知らないうちに冬も春も過ぎ、気がつけば梅雨入り。Duolingoで始めたフランス語も今日で、1,000日目となりました。システマティックに学んでいるわけではないので効率は悪いですが、幼児向けの本ぐらいなら読めるようになりました。聞き取りは3割わかればいい方で、話す方は全然です。
という感じで、毎日それなりに楽しく過ごしていますが、最近、職場でブラブラ歩いていると、無意識に両手を後ろに組んでいることに気づきました。運転する時は曇りの日でもサングラスがないと辛くなりました。いつの間にか、くしゃみの音も大きくなり、立ち上がる時は膝に手をかけて掛け声まで発している時もあります。どうも進行性の病態、Ossanninattans Gravis Progressivaの兆候のようです。年月が過ぎるのは速いです。
と言うことで、この疾患の進行抑制のため、フランス語以外には、ピアノ練習と聖書の読書という日々のノルマを課しています。聖書の方は旧約の最初から順番にぼちぼち読んでますけど、東洋人に生まれ現代社会で育った私には理解できないようなエピソードばかりで、聖書の「神」はロクでもない奴だなとつい思ってしまいます。
しかし、その凡人には理解困難な「神」の振る舞いを、「神は絶対的存在である」という前提のもとに、どのように解釈し、そこから何を学ぶか、というのがおそらく聖書を読む意味なのでしょう。
私は聖書を単なる物語として読んでおるわけですが、それでも不可解な神の言葉や行動について考えてしまうことはしばしばあります。その極端な例がヨブ記に記されている神のヨブへの仕打ちでしょう。神がサタンと賭けをして、信仰厚いヨブに数々の苦難を与えてヨブの信仰を試すという話で、普通に読むと神のクズさ加減に辟易とします。これはキリスト教実践者の中でも最も解釈が難しいと言われている話だそうです。この古い物語の一つ一つのエピソードに隠されている意味を考えていく材料として聖書があるのだと思えば、聖書を読むことは中国仏教での禅問答に触れることに近いものなのかも知れません。
さて、読書の方は、ようやく創世記のあとの出エジプト記を半ばまで来たところです。出エジプト記は、モーゼがエジプトで奴隷となっていたヘブライ人を率いて、エジプトを脱出し、シナイ山で神の降臨とともに十戒を授けられるという旧約での山場の章です。歌舞伎で言えば「勧進帳」のようなものでしょうか。
聖書には神が戒律を与えた時に、戒律を破った場合のことをいろいろな場合に分けてしつこく記載されているのですけど、その中心の考えはこの章の10-23辺りに示されている、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、、、、によって償われなければならない」という言葉に代表される「罪と罰」の関係ではないかと思います。神は、神とヘブライ人との間の取り決めにも同様に義務を強制しそれに反した場合の罰を定めています。そして、シナイ山に入る前、モーゼは祭壇を設け、雄牛を捧げて、その血を鉢に取り祭壇と人々に注ぎかけ「これは主があなたがたと結ばれる契約の血である」と言うのです。つまりこの「神」は人間を創造し、絶対的権力を持つものではあるが、人間は神とはあくまで独立した存在であり、神の権力と人間の権利の行使は「契約」に基づいているのです。
これは東洋人の私にとっては、非常に違和感を覚えざるを得ないところで、ここでの神とヘブライ人の関係は、喩えて言うならブラック個人企業のワンマン社長と社員のような関係ではないかと感じます。社長は数々の厳しい業務と制約を社員に一方的に課すわけですが、言いつけ通りに仕事をすれば社員には給料は支払われます。
ここに記されている神の言葉が現代の社会でも意味を成す比喩的表現であるとすると、例えば下のような言葉はどう解釈すればいいのでしょうか?
あなたは子やぎを、その母の乳で煮てはならない (出エジプト記 23-19)
あなたの豊かな穀物とあふれる酒とを捧げるにためらってはならない。あなたのういごを私にささげなければならない (出エジプト記 23-26)
そんなことを考えながら週末はビール飲んでます。