるのであるが、ケリーに世話になっていた看護婦たちの証言や、女の子本人の証言からケリーの正当防衛が認められる。しかしケリーは1964年1月5日に町を去っていくのであるが、その日は町の「障害者のためのピクニック」が催されるという横断幕が掲げられている。つまり娼婦という偏見に晒されたケリーにとって町の住人全員が「障害者」のように見えるという暗示であり、今まで見てきたようにサミュエル・フラー監督の文字に対するこだわりがゴダールと共鳴するように思う。
 ベートーヴェンの『ムーンライトソナタ』や『運命』なども流れ、妙にケリーの教養が高いことが気になるのだが、さらに気になることはケリーが娼婦だったことを知ってプロポーズしたグラントが幼児性愛者でもあり、つまり男性経験豊富な女性も無垢な女の子も愛せるグラントの変態性の高さで、あまりにも変態性が高すぎて逆にそれは普通の性癖ではないのかと思ってしまうのであるが、いかにもサミュエル・フラー監督が作り出すキャラクターではある。


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『ショック集団』

2016-12-18 00:25:06 | goo映画レビュー

原題:『Shock Corridor』
監督:サミュエル・フラー
脚本:サミュエル・フラー
撮影:スタンリー・コルテス
出演:ピーター・ブレック/コンスタンス・タワーズ/ジーン・エヴァンス/ジェームズ・ベスト
1963年/アメリカ

自由の女神像の「不自由さ」について

 原題は「衝撃的な廊下」という意味で、新聞記者のジョニー・バレットがスワニーという患者が亡くなった原因を探るために恋人のキャシ―を妹と偽り、近親相姦を犯そうとする精神異常者のフリをして精神病院に潜入する。冒頭はその練習風景から始まる。
 そこでジョニーは、かつて朝鮮戦争に従事し、今はゲティスバーグで南部連邦の将軍のジェブ・スチュアートのつもりでいるスチュアートと、クー・クラックス・クランに所属しているつもりの黒人のトレントと、原子物理学者であると同時に6歳の子供のような素振りを見せるボーデンたちから情報を収集し、スワニーは看護師のウィルキスに殺されたことを突き止める。
 しかしここから不思議なことが起こるのであるが、精神のバランスを崩しながらもようやくウィルキスの名前を思い出し、ジョニーはウィルキスと取っ組み合いながら自分が犯人であるとみんなの前で自白させることに成功するのだが、翌日(?)にキャシ―が面会に行くと、ジョニーは体が固まったまま何も喋らなくなっているのである。これはジョニーが狂気に陥ったというよりも、不祥事が表ざたににならないように病院長のクリストによって薬物を打たれたと考える方が自然であろう。
  作品の冒頭とラストでエウリピデス(Euripides)の言葉とされる「神が人類の滅亡を願う時、彼らを狂わせることが神が最初にすることだ(Whom God wishes to destroy he first makes mad.)」が引用され、さらに病院長の室内の壁に「Statue of Liberty to be Unveiled Today(今日、自由の女神像のヴェ―ルが取れる)」という見出しが書かれた新聞が貼られている。その記事とジョニーの凝り固まった状態が「自由」の女神と同じ状態であるという皮肉が込められているように思う。クリストが自由の女神像と同じようにジョニーの手を上げさせるところが洒落ている。因みにパートカラーで、その映像も狂っている。


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『チャイナ・ゲイト』

2016-12-17 00:25:33 | goo映画レビュー

原題:『China Gate』
監督:サミュエル・フラー
脚本:サミュエル・フラー
撮影:ジョゼフ・バイロック
出演:ジーン・バリー/アンジー・ディッキンソン/ナット・キング・コール/ポール・デュボブ
1957年/アメリカ

優しさを拒絶する人種差別主義者について

 1954年の第一次インドシナ戦争を舞台とした作品において冒頭で事実上敗北したフランスに対して「この作品を全てのフランス人に捧げる」とナレーションで言ってしまうあたりからサミュエル・フラー監督の面目躍如で、そのため本作はフランスで公開禁止になった。
 その後に、犬を隠し持っていた東洋系の男の子を見つけた老人が咎めようと逃げる男の子の後を追うのであるが、何故か男の子はフランス外人部隊の外国人たちの中に隠れている。間もなくその男の子は「ラッキー」と呼ばれる食堂を営んでいる、欧亜混血の女性のリアの5歳になる息子だと分かる。外見からリアが純粋の西洋人だと思い結婚していたものの、生まれてきた男の子が東洋人の顔立ちで2人とも捨ててしまったのはフランス外人部隊に所属するアメリカ人のブロック軍曹である。
 しかし中国国境にあるベトミン(ベトナム独立同盟会)の軍需品集積場に集められている大量の爆弾を爆破するよう命じられたブロックたちは、現地の地理に詳しいリアを同行させることになるのであるが、その途中でリアは古い友人のチャン少佐と再会する。
 ここが本作のミソなのであるが、チャン少佐はリアと5歳の息子をモスクワに連れて一緒に生活をしようと、いわばプロポーズをするのであるが、リアはチャン少佐を窓辺から突き落として、ブロックたちが仕掛けたダイナマイトの切られた配線をつなげて自爆するのである。つまり本作において一番の人種差別主義者は、「自爆テロ」を起こしてでも息子をアメリカ人にしようとしたリアなのであり、ここにサミュエル・フラー監督の「悪意」を感じるのである。


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『ボクの妻と結婚してください。』

2016-12-16 00:35:57 | goo映画レビュー

原題:『ボクの妻と結婚してください。』
監督:三宅喜重
脚本:金子ありさ
撮影:清久素延
出演:織田裕二/吉田羊/原田泰造/高島礼子/大杉漣/小堺一機/込江海翔/森カンナ
2016年/日本

平成版『生きる』とはならない理由について

 いわゆる「病気もの」の作品において医師から余命を告げられた患者の方が積極的に生き直すというストーリー展開は黒澤明監督の『生きる』(1952年)の主人公で市役所職員の渡辺勘治を思い出させる。渡辺は胃がんで本作の主人公の三村修治はすい臓がんという違いはあるが、すい臓がん以上に修治が患っていた深刻な病は「職業病」というもので、バラエティ番組の放送作家として多忙を極めていた修治は自分が亡くなった後も自身が培ってきた好奇心によって家族を楽しくさせられると確信していたのであろうが、ラストで明かされるように却って妻の彩子や中学校受験の準備をしていた陽一郎のみならず、全くの赤の他人であったインテリア会社社長の伊東正蔵まで巻き込んで迷惑をかけてしまっているのである。人気作家が陥りがちなのであるが、修治は自分が「スベる」可能性がないことはないことをもっと真剣に考えるべきだったのである。


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『人魚伝説』

2016-12-15 00:39:28 | goo映画レビュー

原題:『人魚伝説』
監督:池田敏春
脚本:西岡琢也
撮影:前田米造
出演:白都真理/江藤潤/清水健太郎/神田隆/青木義朗/宮口精二/宮下順子
1984年/日本

タイトルだけではもはやテーマが分からない作品の存在意義について

 タイトルで想像してしまうようなファンタジー作品とは正反対の「反原発」映画だったことに驚かされる。波摩という漁師町に住む29歳の主人公の佐伯啓介は妻の佐伯みぎわと共にアワビ取りで生計を立てていた。ある晩啓介は網番のために船で沖に出ていた際に釣り人が乗ったボートが爆破されるのを目撃するのであるが、翌日この出来事を伝えても誰も信じてくれなかった。
 死体を確認するためにみぎわと共に船で現場に向かい、みぎわが潜水して死体を探していると啓介の死体が船から落ちてきて、みぎわも水中銃で片腕を負傷する。何とか逃げ切ったみぎわが沖に上がって警官に助けを求めたら夫殺しの容疑がかけられており、警官を突き落とした後に再び逃走し、啓介の親友の宮本祥平の計らいで渡鹿野島に渡って身を潜めた。
 つまり啓介は原発反対派の下川殺しを目撃したために、レジャーランドを作るという口実で密かに原子力発電所建設を目論む土木会社の社長の宮本輝正と地元の衆議院議員の花岡の企みの障害として殺害されたのであり、原発推進派に取り込まれた警察はみぎわを夫殺しの容疑者扱いにしたのであるが、実はみぎわを助けてくれた宮本祥平も輝正の息子で、原発推進派なのである。
 渡鹿野島に宮本輝正と部下たちがやって来た際に、みぎわを殺害しようとした部下の一人が逆にみぎわの返り討ちに遭うのだが、何故か翌日に輝正たちが船に乗って帰ろうとしてもその殺害された部下を探す様子がなく、なおかつみぎわが泳いで島から輝正の自宅まで戻ってこれるところなど不自然なシーンを見かけるが、クライマックスにおけるみぎわの超人的なスタミナと風や水を操って機動隊を蹴散らすところなど、超能力者としてみぎわが描かれる。おそらく『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ監督 1976年)を参照していると思われる。
 本作が傑作であるとするならば、それは監督の力量という以上に主人公の佐伯みぎわを演じた当時25歳の白都真理の迫真の演技によりものであることは間違いない。この熱演こそ「伝説」である。


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『木乃伊の恋』

2016-12-14 00:35:42 | goo映画レビュー

原題:『木乃伊の恋』
監督:鈴木清順
脚本:田中陽造
撮影:森喜弘
出演:渡辺美佐子/川津祐介/浜村純/大和屋竺
1973年/日本

木乃伊を突き動かす「物語」について

 主人公の則武笙子は編集の仕事で国文学者の布川の家を訪れ、病気で床に伏せている布川の代わりに上田秋声の小説『春雨物語』の口語訳の口述筆記をしている。そしてその布川が語る物語によるストーリーが展開される。
 江戸時代あたりだろうか、主人公の正次は母親が心配するほど昼夜勉学に勤しんでいたのだが、家の周囲から鉦の音が聞こえるようになり、地面を掘り起こしてみると百余年前に入定した僧の木乃伊(ミイラ)を発見する。やがてその木乃伊が精気を取り戻し、村の住職に祈祷してもらうのだが、何故か祈祷中に住職が突然死してしまい、性欲の塊のような木乃伊に呆れた正次は木乃伊に「入定の定助」と名付けて下男として扱うようになる。
 色白になったら相手をしてやると言われた定助は白塗りで現れるのであるが、まともに相手にされず、定助の相手をしたのは夫を失って白痴と化した寡婦だけだった。7日7晩セックスに励み、8日目に寡婦は子供を産むのであるが、寡婦の体にまとわりついていたのは色狂いの無数の蛆のような菩薩たちで、逃走を図った定助は大八車と共に谷底に落ちて亡くなる。
 ようやく村が静けさを取り戻し正次は嫁を貰うことになるのだが、嫁と交わろうとするたびに鉦の音が聞こえるようになり、正次は嫁を抱くことができず嫁は実家に帰ってしまう。
 物語は現在に戻り、笙子は口述筆記を終える。笙子は海軍の軍人と結婚していたのであるが、その1年数カ月後に夫は防空壕の崩落で亡くなっており、既に12年の月日が流れていた。笙子を大学で教えていた布川は彼女の夫のことも知っており、2人が一緒に写っている写真を笙子に与えるのだが、布川に感じる性欲に身の危険を感じた笙子は布川の家を後にする。
 帰宅途中で笙子はある男と出会い、体を許すのであるが、サングラスを外したその男の顔は布川そっくりだった。その直後、布川の家の家政婦が、まるで現代の木乃伊のような布川の死を笙子に告げに来るのである。
 「木乃伊の恋」とは何なのか断定することは難しいのだが、「物語」の強さこそ人を魅了し、逆に言うならば「物語」を持たない人間は簡単に「物語」に飲み込まれてしまうということであろう。


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